2 地下道の邂逅
外に出ると、港は理性を失った人々で溢れかえっていた。船での脱出を試みた者たちが船の奪い合いを始め、大乱闘に発展したようだった。皆頭に血が上って、血管の浮いた真っ赤な顔で言葉にならない喚き声をあげ、血と汗と泥のにおいにまみれている。
それを横目にロイとニックはこっそり屋根に上った。眼下を見ると、どこもかしこも人の頭で埋め尽くされていて、すり鉢の中でつぶされる穀物のようにうごめいている。
ロイはニックに続いて倉庫の屋根から城壁に飛び乗り、向こう側の低い屋根に飛び降りた。ここは貧民区で、近くに水路があるはずだった。
不思議なことに、貧民区には誰の姿も見当たらなかった。人間たちは皆町から逃れようと、港や門に詰めかけているのだろう。四方を高い城壁と水路で囲まれ、町の外に出入りできる門から離れた場所にあるこの区域は、もはや廃墟のように生きた気配がなかった。
貧民区の建物は、どれも傾いていたり崩れかけたりしているため、ふたりは足を滑らせないよう気を付けて屋根の上を歩いた。加えてここは屋根も壁も地面も黒いカビや苔で覆われていて、足場が滑りやすかった。雨上がりであることも手伝って、ひどく生臭い悪臭のせいで、ロイは鼻が曲がりそうだった。
ようやく水路を見つけて、ふたりは屋根から降りた。足場が悪いため、水路に降りるときには梯子を使った。しかしその梯子も腐りかけていて、ふたりは声を掛け合うのも忘れて慎重に降りた。なんとか地面に足が届いたときには、無意識のうちにほっと息を吐いた。
「大丈夫か?」
ニックが思い出したように言った。ロイは決まりごとのように頷いた。
黒ずんだ石橋のちょうど真下に、下水道への入り口があった。錆びた鉄格子の扉には太い鎖で南京錠が巻きつけられていたが、それも錆びて茶色く崩れており、役目を果たせていなかった。
ニックは足元の瓦礫から崩れたレンガを拾って、何度か南京錠のもろい所を打った。南京錠はあっけなく砕けて落ち、二人は鎖を引き抜いて瓦礫の上へ捨てた。解放され頼りなく揺れる鉄格子の扉に手をかけると、ひんやりとした感触が手のひらを伝って背筋を流れていった。構わず扉を手前に引いた。錆びて乾いた鉄の音がギチギチと響き、薄暗い下水道が目の前に広がった。奥を覗くと真っ黒で、ここからはよく見えなかった。
「行こう。」
立ち竦むロイを叱咤するようにニックが言って、先を歩き始めた。ロイも、ニックの背中が見えなくなる前にと、あわてて後を追った。
予想はしていたが、下水道は酷いにおいだった。ロイは鼻をつまみながらニックの後を歩いていた。ニックは一歩一歩を確かめるように、壁に手をついて進んでいく。その壁も、ヒビや雨漏りの汚れだらけで、赤茶色だったはずの煉瓦は、白や黄土色や黒に変色していた。
通路には水が流れるかすかな音と、肌寒い風の音が響いている。嗅覚と聴覚が優れているニイルは、他の動物の気配をにおいや音で捉えるため、ロイもニックも自然と静かに呼吸し、移動する習慣がついていた。そのため、今はふたりの呼吸音も足音もほとんど聞こえなかった。
ニイルは他にも、暗闇でもわずかな光で物を見る力に優れている。今もそのおかげで、松明を持たずともこの暗い下水道を進むことができた。それでも奥へ進むにつれて、だんだんとわずかな光さえも届かなくなり、ロイは目を凝らさなければ目の前のニックの背中も見失ってしまいそうだった。
近くに何者かの気配は感じられなかったが、ふたりは一言も話さずに狭い通路を進んだ。町を襲ったのはニイルだ――ニックが言ったその言葉が、ロイの胸に不安を抱かせた。ニイルは、ロイたちレッサーニイルよりもはるかに気配に敏感で、自分の気配を消すのも上手い。こちらが気付いていないだけで、すでに近くにニイルがいてもおかしくはない。
ニイルがこの町を襲った目的はわからないが、もしロイたちと出くわしたら無事に見逃してくれるとは思えない。人間がレッサーニイルに対して持っている差別意識よりも、ニイルのそれのほうがはるかに強いからだ。人間は単に思想からくる差別意識だが、ニイルは古くから厳しい掟によって人間との交わりを禁じている。彼らには、レッサーニイルは排除すべき存在だという確固たる意志があるのだ。だから、ロイたちは人間にも、ニイルにも見つからないように町を出るしかなかった。
気が付くと開けた場所に出て、水路が広くなった。町の中心部に近づいたのだろう。水路はそこでいくつかの道に枝分かれしていた。ニックは迷わず北方面へ延びる道を選んだ。ロイも異を唱えず後に続いた。
しばらくすると風の音が止んだ。わずかな音の余韻が耳の中にこだまし、耳鳴りとなっていつまでも響く。背中に重たい静寂がのしかかってくるようだった。急に胸騒ぎのようなものを感じて、ロイは直感的に耳を澄ました。音としては捉えられないが、何かが空気を震わせて耳に届いていることは確かだった。それはまだ、ただの気配でしかなかった。しかしロイは確信した。この先に何かがいる――。
ニックも何かを感じたようだった。急に腰を低くし、影のように気配を消した。ロイもそれに倣った。しかし頭の片隅で、この気配の正体が町を襲ったニイルだとしたら、こんなことは無意味だと考えもして、恐怖を感じた。
それでもふたりは進むしかなかった。ロイは、どうせニイルに見つかっていたら、今更引き返したところで逃げられっこないという諦めを原動力にして、恐怖で竦む足を動かしていた。
どこから響いてくるかも定かにはわからない気配。ロイはだんだん、通路に無数にある柱の影や通気口の中で、ニイルが息をひそめてロイたちを見張っているような気さえしてきた。柱の横を通り過ぎるたび、心臓を握られたような心地だったが、その影に何者かがいやしないかと、確かめずにはいられなかった。
そうして少し進んだとき、急にニックが立ち止まった。目の前を腕で通せんぼされて、ロイも立ち止まった。ニックはうしろを振り返って、光る眼でロイに何かを訴えた。何か聞こえないか――そう言われたのだと直感したロイは、理解するよりも先に耳を澄ました。
それは何者かの呼吸音だった。小刻みに素早く吸い込んだ後、ゆっくりと押し殺すように吐き出される音。泣いているみたいだ、とロイは思った。ニックの厳しく尖った目は、ニイルかもしれない、と訴えていた。ロイはニックの望みどおり、もっと慎重に気配を隠して進むことにした。
通路はどこまでも同じ景色が続き、終わりがないように思えた。しかし耳に響く呼吸音が大きくなっていくことが、ちゃんと前に進んでいるのだと――何かに近づいているのだと証明していた。肌に触れる空気は冷たく、いつしか鳥肌がたっていた。しかしロイはこめかみに何かが流れていったのを感じた。驚いて手で触れると、それが汗だとわかった。
ニックがまた振り返った。音が近い。ロイはわかっているというように頷いた。音の出所はすでにはっきりしていた。ここから三つめの柱の影に――ちょうど壁が崩れて瓦礫が小さな山を作っているあたりに――青白く生々しい脚が転がっている。
それは全く血の気が無いように見えた。物乞いの死体かとも思ったが、響いてくる呼吸音はそれが確かに生きていることを証明している。ニックは腰の短刀に手をかけて、ロイに少し離れてついてくるように促した。
ロイは手前の柱の影で立ち止まり、ニックが音もなくその何者かに近づくのを見守った。青白い脚はピクリとも動かず、黒ずんだ瓦礫の上に滑らかに横たわっている。その光景が異様なほど不気味で、ロイは縫い付けられたように目を逸らせなかった。女の足かとも思ったが、よく見ると骨ばっていて、少年の足のようにも見える。
ニックが柱の前まで辿り着いた。つま先が青白い脚に触れそうなくらい近づくと、ニックは一息で細い脚を掴み、その人物を引きずり出した。つまみ上げられた操り人形のように、色の白いか弱そうな少年が柱の影から引っ張り出された。ニックの肩から力が抜けるのが見て取れて、ロイも警戒を解いて彼らに近づいた。
少年はロイと同じ年頃の人間だった。少女のような輝く金髪に、水晶のような青い瞳をしていた。しかも真珠のようにつややかなシルクの寝衣に身を包んでいるので、飾るために精巧に作られた人形のようだった。
少年は怯えた目でロイとニックを見上げていた。頬にはまだ乾ききらぬ涙の跡があり、自分の腹部を両腕で覆うようにして体を抱きしめている。その腕の隙間から、真紅の染みが滲んでいるのが見えて、ロイは息をのんだ。
行こう、とニックは言葉もなくロイの肩を叩いて促し、踵を返した。ロイは少年のことが気がかりだったが、とうとう蹲って顔を地面につけた少年にできることもないと自分に言い聞かせ、ニックの後に続いた。
そうして少年の前を通り過ぎようとした時、視界の端で赤い光を捉えた。ロイが驚いて飛び退くと同時に、白い影がニックの大きな背中に飛びかかった。ニックの喉が悲鳴を飲み込む音が聞こえた。少年がニックに斬りかかったのだと気が付いて、ロイは慌てて少年を引きはがしにかかった。
少年はその細腕からは想像もつかない力で短剣を握りしめ、ニックの背中に突き刺していた。ロイはその短剣の波打つ剣身が赤く光っているのを見た。
必死に少年の腕や肩を引っ張ったが力負けし、たまらず青白い細腕に噛みついた。ロイの牙が食い込み、シルクの寝衣の袖が赤く染まった。少年もついに短剣から手を離した。ロイは少年を殺すべきかニックを支えるべきか迷ったが、普通ではない様子でうなり声を噛殺すニックの様子を見て、急いで背中から赤く光る短剣を引き抜こうと駆け寄った。しかしロイが柄を握った瞬間、炎が体中を駆け巡るような痛みに襲われた。ロイは口が裂けんばかりに絶叫して柄から手を離したが、ニックもこの痛みに襲われているのだと思うと、このまま見捨てることはとてもできない。ロイはもう一度柄を握った。手から腕を伝って、溶けた鉄が体中の血管を流れていくような激しい痛みが始まった。意識を手放しそうになりながら、ロイは柄を握っている自分の手から白煙が上がっているのを見た。辺りに響く叫び声も、自分の声なのかニックの声なのかわからないほど必死で柄を引っ張った。そして生々しい感覚があり、やっと短剣が抜けた。ニックはたまらず叫び、膝をついた。傷口は火であぶった鉄棒を押し付けられたように火傷していた。ロイも短剣を放り投げた。ロイの手のひらも酷い火傷を負っていた。
少年は血が流れる腹を押さえる力ももう残っていないようで、糸が切れた人形のように地面に横たわっていたが、足元にまだ白炎を纏う短剣が落ちてくると、藁にもすがるようにそれを拾った。少年はその短剣を触っても何とも無いようだった。ロイは両手の火傷の痛みにあえぎながらニックを見た。どうすればいいかわからなかったからだ。このまま逃げるべきか、少年を殺すべきか。どちらにしても、ニックの安否が心配だった。ロイは一人でこの町から逃げ延びる自信がなかった。
ニックは虚ろな目でロイの安否を確かめているようだった。ロイが無事だと知ると、次に少年の様子を窺った。そして少年の瀕死を知ると、ニックはロイに命じた。
「ロイ、そいつを縛って担げ。連れて行く。」
ロイは驚いてニックを見つめた。どうして、何のために。ロイの目はそう訴えていた。ニックはその思いもお見通しのように説明を続けた。
「今の騒ぎでニイル共に気づかれたはずだ。早く逃げなきゃならないが、その剣を置いて行けない。だが、俺たちはその剣に触れない。」
ニックは耳を澄まさないと聞こえないほどの声で呟きながら、皮袋をあさって麻縄を引っ張り出した。少年を縛る準備をしているのだと気付いたロイは、転がったままの少年をひっくり返して、腕を後ろに回し抑え付けた。しかし力を入れずとも、少年にはすでに抵抗する力はなく、ロイは人形を抑え付けている気分だった。
「どうして剣を置いて行ったら駄目なんだ?」
ニックが少年を縛っているのを眺めながら、ロイも小声で尋ねた。
「この剣は……詳しくは後で説明するが、触れた者を覚えてるんだ。ここに置いて行ったら、あとから来たニイルに俺たちの居場所がバレる。斬られた俺も、触ったお前も、死ぬまで一生だ。」
二人がかりで少年の腕を後ろに縛り、剣を握る手はそのまま布でぐるぐる巻きにして固定した。ロイが少年を背負い、ニックはまた皮袋を持って、暗い通路を走った。もうどこに何が潜んでいるかなんて確かめていられなかった。それよりも、この場を一刻も早く去ることが先決だった。
少年はロイの背中でぐったりとし、ぴくりとも動かない。しかし背中から伝わるやわらかな熱が、まだ少年が生きていることを証明していた。
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