8 屋敷に住む人々
モレオは小さな町だったが、どこも綺麗で清潔で、豊かな場所だった。人々が身に着けている衣類も質のいいものだったし、家畜の毛艶もよく、どの民家も色鮮やかな花や織物で飾られており、生活水準の高さがうかがえた。
「ここは、グレッドの産地として有名な街なんだ。グレッドの実はそのまま食べてもおいしいし、干して保存食にしたり、発酵させてワインにしたり…葉は染物の染料として使える。残った部分は家畜の餌や畑の肥料にもなるんだ。だから、他の町からも行商人たちがたくさん買い付けにやってくる。グレッドは、モレオにとっていちばんの財源なんだよ。」
町を歩きながら、アルフレドはそんなことを説明した。ロイは聞くでもなしにその声を聞きながら、適当な相槌を打っていた。アルフレドはときどき立ち止まって辺りを見渡したり、また来た道を戻ったりしながら、どこかを目指して歩いている様子だった。
「どこへ行くのさ?」
ロイがしびれを切らして聞くと、アルフレドは振り向きもせず答えた。
「行ったろ、僕の知り合いの家さ。」
血と泥にまみれたぼろぼろの服を着た二人の少年は、美しい町の中で嫌というほど目立った。ロイはいたたまれずに、アルフレドについて歩くしかなかった。
アルフレドは、青々と茂った生垣を見つけると、あっと声を上げた。そして、その生垣の隙間に体を滑り込ませて、向こう側へ行ってしまった。
「おい!アルフレド……!」
ロイは迷ったが、意を決して同じように生垣の隙間を潜った。足の裏の感触が、冷たい石畳から柔らかく湿った何かに変わった。立ち上がってみると、生垣に囲まれた広い芝生が目の前に広がった。そこは赤レンガを積まれて作られた花壇が規則正しく並んでいて、花壇の中には色とりどりの繊細なレースをくしゃくしゃにしたような花びらをつけた花が咲き乱れていた。
その広場の奥には、同じような花をつけた長い蔦で作られたアーチが3つ並んで細い道を作っており、その向こう側にはさらに広い空間があるように見えた。ただ、ここはどう見ても誰かの土地だった。ロイは先を行くアルフレドに非難がましい視線を向け、慌てて追いかけた。
「おい、勝手に入ったら捕まっちゃうぞ。」
アルフレドはロイの方を振り返って、呑気に笑った。
「平気だよ。いいから、ついてこい。」
悠々と歩いていくアルフレドに困り果てたロイは、その場で地団太を踏みそうになるのをこらえて、肩身を狭くして後を追った。
3つの花のアーチをくぐると、やはりその先には白い土で固められた広場があり、大きな建物がどんと構えていた。建物は平屋の屋敷で、壁は眩しいほど真っ白い土のようなもので固められており、入り口や建物脇の屋根を支える四角柱の柱だけが、クリーム色の煉瓦で作られていた。その支えられている突き出した屋根の下には黒々とした日陰ができており、そこに白い小さなテーブルと椅子が2脚置いてある。昔、貴族の屋敷の庭で、あんな場所を見たことがあった。貴族たちは日中、あのような居心地のいい場所で、ボードゲームやワインを嗜みながらのんびりと過ごすのが大好きなのだ。暇さえあれば残飯をあさり食料調達に明け暮れていたロイにとっては、想像もつかない生活だった。
そんなことを考えていると、建物から人間が二人出てきたので、ロイは息をのんだ。二人とも背の高い大柄な男で、柔らかなシャツとズボンを身に着け、よく磨かれた鞘を腰に提げている。一人は赤髪の笑顔を浮かべた青年、もう一人は黒髪の威圧感のある青年だった。
すると、アルフレドが突然飛び出して行った。ロイが止める間もなく、アルフレドは2人の男の元へ駆け寄っていく。二人の男はすぐにアルフレドとロイに気が付いて、つっと腰の柄に触れた。しかしそれよりも早く、アルフレドが口を開いた。
「クレー、タルフ。ぼくだ。アルフレドだ。頼む、忘れたなんて言わないでくれ。」
2人の青年は驚きのあまり目を丸くしてアルフレドをしばらく凝視していた。そして、赤髪の青年がぽつりと、アルフレドさま、と言葉をこぼした。
それを皮切りに、2人の青年は、速やかに地面に片膝をつき、アルフレドに頭を下げた。
「アルフレド様。きっと、ご無事だと信じておりました。」
「どうぞ中へ。我々が命に代えてもお守りします。」
アルフレドとロイは、二人の青年に案内され、屋敷の中へと通された。屋敷の扉を開けるや否や、赤髪のクレーという青年が声を張り上げた。
「みな、集まってくれ!アルフレド様がお戻りになられた!」
すると屋敷のいたるところから嬉しげなどよめきが響きわたり、廊下のあちこちから人間が何人も現れた。エプロンをつけた恰幅のいい女、地味なワンピースの若い女たち、鍬を持ち麦わら帽子をかぶった白髪の男、練習着を着たロイと同じくらいの年の少年たち、そして立派な装いの、風格のある金髪の大男。
皆が見守る中、大男がゆったりとした足取りで、アルフレドの前まで歩いてきた。
「無事だったか。」
大男にそう声をかけられると、アルフレドは懐からサンクォーツの剣を出して、しっかりと大男に見せた。
「この剣が……守ってくださいました。」
「闇があるという事は、光があるという事。穢れには、必ず浄化できるすべがある。人を喰らうニイルは、炎で浄化されるのだ。よく戦ったな、アルフレド。その剣があれば、ニイルどもがここまで追って来ようとも、勝機はある。」
ロイはぎくりとしてアルフレドを見た。すると、アルフレドもロイを振り返った。そして、ようやく大男がロイを見た。こいつは誰だ、と尋ねんばかりにロイを見つめるその薄いブルーの瞳に、ロイは氷づけにされたように縛り付けられた。
「叔父様。彼は……ロイは、ここまで僕と一緒に逃げてきた仲間で、命の恩人です。ぼくは、ロイがいなかったら、きっと森の中で死んでいたでしょう。見ての通り、彼はレッサーニイルです。でも、ぼくの仲間なんです。彼もいっしょに、ここで助けてほしいんです。」
大男はじろりとロイを観察した。ロイはされるがままに立ち尽くすしかなかった。しかしそう時間はかからずに、大男は1度だけ頷いた。
「いいだろう。だが、もしもの時は、アルフレド。お前がその剣で責任を取るのだ。」
アルフレドは大男を見上げたが、その目に戸惑いはなかった。
「わかっています。」
ひとまずアルフレドとロイは風呂に入れられ、体にこびりついた血や泥を洗い流したところで、清潔な服をもらった。すっきりとしたロイが広間へ通されると、地味なワンピースを着た若い女がやってきて、ぎこちない作り笑いをロイに向けた。
「お茶をお淹れしましょうか、それとも何かお召し上がりになりますか?」
そのかしこまった口調がおかしくて、ロイは胸の奥がむずがゆくなった。
「ええと……おなかが空いたから……」
そう言い淀むと、女はぎくりとしたように、顔をこわばらせた。
「は、はい……では、何かご用意いたします。」
女は口早に言い、逃げるように踵を返した。その背中で結ばれたエプロンの紐に、ロイの小指ほどもある虫の幼虫がくっついているのを見つけて、ロイはあっ、と思った。同時に、ほとんど無意識に、その幼虫を摘み上げようと、翻ったエプロンの紐を掴んだ。
「ちょっと待って、虫が……」
そう言いかけたロイの言葉を、女のけたたましい悲鳴がかき消した。女はその場に尻餅をついて、いやいやと悲鳴を上げ続け、頬を涙ですっかり濡らし、髪を振り乱して狼狽えた。ロイは女のあまりにも突拍子のない動揺具合に驚いて、唖然と立ち尽くしてしまった。
すぐに、広間の4つある扉の全てから、人々が駆け込んできた。彼らは手に鍬や包丁を握り、悍ましい形相でロイを睨みつけている。ロイはどうしていいかわからず、女がどうしてこんなに理性を失ってしまったのかもわからず、両手を挙げてじりじりと女から離れた。
女の悲鳴から辛うじて聞き取れた言葉は、食べないで、許して、という懇願だった。人々の目が疑わしいものを見る態度でロイに向けられている。
そのとき、人々の間をぬって、金の髪の少年が現れた。アルフレドだ。ロイは安堵して肩の力が抜けた。
「どうしたんだ。」
アルフレドは大股歩きでロイと女の間に歩み寄りながら尋ねた。女は涙でぬれた顔をアルフレドに向けた。
「私を食べようと」
女はおそるおそるロイを指さして言う。アルフレドが訝しげに眉を寄せ、ロイと顔を見合わせた。ロイは瞳孔が開いて真ん丸になった目をしたまま、小さく顔を横に振った。
「おれ、人間なんか食べないよ。」
ロイが言うと、アルフレドはわかっていると言いたげに何度か頷いた。
「皆、聞いてくれ。ロイは、自分の食料も少ないのに、僕に食べ物を分け与えてくれたんだ。本当にロイが人間を食べるなら、僕はとっくに彼の腹の中にいた。そうだろう?変な迷信に惑わされるな。皆、仕事に戻ってくれ。」
アルフレドがそう言うと、皆それぞれの持ち場に戻って行った。
「君も、もう下がってくれていいよ。」
アルフレドは未だ床に尻餅をついている女を起こしてやり、出口へと向かわせた。女はエプロンで涙をぬぐいながら部屋を出て行った。
「おれ、本当にここにいていいの?」
ロイは決まりが悪そうに尋ねた。しかし、アルフレドはあっけらかんとしたものだった。
「いいんだよ。気にするなよ。」
そう言いながら部屋を出ていくアルフレドの背中に、ロイは慌てて声をかけた。
「どこに行くんだ?」
「叔父様に呼ばれてるんだ。城であったことを、話さなきゃならない。」
その言葉を聞いて、ロイは先ほどの眼光鋭い大男を思い出した。自分もアルフレドと共に行くべきか迷ったが、できるだけあの大男には近づきたくないとも思った。
そんなロイの心情を読み取ったのか、アルフレドは扉に手をかけたまま振り返って言った。
「君は、屋敷の中でも見て回っていてくれよ。できるだけ早く、ここに馴染んだ方がいいだろ?」
ロイの返事を待たずに、アルフレドは扉を閉めて行ってしまった。先ほどの騒ぎを思うと一人で出歩くのは気が進まなかったが、ここでアルフレドを待つのも退屈なので、結局ロイは一人で広間を出た。
屋敷の中は、たくさんの人の気配がしたが、とても静かだった。窓の外で風が葉を揺らす音が聞こえてくるほどだ。ロイは、薄暗い影に白い陽光が規則正しく差し込んで白と黒の縞模様になっている床を眺めながら、長い廊下を歩いた。
ふと前から、静かな足音がして顔を上げた。足音の主は、すぐそこの曲がり角の先からこちらへ向かってきているようだった。軽い足音、狭い歩幅からして、女だと思った。ロイは万が一のことを考えて、その場に立ち止った。間もなくして、足音の主が角から現れた。地味なワンピースを着た女だったが、先ほどの騒ぎの時の女とは違う人物だとすぐに気が付いた。この女はまだ少女と呼べる年頃で、ロイとそう変わらない齢のように見えた。なにより、地味なワンピースの上で、柔らかな赤茶の長いおさげがふたつ揺れているのが印象的だった。
少女はロイを見つけると、「あら」と声を出した。泣くか、逃げるか、と身構えたロイに、少女はけろっとした笑顔を向けた。
「ちょうどよかった。ねえ、ちょっと一緒に来てくださる?」
ロイはあっけにとられ、頷いた。少女は踵を返して、今来た道を戻って行った。
「あ、あたしはネリカ。あのね、ちょうど今、あなたの部屋の準備が整ったの。ちょうどいいから、案内させてね。」
ネリカは、少し気の強そうな面持ちの少女だった。その容姿に倣って、口調もはきはきとして、言葉を挟めぬ迫力があった。薄暗くぼやけた廊下の中で、ネリカの明るい声だけがはっきりと輪郭を持ったもののように思えた。耳を傾けずとも、ネリカの声はスッと耳の奥まで何の抵抗も無しに入ってきた。
「ここよ。」
廊下の途中で足を止めたネリカは、黒々と磨かれた木の扉に手をかけた。扉は軽い音をたてて開いた。
「ね、どう?良いお部屋でしょ。」
ネリカは自分のことのように嬉しそうにして、ロイを部屋の中へ案内した。
部屋は広すぎず狭すぎず、しかし整然と家具が並んでいるおかげか、開放的な雰囲気があった。淡い緑の壁紙と深い色に磨きこまれた黒々としたフローリングは温もりを感じる品がある。部屋には、一人用のベッド、その脇にはサイドテーブル、キャビネット、クローゼット、そして小さな机、その隣に備え付けられたように小さな本棚があった。キャビネットの上には水差しも用意されている。
「おれは貴族じゃないんだけど……」
ロイがそう呟くと、ネリカがふきだした。
「最高の褒め言葉だわ。でもね、貴族の部屋はこんなものじゃないのよ。」
ネリカはそう言いながら、机に歩み寄った。
「ほら。本もいくつかあるの。このビューロで書き物もできるわよ。」
ロイは、この机はビューロというのか、と考えながら、困った様子で答えた。
「おれ、読み書きはできないから……」
「あら、それは失礼。」
ネリカは全く悪びれない様子で、ぺろりと赤い舌を出した。
「じゃ、この際誰かに教わったら?字の読み書きくらいなら誰でも教えてくれるわよ。どうせ暇なんだから。」
あまりに歯に衣着せぬネリカの物言いに、ロイは少し面食らった。
「うん……。あのさ、君はおれのこと、怖くないの?」
「そうねえ。」
ネリカは呑気に窓枠に寄りかかった。
「怖くはないわね。」
そう肩を竦めて、ネリカは続ける。
「だって、あなたって子猫みたいなんだもの。」
「ど……どういう意味だよ。」
「そういうところよ。ちょっと驚くとすぐ目がまんまるになるんだもの。」
ネリカにそう言われて、確かに自分が驚いていることに気が付いた。そして恥ずかしくなって、一生懸命気持ちを落ち着かせた。
「それに、もしあなたが人間を食べちゃうような獣なら、アルフレド様が退治してくださるんでしょ?安心だわ。」
その声があまりにも安心しきっていたので、ロイは毒気を抜かれた。
「あいつって、そんなにすごい奴なのか?」
ロイの問いに、今度はネリカが目を丸くした。
「うそお、あなた、アルフレド様がどういう方なのか知らないの?一緒に逃げてきたのに?」
「知らないよ。あ、でも……人間で偉い奴なんだろ?」
「あのねえ、アルフレド様は、この国で王位継承権第二位の、王子様なの!偉いなんてものじゃないのよ。」
人間の権力には明るくないが、ネリカの様子から、アルフレドが自分の予想よりもとんでもなく偉い人間なのだろうということは察した。それから確かに思い返すと、アルフレドは見かけによらず気骨のある奴だし、物怖じしない奴だったな、と思った。
「それにね、アルフレド様は、優れた剣士でもあるのよ。あなた、城下町にいたんでしょう?噂を聞いたこともなかったの?」
「まったく」
ロイが頭を振ると、ネリカは呆れたと言わんばかりにため息を吐いた。
「そうだわ。剣と言えば、この屋敷は騎士見習いの子たちが修行をするところでもあるのよ。白い練習着を着た男の子たちを見たでしょ?」
「ああ。」
ロイは、この屋敷に入った時に集合した面々を思い出しながら頷いた。
「このお屋敷の旦那様…アグロ様はね、王様の弟で、高名な騎士でもあるのよ。このあたりの地域の守護を任されているの。それで、この地域に住む騎士にあこがれた男の子たちが、弟子入りを願ってこの屋敷にやってくるわけ。」
ロイが、へえ、と相槌を打つと、ネリカは窓の外に視線を投げた。
「今も、裏庭で稽古をしてるんじゃないかしら。皆あなたと同じくらいの年の男の子だし、仲良くなれるんじゃないかしら?行ってみたら?」
ロイが黙っていると、ネリカはロイをちらりと見た。
「ごめんね。あたしはこれでも結構忙しいの。期待の新人メイドなのよ。」
嘘か本当かわからない調子でそう言い残して、ネリカはロイを置き去りに部屋を出て行ってしまった。残されたロイは、ネリカが言った通り、屋敷の裏庭を目指すことにした。
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