5 森の狭間の希望

 冷たい夜風が鼻先を冷やす。湿った地面を踏む足の指先も、もうすっかり冷たくなっていた。

「……ついて来てるか?」

 少年が歩みを遅めて振り返った。ロイには、月の光に照らされて不安げに佇む少年の姿がはっきりと見えた。しかし少年の目はロイのはるか後ろの方を定まらず見ている。ロイがどこにいるか、少年はまったくわからない様子だった。そのおかげでロイは、もうすっかり夜が更けて闇が深くなったことを知った。

「いるよ。」

 ロイは短く答えた。

「暗くて何も見えないな。しかも君は物音ひとつ立てずに歩くから、居るか居ないかわからなくなる。」

 少年はそう言いながらも、声色には安堵がにじんでいた。

「レッサーニイルはみんなそうだよ。」

 そう呟いた自分の声がわずかに苛立っていて戸惑った。小さな子供のように、どうにもならない不安をぶつけて八つ当たりした自分が恥ずかしくて、ロイは俯いた。

「君はニイルと人間の混血なのか。」

 嫌味のない驚きの声が返ってきたのでロイはまた戸惑う。少年のまったく気にしていない様子に反してうじうじしてばかりいる自分が、ますます子供だと感じた。

「でもそれならなぜ、ぼくを助けてくれたんだ?」

「別に、放っておけなかっただけだよ。おまえは怪我をしていたし……。」

 そう言いかけて、そういえばあの大怪我はどうなったんだろうと思い当たった。ニックから教わったことがある。人間はレッサーニイルに比べてとんでもなく傷の治りが遅く、ちょっとした擦り傷でも一週間以上血が滲んだり、一生跡が残ることもあるんだと。レッサーニイルは擦り傷くらいならその日のうちにふさがり、次の日には何事もなかったかのように跡も消えている。もっとも、純血の二イルはその何倍も治癒力が高いのだろうけど。

 前を歩く少年の背中をじっと観察したが、怪我がどうなったのかは全く察しがつかなかった。だからといってロイは尋ねることもしなかった。

 沈黙をごまかすように、ロイは切り出した。

「それよりも、おまえはどうして下水道なんかにいたんだ?」

 少年はすぐには答えなかった。しばらく少年の足音が静かに響く。その一定の間隔を保って響いてくる足音に耳が慣れてきたとき、少年の声が何の前触れもなく響いた。

「逃げようとしてたんだ。でも、もう諦めていた。」

 何を、とは聞かずともわかった。耳の奥に、あの時響いていた少年の泣いているような息遣いが蘇ってきた。

「君の仲間を刺したのも、そうすれば自分を殺してくれると思ったんだ。でも、勘違いをしていた。てっきり、君たちは本物の、その――つまり、ニイルだと。」

 ロイは相槌すら打たず、言葉を挟まなかった。何を言えばいいかわからないせいもあった。

「でも、君たちを見て……怖くなった。悲鳴を聞いたら、自分がとんでもないことをしてしまったんだとわかって……。」

 少年の背中越しの声がだんだん小さくなっていった。それでもロイの耳にははっきりと聞こえたが、どうせ気づかれないからと、ロイはそっと少年の隣に追いついて並んで歩き始めた。しかし少年は不意に言葉を止め、暗い声をこぼした。

「……やめよう。」

 後悔しているような声だった。その理由がロイには何となくわかった。

 ロイはレッサーニイルの仲間たちとそれなりに仲良く暮らして生きてきたが、なんとなくみんな、己のことを話すのをためらう節があった。特に生い立ちや懺悔などは口にするのも人から聞くのも嫌った。みんな物心ついた時から身寄りもなく人間に虐げられてきた孤児で、キリのない暗い話に参っていたのかもしれない。ロイも思わず心の内を打ち明けすぎて後悔した覚えがある。きっと今の少年の後悔はそれと似たものだろう。


 二人は長いこと沈黙した。ロイはときどき木を見上げてフクロウやコウモリを見つけたり、小さな巣穴から小動物の気配を感じたりしながら歩き続けた。そしてふと、この気配もこの景色も少年は全く分からず、静かで何の気配もない暗闇を歩いているんだと考えて、それはどんな様子だろうと思いを馳せた。しかしロイは常に何か聞こえ、何かが見える世界しか感じたことがなかったから、何も感じない世界というものはどう頑張っても上手く思い描けなかった。


 進んでいると、かすかに水の音が耳に届いてきた。川が近いことを覚る。少年は気付いているのかいないのか何も反応しなかったが、足は確実に音の方へ向かっていたから、ロイは口を出さないことにした。

 やがて青臭い水のにおいを感じ始めた時、少年が急に立ち止った。

「川だ。」

 驚きと歓喜が混じった声を上げ、少年は満面の笑みで振り返った。が、それはロイがいる方向ではなかった。

「そんなに喉が渇いたのか?水ならまだ残ってるのに……。」

 腰に提げた皮袋に手を当てて言うと、少年はやっとロイの方を向いた。声のおかげで居場所に気付いたらしい。

「そうじゃない。川を下って行けば、廃村が見つかると思うんだ。」

「どうして?」

「人は水がない所には住めないだろ。」

「なるほど……。」

 ロイは感心して頷いた。川は広く、黒い。相当な深さがありそうだ。

 隣を歩く少年が急につんのめって、危うく倒れそうになった。ロイが咄嗟に手を伸ばしていなければ、きっと川の中へ真っ逆さまだっただろう。

「気をつけろよ、結構深いぞ。」

「あ……ありがとう。」

 少年の無事を確認して、ロイは抱えていた少年の体を離した。その時、手のひらに奇妙な生ぬるさが残った。見て確かめる前に、鼻につんと生臭いにおいが届いた。見なくてもわかった。これは血だ。

「おい、これ……。」

 少年を見ると、顔からは血の気が失せて青ざめていた。それでもまた歩こうとする少年を、ロイは引き留めた。

「平気だ。」

 弱弱しいが、乱暴に投げつけるような声。ロイは不意に平手打ちを食らったような気分になった。だが怒りを覚えたわけではなかった。むしろ考えなしの自分を滑稽に思って恥じた。

 引き留めたって、この冷たい川のほとりで立ち止まったって――何もできることはない。むしろ状況が悪くなる可能性の方が高い。雨風もしのげないこんな場所で、ろくな手当もできず、食料も底をつきそうな状況。血を失って死ぬか、その前にニイルに見つかるか。どちらにせよ良い想像は全く浮かばない。

 少年は華奢な見た目に反して逞しい精神力を持っていた。いつ倒れてもおかしくない顔色をしていても、弱音一つ吐かず、黙々と川沿いを下り続けた。

 ロイは少年の細い背中の後に続いた。視線を落とし、少年が変わらない速度で足を動かすたびに交互に見え隠れする踵を無意識に眺めながら。泥と岩で汚れて傷だらけになった足は、それでもかまわずまた湿った砂利道を踏みしめる。

 ロイはついに見かねて、細い背中に向かって言葉を投げた。

「なあ、おれがおぶってやろうか?」

 しかし返ってきたのは沈黙だった。口を利く気力も残っていないのかもしれない。少年の呼吸はもうずいぶん前から荒くなっていた。それでも乱れてはいなかったから、まだ大丈夫だろうと思った。


 少年の呼吸に耳を傾け、注意しながらロイは歩き続けた。歩みはずいぶん遅くなっていた。だが文句は言えない。少年がすでに無意識で歩いているのも、ロイは気づいていた。立ち止まったら、もう二度と歩き出せないだろうと思った。

 少年が時々小さくむせるようになった。荒い呼吸はのどを痛める。しかも空気は冷たく、のどを刺すようだった。

 どれくらい歩いただろう。もう町も墓所の祭壇も見えなくなるほど長く歩いてきた。周りは見晴らしのいい草原で、晴れ渡った青空の下で見渡したらどんなに綺麗だろうと思わずにはいられなかった。右手には相変わらず大きな川が流れている。川を隔てた向こう岸は深い森になっている。光が全く届かないのだろうか、木々の間はインクを何重にも染み込ませたように真っ黒で、目を凝らしても何も見えはしなかった。


 風が吹いた。ロイは吐き気を覚えた。だが実際に嘔吐することはなかった。えずいただけで吐き気はおさまった。鼻の奥に甘ったるい香りを一瞬だけ感じたが、それもすぐに消えた。

 似たようなことがあったなとふと考える。そうだ、あの黒毛のニイルに出くわした時だった。甘い香り。吐き気。あの時と全く同じだ。だけど、その甘い香りがどんな香りだったか、どんなに頑張っても思い出せない。あれを感じるのはいつも一瞬だけで、感じた頃にはすでに消えてしまっていたから。

 言葉にするほどではないが、なんだか釈然としないその謎は、嫌な予感に変わった。そしてそれを感じ取ったように、少年がついに立ち止まってしまった。

 ロイは少年の隣に追いついて、呆然と前を見つめる横顔を覗き込んだ。月の光をうけて小さな光がゆれる目は、予想に反して輝いていた。

「あそこ……。」

 少年が開きっぱなしの乾いた口で呟いた。ロイは少年の見つめている先に視線を移した。

 ほとんど森に侵食された黒い川の岸辺。その木々の隙間に、あわく橙の灯りが垣間見える。

「人がいるんだ。きっと君が言っていた廃村だよ。君の仲間たちかもしれない。」

 少年の声はロイを励ました。ロイは与えられた希望を少年にも感じてほしくて、満面の笑みで大きく頷いた。

 急に気力が湧いてきて、ふたりは軽い足取りで灯りに向かって歩いた。ロイは仲間たちの顔を思い浮かべずにはいられなかった。きっと歓迎して迎えてくれる。少年のことも、ここまで助け合ってきた仲だと言えば嫌な顔はされないだろう。人間を嫌う仲間もいるが、この少年は同じ敵から逃げてきた仲間だ。そう考えながら、そういえばまだ少年の名前すらも知らないことを思い出した。

 森に近づいていく。焦げたにおいが鼻先をかすめる。仲間が熾した篝火だろうか。なぜかぞっと鳥肌が立ったのをかき消すように、ロイは仲間たちに囲まれてあたたかい火の傍で眠る想像をした。


 少年が半歩前をずんずん進んでいく。ロイが少し追い抜くと、負けじと追い抜き返す。そのうち競争のようになって、暗い森の中に少年たちのはしゃぐ声がきゃっきゃと響いた。

 いよいよ灯りに近づいて、少年にもロイの顔がはっきり見えるようになったらしく、いつの間にか頬に付いていた泥をからかわれた。ロイは頬を拭いながら、あまりにはしゃぐ少年に呆れた。

「おい、あまりはしゃぐなよ。お前、怪我が……」

 そう言いかけたところで、ロイはぬかるむ地面で足を取られて躓いた。反射的に木に掴まって転ぶことは避けたが、少年に「君の方こそ」と笑われてしまった。

 きまり悪く体制を直して、木から手を離す。湿った木だった。変な木だなと思った。だが、見たのは無意識だった。だから、幹が赤黒く濡れているのを見つけて言葉を失った。頭が推理する前に、目は先ほどのぬかるみを探していた。そして見つけた。赤黒く濡れた土と、深く切り裂かれた青白い――

 ロイはぬかるみの光景が目に焼き付く前に、先を行く少年の背中を追っていた。

 少年の細腕を掴んで乱暴に引っ張ると、ロイは茂みに隠れた。そして少年が口を開きかけたのを、すぐに察知して手を口に押し当てた。ロイが睨みながら顔を横に振ると、少年は何度か頷いたので、ロイは手を離してやった。


 ふたりは茂みから灯りの方を覗き見た。少し開けた場所に、いくつかの小さな民家の廃墟があった。おそらくここが、ニックの言っていた廃村だろう。少年とロイの期待は当たっていた。

 だが、希望は打ち砕かれた。廃墟は全て、戸のない窓からあかあかと炎が上がり、地面には何者かもわからないほど切り裂かれた肢体がいたるところに転がっていた。

 それでもロイにはわかった。それが自分の仲間たちの亡骸だと。そして、これは全て、ニイルの仕業だと。

 ロイは全身が脱力してへたりこんだ。この世界から自分の居場所が一片も残さず消えてしまったと思った。どこへ行っても蔑まれ虐げられるレッサーニイルのやせっぽちの少年が、たったひとりで生きていけるとは思えない。

 冷たい土の上についた手が勝手にふるえた。すると、冷たい手がそれを抑えた。少年の白い手だった。隣を見ると、少年はもう片方の手にサンクォーツの剣を握って、静かな目でロイを見ていた。

 気をしっかり持て、と叱咤された気がした。

 おかげで、まだ近くにニイルがいるかもしれないと考えることができた。


 ふたりは息を殺して、廃墟と亡骸が赤い炎の中で黒い残骸になっていくのを見守った。やがて炎が燃え尽きる頃、少年の手に引かれてロイは茂みから出て、黒い影のようになった廃村に入った。亡骸は、森にあったぶんを含めて二人ぶんあった。ロイはそれを丁寧に埋葬し、拙い祈りの言葉を胸の中で唱えた。


 これからどうしよう。次に胸の中に浮かんだのはその思いだった。

 ロイは仲間を埋葬した木の根もとの前に膝をついたまま呆然とした。少年が歩み寄ってきて、しばらく黙って隣に立っていた。ロイがけじめをつけたように立ち上がると、少年は待っていたかのように言った。

「行く当てはあるのか?」

 考えるまでもなかったが、ロイはわざと長く口をつぐんでから、小さく頭を左右に振った。

「それなら、頼みがある。」

 突拍子もない言葉にロイは虚をつかれた。目を丸くして少年を見ると、少年は至極真面目な顔で言う。

「そう遠くないところに、知り合いが住んでいる町がある。もしかしたら、助けてもらえるかもしれない。」

 目の色を明るくしたロイに、だが、と少年は釘を刺すように言葉を続ける。

「そこへ行くには、この森を抜けなきゃならない。」

 ロイは再び脱力感が蘇ってきて閉口した。このあたりの森にはニイルが住んでいるという噂があるからだ。ニイルは巧みに隠れて暮らしているから、森に生息する種族という認識はされていても、正確な生息地は知られていない。だがこんなに深い森なら可能性としては十分あり得る。ニイルから逃げてここまで来たのに、自らニイルに出くわす危険を冒さなければならないとは馬鹿馬鹿しい。それに、心配はそれだけではなかった。

「でも、お前の知り合いって、人間だろ?おれはレッサーニイルだぞ。」

「そうだが、それは心配しなくていい。」

 信憑性の薄い返答だったが、少年が言うと妙な説得力があった。そういえば、ロイを馬鹿にしたりぞんざいに扱ったりしない人間は、彼が初めてかもしれなかった。

 しかし森へ行くのはやはり簡単に決断することができない。ロイの沈黙を迷いと受け取ったのか、少年は必死に畳み掛けた。

「頼む。一緒に来てくれ。どの道ぼくはもう何日も歩けないし、あの町には戻れない。君もそうだろう?」

 確かに少年の言うとおりだった。ロイは最後まで躊躇ったが、結局決断が済む前に頷いてしまった。ロイが行こうが行くまいが、少年は一人でも森へ行く気がした。それなら、少年がいなくなった後、ひとりで仲間の亡骸の前に座り死を待つのかと思った。それは恐ろしくて想像もしたくなかった。

「わかった。おれも行くよ。」

 ロイが言うと、少年は心から安堵したように微笑んだ。

 森は、二人を飲み込もうとするように暗く、葉音ひとつ立てず沈黙していた。

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