10 丘に捧げた決意
ロイはその晩、初めてベッドで眠った。
シーツの清潔なにおいのせいで落ち着かず、なかなか寝付けないと思っていたが、いつの間にか眠りに落ちたらしく、目が覚めると部屋いっぱいに白い光が差し込んでいた。
ベッドの脇に用意されていたシャツとズボンに着替え、水面器に張られた水で顔を洗って、ロイは自室を後にした。
リシューから、食事は毎回騎士見習いたちと一緒に広間でとるようにと言われていたので、ロイは早速広間へと向かった。ちょうど少年たちが席に着き始めたところで、ロイも末席につき、サラダと乾いたパンとミルクをいただいた。昨日の騒ぎの余韻がまだ少年たちの胸に蟠りを残しているのか、今朝の食事は終始静かに進んだ。
食事を終えると早速、少年たちは朝の稽古へ向かう。そうなるとロイはやっと、この屋敷での自分の立場が不明であることに気が付いた。
当てもなく廊下を歩いていると、少年たちの掛け声が柔らかな風に乗って響いてきた。窓の外を見ると、クレーに指導を受けながら剣をふるう少年たちの姿が見えた。皆、昨晩パンを投げ合ってふざけていた悪童と同じだとはとても思えないほど真剣な面持ちで、額に汗を光らせながら稽古に励んでいる。
ロイはそんな彼らを見て、にわかに羨ましくなった。
ふっと、鼻先にしびれるような刺激臭を感じて、ロイは我に返った。廊下の先から誰かが近づいてきているようだった。トコトコと軽い足音が響いてくる。それに比例して、刺激臭も強くなり、ロイはたまらず鼻をつまんだ。
刺激臭は、甘ったるいにおいの中に棘を塗したような不快さをロイに与えた。その場を逃げ出したい気持ちと、においの原因を突き止めたい気持ちがせめぎ合い、ロイはなんとかその場に踏みとどまることを決意した。そうして廊下の角から、ようやくその人物が姿を現した。
それは花篭を抱えたネリカだった。ロイは目を丸くした。ネリカもロイを見つけて、驚いた様子で目を瞬いて、小さく笑いだした。
「あなた、生ゴミをあさろうとしてリシューさんに見つかった野良猫みたいな顔してるわよ。」
ロイは恥ずかしくなって姿勢を正した。しかし、ネリカが昨晩の騒ぎを引きずっていない様子を見て、安堵もした。
「鼻なんてつまんでどうしたの?」
ネリカが歩み寄ってくると、ロイはそのにおいの原因に気が付いた。それはネリカが抱えている籠いっぱいに積まれている、淡い紅色の花をつけたハーブだった。
「それ、なに?」
ロイが顔をゆがめ、つまった声で尋ねると、ネリカはハーブをひと房持ち上げて見せた。
「これ?ポワリークよ。スープの香りづけにするの。良い香りでしょう?」
そう言ってネリカがロイの鼻先に花を翳すので、ロイは慌ててそっぽを向いた。するとネリカは、あっ、と思い出したように声を上げた。
「これ、猫避けにもなるのよ。もしかしたら、ニイルにも効くのかも……。」
そう呟いて、目を丸くしたロイを見て、ネリカはまた笑い出した。腹を抱え、目に涙を滲ませ、息苦しそうにしながらひとしきり笑うと、ネリカはやっと深呼吸をして落ち着いた。
「ごめんなさい。でも、こんなに笑ったのは久しぶりだわ。」
そう言われてしまうと悪い気はしなかったが、ロイはまだ刺激臭のために顔をしかめていた。
「ね、そんなに怒らないでよ。馬鹿にしたわけじゃないのよ。」
「べつに、怒ってるわけじゃないよ。ただそのにおいが……だめだ、近寄らないで。」
ロイがよろよろと遠ざかったので、ネリカは困った顔で佇んだ。
「でも私、そっちに用があるのよ。すれ違う間くらい我慢してくれないかしら?」
「わかった……、じゃ、早く行ってくれ。」
ロイは窓の方を向いて、ネリカに後ろを通るように促した。すぐにネリカは駆け足でロイの後ろを通り過ぎた。その直後、甘ったるい残り香がロイの鼻を刺した。
するとロイは、ふと、その香りに覚えがあるように感じた。
「ネリカ!」
ロイは咄嗟に、走り去るネリカを呼び止めた。ネリカは軽い足取りで立ち止まり、おさげを揺らして振り返る。
「その花、何ていうんだっけ?」
ネリカは口の端に手を当てて、良く通る声で答えた。
「ポワリーク、よ。大丈夫、あなたのスープには入れないから!」
甘い残り香の舞う廊下で、ロイはネリカの走り去る小さな背中を見送って、記憶をたどって考え込んだ。やはり何度考えても、あのにおいに似ている。カタコンベや森で感じた、あのえずくような甘いにおい。しかしあのにおいのほうが、はるかに強力できつく、しかし消えるのは早かった。やがて頭痛がしてきたので、ロイは足早ににおいの薄い方へと立ち去った。
ロイが廊下を抜けて玄関ホールにやってくると、そこにはタルフがいた。何かを探すように辺りを見渡していたタルフが、そのしかめ面をロイに向けて何か言いたげな顔をしたので、ロイもその場に立ち止った。
「探したぞ」
と、タルフは不機嫌そうに言った。
「アグロ様がお呼びだ。ついてこい。」
タルフはロイの返事を待たず、さっさと歩きだした。これにはロイも異を唱えられずに、後をついていくことにした。
屋敷の奥の奥にある重厚な扉の前まで連れてこられると、タルフは扉をノックした。
「入れ。」
低く響くような声が返ってきて、タルフは静かに扉を開けて、先に部屋の中へ入って行った。ロイも後ろからついていくと、そこはロイがこの屋敷の中で見たどの部屋よりも華美で、品の良い調度品が定められたように飾られていた。奥の壁の天井近くに適度に陽光を取り込む窓があり、部屋の中は暗くも眩しくもなかった。壁には他にも誰かの肖像画や、赤と白を基調とした旗や、美しい装飾が彫られた、バターさえ切ることが難しそうな細身の剣も飾られている。
部屋の中にはあの強面の大男――アグロと、そしてアルフレドがいた。タルフはアグロの前にロイを進ませ、自分は扉の前に立った。
「さて、名は何だったか。」
アグロがじろりとロイを見下ろして言った。
「ロイです。」
ロイが答えても、アグロはとくに返事を返すでもなく、まるで見定めるようにロイを見続けた。
「レッサーニイルというのは、ここまで人間と見分けがつかないのだな。」
その声の調子は侮辱しているようにも受け取れたが、ロイは黙って否定も肯定もしなかった。
「おれを呼んでるって聞いたんだ。」
「そうだ。」
ロイはにわかに緊張した。アグロが同じ部屋の中にいるだけで、空気がいつもより重たく感じた。傍にいるアルフレドが、気遣うようにロイに視線をやった。
「お前は、アルフレドと共に城下町から逃げ延びた生き残りだろう。あの日、城下町で起こったことで知っていることを全て話せ。」
アグロは執務机の向こう側に回り、何かの文書を手に取って、ぱらぱらとめくり始めた。その態度を見るとロイの話に興味などなさそうに思えたが、ロイが何から話すべきか迷っていると、アグロは急かすように鋭い眼光でロイを睨みつけるのだった。
「おれは……あの日、城が燃えているのを見たんだ。それで騒ぎに気づいて、仲間と逃げることになった。町では人間たちが乱闘を始めていたから、下水道を通って町を出ることにした。そこで、怪我をしてるアルフレドを見つけて……。」
そこまで話してロイがアルフレドを見ると、アルフレドは先を促すように頷いた。
「そこで……アルフレドがあの剣で、おれの仲間に斬りかかった。そこで、ちょっとやりあって……で、おれたちはアルフレドを捕えて、一緒に町を出た。」
ロイがそう言い切ると、アグロは文書を執務机の上に戻し、口を開いた。
「その後は?」
間髪入れず先を促され、ロイは一瞬口ごもった。
「モレオに着くまでにあったことを全て話すんだ。」
「あ……ええと、それで、おれたちは北のカタコンベへ逃げた。他に逃げ延びた、おれの仲間がいると思って。そこでやっぱり仲間と合流して、皆の怪我が治るまで、何日か過ごした。そして出発しようとした日の夜……、ニイルが襲ってきたんだ。」
ロイの言葉で、アグロが片眉を上げた。何か質問があるかとロイが言葉を区切ったが、アグロは先を促した。
「まあいい。それでどうした?」
「おれたちは、ニイルに殺されそうになった。そして、アルフレドがまた、あの剣でやってくれたんだ。ニイルは逃げたけど、おれの仲間はそのときに殺された……生き残ったおれとアルフレドで、町の西の廃村に向かうことにした。」
ちょうどそのとき扉がノックされ、アグロがタルフに目で合図をした。タルフが頷いて扉を開けると、クレーが恭しく部屋に入って来た。アグロはさして気にした様子もなく、ロイに「続けろ」と言った。
「……ええと、廃村には、他に逃げたおれの仲間がいるはずだった。でも、おれたちがついたときにはもう、殺されていた……ニイルに。そして行く当てをなくしたおれに、アルフレドが言ったんだ。この町に一緒に来てくれって。」
「それでふたりで森を抜けて、町のはずれにある薬草師の家にたどり着いたんです。そうだよな、ロイ?」
急にアルフレドが口を挟んでロイの話を締めくくった。ロイは違和感を覚えながらも、アルフレドの言葉に嘘はないので、思わずうなずいた。
「薬草師…フラヤか。」
アグロは納得したように呟いた。それから考え込むように深く息を吐き、じろりとロイを見た。
「カタコンベで襲ってきたニイルの数は?どんな奴だった。」
「ひとり……真っ黒な髪で、赤い目をした、大きい奴だった。」
「ひとりだと?」
ロイは叱られている気分になって閉口した。
「貴様らレッサーニイルは、何人いたんだ。」
「おれと、ニックとヒューイ。三人だ。」
「ニイル一匹、レッサーニイル三人がかりで止められぬのか。しかもそれを、アルフレド一人が撃退できたと?」
ロイは、アグロの目が自分を疑わしく思っているように感じた。するとアルフレドが進み出て、ロイを庇うように立った。
「撃退と言っても、僕は一撃喰らわせただけです、叔父様。サンクォーツの剣は、想像以上にニイルに効果があります。」
「ふん……だが、劣等種といえど、レッサーニイルは人間の数倍の筋力があるはずではないか。それが三人がかりで二人も殺されたというのに、半人前のアルフレドが一人で撃退できるものか。」
「しかし、事実です。ぼくもそこにいたんです。ニイルは……猛獣のように力が強く、影のように素早かった。ぼくだってこの剣が無かったら、叔父様の言う通り到底敵わなかったでしょう。ぼく一人で戦ったのではなく、皆で立ち向かったからこそ、ぼくたちだけでも生き残ることができたのです。」
アルフレドが真剣な面持ちで説得すると、アグロはふんと鼻を鳴らした。
「到底信じられんな。その仲間とやらが、一芝居打ったというのでなければな。」
「……どういう意味ですか?」
震えるアルフレドの声の後ろで、ロイはにわかに顔が熱くなるのを感じた。
「こいつの仲間のレッサーニイルが、その黒いニイルを手引きした張本人で、殺されたふりをして何かをたくらんでいるんじゃないかと言っているんだ。」
「なんだと!!」
弾けたようにロイの声が響いた。アルフレドがびっくりして振り返るのを横目に、ロイはアグロの石像のような白い顔を睨み付けた。
「おれはこの目でニックとヒューイが死んだのを見たんだ!冷たくなって、何の音もしなくなって……今もあの場所にふたりはいるんだ!人間の墓場に!おれたちを嫌って、さげすんで、馬鹿にしてる人間たちの墓場に!嘘だと思うなら、見に行けばいいじゃないか!!」
ロイの言葉に答える者は一人もいなかった。ロイは急に血の気が引いて、たまらず部屋を飛び出した。
「ロイ!」
アルフレドの声が背中を追いかけてきたけれど、ロイはそれも振り切るように、全速力で廊下を駆け抜けた。
どこへ向かっているかもわからず屋敷の中を駆け抜けたロイは、いつの間にか外に出ていた。ここは小さな丘になっていて、すぐ眼下には屋敷の屋根が見える。反対側には森が広がっている。ロイは森の方を向いて、ゆたかな芝の上に胡坐をかいた。
ちょうど背の高い大木があって、涼しい日陰があったので、ロイは心地良く風に吹かれて、すっと体に集まった熱が冷めていくのを感じた。ややあって、軽い息遣いと足音が聞こえた。振り返らずとも、それがアルフレドだとわかった。
「ロイ。」
その声を聞いて、やっぱりアルフレドだったかと思った。振り返ると、アルフレドは申し訳なさそうな顔をして、丘を登ってきていた。
「すまない。腹が立っただろう」
アルフレドは隣にやってきて、足を伸ばして座った。
「なあロイ、ぼくのことも、敵だと思うか。」
真剣な顔で何を言うかと思えば、あまりに予想外の質問だったので、ロイはアルフレドを振り返った。
「少なくとも叔父様はもう、きみにとっては『敵』だろう?」
そう言われると、アルフレドの言わんとしていることがわかった。ようするに、信用できるかどうか、ということだ。それならば、ロイの答えは既に決まっていた。
「おかしいだろうけど、おれ、お前のことは信用してるよ。」
ロイがそう答えると、アルフレドは柔らかな笑みを浮かべた。
「そうだな、おかしいだろうけど、ぼくもだよ。」
そして小さく笑って、黒々とした森に目を向けた。
「なあ……、さっき、きみが叔父様に話をしている時、ぼくがひとつ隠し事をしたことに気づいたか?」
そう言われて、ロイは自分の話を思い返してみた。
「森の話を遮ったよな。」
「そうだ、話さない方がいいと思った。」
アルフレドの言い方はどこか含みを持っていて、ロイを誘うような言い回しをするのだった。
「どうして?」
我慢ならず、ロイは誘われるままに尋ねた。
「あの森でのこと……あの、オオカミに襲われたときのことだよ。ぼくには、きみに傅いているように見えた。まるできみを王だと思っているみたいに。」
「でも、おれは身に覚えがないよ。オオカミなんて。」
「そうだろうと思ったよ。だから、余計な疑いは生まない方がいい。叔父様は、絶対に良い方向には考えないからな。」
確かにアルフレドの言うとおりだと思った。ロイはアルフレドの機転に感謝した。
「なあ、信用ついでに話しておきたいことがあるんだ。」
「何?」
アルフレドが畏まって切り出したので、ロイも心なしか姿勢を正して耳を傾けた。
「正直言ってぼくは、この屋敷の人間をあまり信用できない。」
「どうして?お前は、人間の王子だろ?偉いんじゃないのか?」
「だからややこしいんだ。」
どういうことかと尋ねると、アルフレドは重たげに口を開いた。
「ぼくが死ぬことで……たくさんの人の人生が変わる。良くも、悪くもね。だからそれだけ、敵も味方も増える。しかもそれは、状況次第でいくらでも変わる。」
ロイには難しくてよくわからなかった。何も答えずに黙っていると、アルフレドは言葉を続けた。
「だけど君は、そんなまつりごとには興味がないだろ?」
「天涯孤独だからな。」
自虐気味に言うと、アルフレドが困ったような顔をしたので、少しだけ後悔した。
確かに人間の王が誰であれ、ロイには興味がなかったが、その問題とアルフレドの生死が関わってくるならば、自分はアルフレドを助けようとするだろうと思った。
アルフレドは急に立ち上がってロイを見おろした。
「なあ、この丘が何て呼ばれているか知ってるか?」
「さあ、知らない。」
ロイはアルフレドを見上げて答えた。アルフレドはまっすぐに眼下の森を見つめた。
「アレニオの丘というんだ。」
「アレニオ?」
「アレニオは、体内で作った糸で編んだ巣で、集団で助け合って暮らす動物だ。アレニオの糸で縄を編むと、剣でも切れないほど丈夫にできるんだよ。そしてこの丘は、騎士就任の儀式を執り行う場所なんだ。ともに儀式をして騎士となった者は、生涯信じ助け合い、決して切れない絆で結ばれると言われている。だから、アレニオの丘と呼ばれている……らしいよ。」
流ちょうな説明の後で、突然言葉を濁したので、ロイは訝しくアルフレドを見上げた。
「ぼくも昨日初めてクレーに教わったんだ。」
アルフレドはいたずらが見つかった子供のように笑った。アルフレドの金の髪が、繊細な糸のように日の光を受けて細かく光っている。そのときまた風が吹いて、その金糸の光を揺らして散らしていった。
「騎士就任の儀式って、何をするんだ?」
「祈るんだ。決して折れない意志を、決して欺けないものに。」
丘には白い光が差し込んで、ロイはいつの間にかつま先が日向にかかっているのを見た。そして立ち上がって、日向の中に踏み出し、アルフレドの隣に立った。
アルフレドはまぶしそうに目を細め、やがて閉じた。ロイも倣って、目を閉じた。
そして二人は丘で祈った。生きるという意志を、自分自身の心に。
ロイ 小柴 ゆき @kusu-kusu
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