4 嵐の後の愁嘆
ロイは結局眠ることができずに、二人の微かな寝息を聞いていた。ニックとヒューイの寝息だ。少年の寝息は聞こえてこなかった。呼吸音は聞こえるが、眠ってはいない。ロイと同じように、もう眠り飽きてしまったことと、出発を控えて落ち着かないことで、とても眠れる状態ではないのだろう。
ロイは時間が過ぎるのを急かすように何度も寝返りをうった。火は埋み火を残して消しているから部屋の中は暗い。それでもレッサーニイルは夜目が利くから、反対側の部屋の隅で横たわる二人の青年の背中がはっきりと見えた。
今が朝なのか夜なのかロイにはわからなかったが、とても静かだった。鼻を突く腐臭にもすっかり慣れて、この陰鬱な人間の墓場は文句のない安全な隠れ場所となっていた。だからこんなところでも、今となっては少し離れがたい気もしてきた。これから危険を冒して散り散りになった仲間を探そうというのだからなおさらだ。ニイルの血を半分受け継ぐレッサーニイルは、人間に比べて身体能力が高く戦闘に長けた種族だと認識されているが、少なくともロイは争うことが好きではなかった。他者を傷つけることにとても抵抗があった。しかし、日ごろからどんくさく見える程のろまな人間たちを、とっ捕まえて抵抗をかいくぐり防御をはねのけて打ちのめす想像はとても簡単にできた。きっと本当に簡単にできる。想像通りに。けれどそう考える自分が恐ろしく愚かに思えて、行動に移さずとも汚い罪を背負った気分になって落ち込んだ。
ふと何かが動く気配がして、ロイは意識を戻した。同時に、難しいことを考えているうちに目を瞑って眠りかけていたことにやっと気が付いた。気配の正体はヒューイだった。身を起こし、神妙な顔をしているのが見える。ニックも気が付いて起き上がっている。二人は部屋の入り口を挟んだ左右の角にそれぞれ横たわっていたが、お互いにゆっくりと近づいて入口のすぐ両脇に控えた。通路の奥の様子を窺っているようだった。ロイも起き上がって二人のそばへ行こうとすると、ニックが手をかざして止めた。ロイは仕方なく、少年がいる部屋の入り口のそばに戻った。ちゃんと荷物もそばへ手繰り寄せた。
ヒューイとニックはしばらく息を殺して壁に背をつけ通路の奥を窺っていたが、物音ひとつ響いてくることはなかった。気のせいじゃないのか――ニックの緊張のとけた顔はそう言いたげだった。ヒューイも腑に落ちないながらもあきらめの混じった顔で肩の力を抜こうとしていた。しかしロイは何か予感に似た気配を感じた。厳密には何の気配もない。でも、絶対に何かの気配が今にも伝わってくる――そんな気配がした。ただの勘だと言えばそれまでだ。しかし今見えている景色と同じように、そして聞こえている音と同じように、その気配もまた、確かに感じているものだった。
気配は確実に、しかもとてつもない速さでロイたちに近づいている――そう気が付いた時、全身に鳥肌が立った――恐怖だと理解する前に、ロイは叫んだ。
「逃げて!!」
通路の闇の中から黒い影が飛び出してきた。ヒューイとニックは辛うじて飛び退いた。それは本当に影だった。目の前に見えているのに、気配もにおいも、息遣いすらも感じない。幻覚を見ているような気分になった。しかし部屋の中央に飛び込んできた影は、ようやくその姿がはっきりと見えた。
硬そうな黒毛。赤い月のように輝く鋭い眼。体つきは人間のようだが、しなやかに身を屈める様は大きな豹のようにも見える。今のように地面に手をついて四つん這いになっているとなおさらだ。腰の下のほうから伸びる尾は長く、地面すれすれを撫でるようにくねらせている。それだけを見ても獲物に忍び寄る蛇のようで身が竦む思いだった。初めて見るが、ロイにはわかった。本物の、純血のニイルだ。
一瞬、えずくほどの強烈な甘い香りを鼻の奥に感じたが、感じた頃にはすっかり香りは消えていた。気のせいだったかと思うほど一瞬のことだった。そして直後にニイルの男がニックに飛びかかったために、ロイは香りのことをすっかり忘れ去って飛び出した。
掴もうとしてもしなやかにうねって逃げる男の体は、捕まえてもするりと手をすり抜けて逃げる野良猫のようだった。必死にしがみついて、どうにかニックから引きはがそうとした。その時やっと、男がニックに飛びかかった理由が分かった。ニックの手には彼の愛剣である短剣が握られていた。どうやら、先に仕掛けようとしたのはニックの方らしかった。
男が暴れるのをヒューイとロイは二人がかりで抑え付けようともがく。しかし男がほんの少し手を振りかざしたはずみに黒い爪が掠っただけで、いともたやすくニックの顔面に深い傷が抉られた。血が溢れだして顔面が赤く濡れたニックはたまらず目を瞑った。男が追い打ちをかけようとするのを、ヒューイが捨て身で男の左腕にしがみつき、首元に噛みついてなんとか食い止める。ロイは安堵と同時に右腕も封じねばと責任感に迫られ、必死でしがみつこうとするものの、まるでネズミを追い払うように容易くあしらわれてしまった。ヒューイが殴られて床に打ちのめされるのを見て、ロイは自分の非力さを責めた。自分も何かせねばと焦りばかりに苛まれるが、自分の兄貴分であるニックやヒューイが赤子のようにねじ伏せられているのを見ると、諦めばかりが目の前を暗くした。
しかし突然、男がギャッと叫んだ。ニックが短剣を男の腿に突き刺したのだった。ロイは奮い立ち、ここぞとばかりに男の胴めがけて体当たりした。そして愕然とした。男はびくともしなかった。害虫を見つけた時のように手を振り上げ、ロイを睨み下した。次の瞬間には目の前が激しく明滅し、気が付けば地面に顔をぶつけていた。脳天に衝撃があったと気が付いたのは、首元から脳天にかけてじわじわと鈍い痛みが蘇ってきてからのことだった。しかしそれよりも、地面にぶつけた頬の痛みの方がはっきりと認識できた。
それからロイは目の前の惨劇をぼんやりと眺めた。火鉢の中のか細い火種が尽きて黒ずみ、ニックとヒューイの悲鳴も尽きてしまったように消えた。体が重く、自分が泥屑になったような気分だった。これでもう死ぬんだと考えると、人間の墓所で屍になり永眠するというのは、なんだか奇妙なことだと思った。
すると暗闇の中に、赤い光が音もなく漂った。視界の左から右へ、鋭く柔らかい赤い色が泳いでいった。不吉な色であるはずなのに、なぜだかその鮮やかな赤は、ロイの目に綺麗なもののように映った。
そして赤い光は鳥が飛び立ったように天に翻って、次の瞬間水面の魚めがけて急降下するように、男の背中に落下した。
男が空気を引き裂かんばかりに叫び声をあげた。ロイは男の喉が破裂してしまったのではないかとすら思った。意識せず見開いた眼に、男の影の傍に佇む白い人影が映った。糸で吊るされた人形のように頼りなく、しかし微動だにしない少年の背中だった。手には波打つ赤い光が握られている。サンクォーツの剣だ。あんなに恐れていた剣なのに、今は川に落ちた時に辛うじて掴んだロープのような安心感を覚えた。
男は犬飼いに鞭で追い立てられた犬のように、一目散に部屋を飛び出していった。
少年がロイを振り返り、ゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。
「生きてるか?」
ロイはほとんど呼吸のような声を聞いてなんだか覚えがある言葉だと思った。そうだ、ここに来たばかりの頃、自分が彼にかけた言葉だった。奇妙な事ばかりだ。突然やってきた男のことも、天災のような力の及ばない恐怖を与えてあっという間に去った今となっては、酷い悪夢から覚めた時のような心地がしていた。しかし地面に伏した二人の青年の体は既に微動だにせず、たった今の出来事が現実だったことを惨くも証明していた。
「良かった、生きてるな。」
気が付けば、少年が傍に座ってロイの顔を覗き込んでいた。ロイは重たい体を無理やり叱咤して起き上がった。少年が遠慮がちな手つきでそれを手伝ってくれたが、すぐに離れた。もしかしたら他人と体が触れることに抵抗があるのかもしれない。
ニックとヒューイをそれぞれ確認したが、血で染まった顔からは何の気配も感じ取ることはできず、ロイは愕然とした。怒りとも悲しみともわからない感情がどこからかあふれ出て、それに押し流されるように全身の力が抜けた。こんなに途方もない脱力を感じたことはこれまでなかった。力の抜けたその細い肩を、少年が遠慮がちにつついた。
「ここを出よう。さっきの奴が、仲間を連れて戻ってくるかもしれない。」
少ない荷物を背負って、ロイは前を歩く少年の小さな背中を追った。少年は弱弱しいが迷いのない足取りで薄暗い通路を進んでいく。
ロイはニイルがいつ戻ってくるのか気が気でなく、何度も足を止めそうになったが、一定の速度で進み続ける少年につられるように歩き続けた。もし一人だけ取り残されていたら、ニックとヒューイを残してきたあの部屋で、今も呆然と座り込んでいたかもしれない。
二人は会話もなく、地上の祭壇まで戻ってきた。外は薄暗く、夜が訪れようとしていた。ロイは好都合だと思ったが、少年は苦い顔をしていた。不思議に思ったロイは、ふと人間は夜目が利かないことを思い出した。
「どこへ行くの?」
ロイが尋ねると、少年はじっと森を見つめた。まさか森に行くなんて言いださないだろうな、とロイは不安がよぎったが、よく見ると少年は森の方角を見ているだけで、その目は森でなくどこか別の処を眺めているだけであると気が付いた。そして、もしかしたら少年も行く当てを考えている最中なのではと思い当たった。
「君たちの仲間がいる場所があると言っていたな。」
少年が思い出したように呟いた。
「行ってみよう。案内してくれ。」
ロイは少年の提案に内心喜んだが、同時に落ち込んだ。
「できない。おれは行ったことがないんだ。」
少年の驚きで丸まった目を向けられて、ロイは恥ずかしくなって顔を背けた。
「仕方ないだろ。町から出たことがないんだ。」
言い訳がましく文句を言うと、少年の良く通る声が返ってきた。
「なんだ、ぼくと同じじゃないか。」
ロイが驚いて見ると、少年の無邪気な目と目がぶつかった。
「ぼくも町から出たことがない。」
少年は何でもないことのように言ってのけたが、ロイは激しい不安に襲われた。土地勘のない非力な子供がたった二人でいつまで生き延びられるだろう。もしかしたらもう太陽は拝めないかもしれない。目の前が暗くなるのを感じた。
しかし少年の顔に諦めの影は一片たりともなかった。
「仲間の場所は、大体の方角も知らないのか?」
「確か、西の廃村だ。」
ロイが答えると、少年は小丘の下に小さく見える町を指さした。
「この墓所は町の北だから、西はあっちだな。」
少年はそう言いながら、指先を右の方へずらした。
「行こう。」
ロイの返事を待たず、少年は歩き出した。ロイも異を唱えず後に続く。薄く青い闇に覆われた今は、小丘の深緑の上に揺れる白い花だけが浮かび上がって見えて、より星空を彷彿とさせた。ロイと少年はその星空の丘を、ゆっくりと下って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます