ロイ

小柴 ゆき

第1章 襲撃

1 赤い影からの遁逃

 こぼれた水が音もなく広がるように、暗闇に赤い光がのびた。


 ロイはまどろみの中でその光を見つめていた。なにか音がして目が覚めたと思ったのだが、市場は昼間の賑わいの残骸を残して死んだように静まりかえっている。

 その静けさで雨が上がっていることに気づいた。つめたくてみずみずしい空気を鼻の奥に感じた。どうやらまだ雨が止んで間もないようだ。

 ロイは、腐って打ち捨てられた木材の裏側から這い出した。

 体じゅうの痛みは柔らかな疲労感にかわりつつあった。傷口も既に乾いていた。

 市場にはもう誰の姿もなかったが、念のため物音をたてないように気を付けた。ロイがぐったりと気絶したのを見て、皆満足して帰っていったようだ。気絶している間にすっかり日が暮れ、夜になってしまったことも、ロイにとっては珍しいことではなかったので、驚きはしなかった。


 やはり物音を感じて、ロイは振り返った。路地の裏からのびる赤い光が地面の上で頼りなく揺れている。その光景は見慣れたものだった。きっと何者かが路地裏の街灯に火をともしたのだろう。

 耳を澄ますと、かすかにその者の吐息が聞こえた。警戒心のない呼吸音。油の焦げたようなにおい。その者が動くたびに、服や革靴が、存在を感じる程度の音をたてる。目が覚めたのはこれか――考えていると、滑るような足音を聞いた。


――こっちに来る。


 ロイは影のように屋台の台座に登り、煉瓦の壁に打ち込まれた吊るし看板に飛び移り、また飛び上がってあっという間に屋根の上へ登った。錆びた青銅の看板が、夜風に吹かれたときのように揺れて、小鳥のさえずりのようなか細い声を鳴らした以外は、ほとんど静寂のうちの出来事だった。

 赤い光が漏れている路地から、小さな光が分裂するように市場へ躍り出てきた。目を凝らさずとも、ロイの目には暗闇の中でその姿がはっきりと見えた。松明を持った男だ。鮮やかな赤い外套を羽織っているが、夜のとばりに覆われた今は、血のように黒ずんで見える。

 赤は聖なる炎を象徴する色である。炎は穢れを燃やし、闇を退ける。

 街路で、赤いマントに身を包んだ人間たちが、一日中その言葉を説いて聞かせている。ほとんどの人間は一度足を止め、その言葉に耳を傾ける。熱心な者は、説教者の前に跪いて並び、定められた祈りの方法で、長い時間拝んでいく。

 清き炎の教えは、多くの人間にとって、なくてはならないもののようだった。姿かたちはロイとほとんど変わらないのに、さまざまな決まり事や物語をつくって、自らそれを崇拝している人間たちは、ロイの目には奇妙な生き物のように映った。


 はるか昔から森に生きる種族ニイルにとっては、赤は不吉な色とされている。レッサーニイル――ニイルと人間の混血――であるロイ自身も、人間たちが羽織る赤い外套を見ると、真っ先に血の色を思い浮かべた。なにより、ニイルの祖先たちが赤い色を見ることすらできなかったというのは有名な話だ。ニイルが赤い色を認識できるようになったのは、ここ百数年のことである。


 赤い外套を羽織った男は、市場に5つある街灯の、円い青銅製の傘をかぶった松明に、自分の松明から火を移してまわった。そして呆れるほど気の抜けた大股歩きで、反対側の路地へと去っていった。

 どうやら、男は『火守り人』のようだった。人間たちは夜になると町中に火をともす。そうした役目を持った者を誰かがそう呼んでいるのを聞いたことがある。おそらくやっと雨が上がったから、こんな夜更けに火をともしにやってきたのだ。

 ロイは辺りに人間の気配がなくなったことを確認して、屋根の上から羽のような身軽さで飛び降りた。器用に音を立てず着地すると、散らかった市場で売れ残った干し魚や干し肉を拾い集めた。


 多くのレッサーニイルがそうであるように、ロイも気が付いた時には人間の町で残飯を漁り、蔑まれる生活を送っていた。

 レッサーニイルはニイルからも人間からも禁忌の存在とされていて、物を売ってくれる者も、仕事を与えてくれる者もいなかった。それどころか、虫の居所が悪い人間に出くわせば、どんなときも殴られたり蹴り飛ばされたりする危険があった。そのため、ロイはいつも傷だらけだった。酷いときには、「聖なる炎の神フレーエル様の教えに従い、存在そのものが罪であるレッサーニイルを炎で焼き清めるべきだ」と、磔にされそうになったこともあった。

 それでも人間の町で暮らす方が、食糧となる動物が多く住む森で暮らすよりも、ロイにとっては安全といえた。森にはニイルや他の種族も多く住み着いているし、そういった種族は人間よりもはるかに力があり、危険だったからである。


 食糧を拝借し終えたロイは、またするすると屋根の上へ登り、町の港を目指して歩き始めた。港のそばの廃倉庫に、レッサーニイルが集まる隠れ場所があるのだ。

 ロイはいつもできるだけ夜に行動し、できるだけ屋根の上を歩いた。そうすれば、人間に見つかる危険性も少なかった。

 空は真っ黒で、星のまぶしい明滅を見上げていると、音がしないのが不思議なほどだった。そういえば今日はやけに静かな夜だ。いつもは耳を澄ませると、巡回警備をしている兵士たちのぼやきや、野良犬たちの遠吠え、夜の虫たちの鈴を転がすような羽音などが、うるさいほど聞こえてくるというのに。今夜の静けさといったら、この町全体が息を殺しているようだった。まるで、何かが起こるのを待っているみたいに――。


 ――そのとき、東の空が一瞬で赤く染まった。

 

 背に熱を感じて振り返ったロイは、それが太陽ではないことを知った。

 それまで蓋をしたように何も響いてこなかったロイの耳は、一瞬のうちにけたたましいほどの悲鳴と剣声に支配された。ロイは身震いし、瞳孔が広がって、瞳は深い湖面のように黒く染まった。そこに目の前の光景が飛び込んできて、湖の奥深くに沈殿するように、ロイの頭の中に広がってこびりついた。

 町の最東、白く輝かんばかりにそびえていたはずの城が、真っ赤な炎に包まれている。何かの焦げたにおいが鼻を突く。身を包む夜風は熱とともに灰となったそれを運んできて、ロイのにわかに汗ばんだ肌にはり付いた。インクが滲むように、黒い空に赤い色が広がった。生ぬるい風が不安を煽るように、大きな波となって足元から湧き上がってくる。そして気が付くと、黒い塵が辺り一面に舞い踊っていた。

 ロイは恐ろしくなって、夢中で駆けだした。屋根と屋根の間を飛び越え、一目散に港の廃倉庫へと向かった。いつしか眼下の街路には、異変に気付いて家を飛び出してきた人間たちであふれ返っていた。しかし誰もが燃えさかる城に気を取られて、屋根の上を駆け抜けるロイには気付かなかった。


 港まで来ると、いつもの閑散とした様子はどこにもなく、ここも人であふれていた。船で逃げ出そうとする者、王族の船に乗り込もうとする者を捕らえようとする者、混乱のあまり、思わず出た理性のない罵倒から、乱闘に発展する者たち。

 その様子を見て、港に飛び出していくのを踏みとどまる程度には、まだロイの中に冷静さが残っていた。

 ロイは慎重に、屋根の上から木や釣り看板を伝って目的の廃倉庫まで行き、二階の窓から身を滑り込ませた。

 そのわずかな物音に、倉庫内にいた者が気づき、光る目をロイへ向けた。

「ロイ。無事だったのか。」

 駆け寄ってきてそう言ったのは、ここに集まるレッサーニイルたちの兄貴分である、ニックだった。ニックは漆黒の髪と鋭い金色の目が印象的である大柄な青年で、大変な威圧感のある風格を持っている。そしてロイが知る限り、レッサーニイルの中では最もニイルに近い身体能力の高さを誇る青年だ。ロイよりもはるかに分厚い爪や鋭い牙がそれを物語っていた。

 ニックは、脂汗が滲んだおびえた顔で佇む少年の、震える浅黒い細腕を温めて落ち着かせてやった。やがてロイは亜麻色の髪に覆われた頭を上げ、青い瞳で倉庫内を見渡した。

「みんなは?」

 廃倉庫には、常に4、5人の仲間たちがいるはずだった。交代で2、3人ずつ町へ出て、水や食料や衣服を盗ってくるのだ。しかし今は少ない貯蔵物すら皮袋一つ残して消え、ニック以外の仲間の姿もなかった。

「皆は先に逃げた。俺たちもしばらく町を出た方がいい。騒ぎが落ち着くまで、別のところに隠れるんだ。」

 ニックの答えでロイは初めて、彼は自分がここへ戻るのを待っていてくれたんだと知った。ニックは皮袋を拾って背負った。どうやらそれは、ロイたちのために残してあった避難用の物資であることがわかった。

 ニックはロイが入ってきた窓のほうに歩いて行った。その大きな背中にロイは尋ねた。

「どこへ行くの?」

「わからん。皆慌てていたから、きっと今頃は散り散りだ。ヒューイは、北のカタコンベか西の廃村がいいだろうと言っていたが……。どっちも森が近い、危険だ。」

 ニックの答えは考えをまとめるための独り言のように聞こえたので、ロイはしばらく黙って続きを待った。するとすぐに思った通り、ニックは言葉をつづけた。

「だが、誰かがそこに避難したかもしれないな。一番近いのはカタコンベだ。まずはそこへ行こう。」

 正直言って人間の地下墓所など入りたくなかったが、ロイはニックの威圧感と緊張感に圧されて、無言のままうなずいた。それを確認して、ニックは言った。

「町の外に出るまでは、地下の下水道を通っていく。はぐれるなよ。」

「下水道?どうして?」

 ロイは首をかしげた。町の外へ出るには、屋根を伝っていく方がどう考えても早いからだ。広い道や城壁のあたりに差し掛かったら、どうしても少しの間だけ地面を進むことになるが、それほどたくさんあるわけじゃない。それはニックもよく知っているはずだった。

 しかしニックは神妙な顔でかぶりを振って、瞳孔の開いた金色の瞳でロイを見つめた。

「町中を突っ切るのは危険だ。今は絶対に、人間に見つかるわけにはいかない。」

 確かに人間には危害を加えられるし、ロイ達は日ごろから避けて生きている。しかしこんなに鬼気迫った表情で訴えるニックの様子は、何か別の、もっと大きな危機を訴えているように見えた。

「どうして……。」

 ロイはニックから伝わる危機感を肌で感じ取って、恐怖を覚えて怯んだ。それでもかろうじて、問いを呟いた。ニックは淡々と答えた。

「町を襲ったのは――ニイルだ。今人間に捕まれば、俺たちもただではすまない。」

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