34

 僕は意識を取り戻して絶叫した。「上田さん!」上半身を起こした勢いでそのまま四つん這いになり、辺りを見回す。一面、血の海になっている。目の前は音楽室だ。扉は開いている。ここから見える音楽室は廊下以上に壁も床も血で真っ赤に染まっている。


 僕と上田さんが最後に話した時、彼女は音楽室のピアノの裏に腰を降ろしていた。きっと上田さんは其処に居るはずだ。僕はそこまで一気に駆けた。到着するまでに何度も「上田さん!」と叫ぶ。


 彼女は変わり果てた姿で其処に居た。彼女の右目の上まぶたと下まぶたは不自然に膨らんでいて、そのまぶたの中の瞳は、一目見ただけで視力を完全に失っているだろうと分かる。青白く変色した黒眼の中心に血溜まりの隆起があり、見ているこっちの目まで痛くなるようだった。

 顔は左側のほぼ半分がケロイドに覆われ、赤黒く変色している。上半身の左側の損傷は特に酷く、真っ黒に焦げた身体が剥き出しになっている。下半身は上半身程酷い状態ではなかったが、それでも所々足に墨汁を零した様な酷い火傷がある。


「見ないで……」

 僕の呼吸音にも消されてしまいそうな位、上田さんの声は小さかった。

「来ちゃ駄目って言ったのに……」

「来るよ! 何でそんな事言うの……何で僕の記憶消すんだよ……上田さんの事、忘れたくないよ!」

「こんな姿……見られたくなかった」

「……ごめん」


 僕は上田さんを抱きしめようとした。当たり前に僕の腕は彼女の体をすり抜ける。僕は彼女の体の裏にあるピアノの足を掴んで支えにして、彼女を包む様に体を重ねる。幽霊とはいえ傷に急に触れるのは痛そうだから、出来るだけゆっくり包み込んだ。何の感触もなかったけど、確かに上田さんが傍にいるのを感じる。


 どれ位その状態で居ただろう。 気が付けば、月の光が僕の体の照らし方を変えている。上田さんはポツリと「沢ちん、あったかい」と言った。僕は小さく「うん」と返す。


「……温かさなんて、幽霊になってから感じなかったのに」

「……上田さん、体は痛い?」

「痛くないよ……あのね、もう少しで消えるところだった」

「え?」

「私、消えちゃうところだった。沢ちん来たから少し元気になってきた」

 僕はその言葉に少し安堵した。

「大会は、どうだったの?」

「駄目だったよ……地区大会で負けちゃった」

「そっか……私のせいで沢ちん全然稽古出来なかったもんね……ごめんね」

「ううん、上田さんの教えてくれた事、凄く役に立ったんだよ。おかげで本番に集中出来たし、友光も高橋先輩も良かったって言ってくれたんだ。何よりも上田さんが教えてくれなかったらオーディションも受からなかったし」

「そう……」

「やっぱり上田さんは凄いね」

「え?」

「みんなの上田さんの評価、凄いよ。高橋先輩なんて『時間を支配してた』なんてファンタジックな感想言っちゃうんだよ」

 上田さんは微かに息を漏らして笑う。僕は続ける。

「地区大会も、上田さんが演じてたら間違いなく勝ってたよ。友光に言われたんだけど、僕の芝居はラストの盛り上がりに欠けたって。上田さんは練習の時に泣いてたよね。僕は涙流せなかった」

「大事なのは、涙を流す事じゃないよ。感情は」

「表現するものじゃなくて溢れ出るもの、だよね?」

 僕は上田さんの言葉を遮って言った。

「……分かってるじゃない」

「でも、なかなか難しいよ。実感が湧かないんだ。どうしても、お客さんの前だと表現しようとしちゃう」

「……難しいよね。難しいから、お芝居は楽しいんだよ」

「うん」

「沢ちん……お芝居、好き?」

「好きだよ」

「なら、きっとうまくなるよ」

「……上田さん、これからも演技教えてよ」

「……」

 僕の言葉に上田さんは何も言わなかった。僕は少し体を離して彼女を見た。上田さんは微かに微笑んだ。

 僕は不安になった。その不安を打ち消したくて言葉を出す。

「……この前ね、僕が記憶を失う前、上田さんに言えなかった事があるんだ」

 上田さんは不思議そうな顔を僕に見せた。僕は一呼吸して彼女をまっすぐ見つめる。

「僕……上田さんの事が好きです……上田さんがどんな姿でも、幽霊でも、上田さんの事が好きです。一生僕に取り憑いてていいから、僕の体好きな時に使っていいから、だから、だから……成仏しないで僕とずっと一緒に居て下さい」

 上田さんの表情は変わらなかった。僕は続けた。

「僕の体を使えば、上田さんはお芝居も出来るし、食事も出来る、映画だって本だって音楽だって楽しめる。大人になったらお金稼ぐから、世界中の色んな所見に行こうよ。イギリスでシェイクスピア観たり、ニューヨークでブロードウェイを観よう。他の人とはちょっと違うかもしれないけど、きっと幸せにするから、僕の一生を上田さんに捧げるから、だから僕が死ぬまで一緒に居てよ。僕と一緒に成仏すればいいでしょ?」

 上田さんは不思議そうな表情から泣きそうな表情に変わる。彼女の口元は歪み、左眼の瞬きが多くなり、同時にその眼から涙が零れた。


 僕は上田さんの表情の変化を見届けた後、再び上田さんを空で抱き締める。微かに、本当に微かにだけど、上田さんの体温を感じた。

「あ……ありがとう」

 震えて上擦った泣き声だった。

「上田さん……一緒に居よ?」

「沢ちん……嬉しいよ。私も沢ちんの事、好き」

「……うん」

 上田さんを強く、強く抱き締めたかった。代わりにピアノの足を強く握った。

「……けど、ごめんね」

 上田さんの言葉は僕の周りの空気を凍らせる。僕は何も言わず彼女を見た。

「私、やっと成仏出来る……」

「え……?」

「私、今本当に幸せ……ありがとう。沢ちん、大好きだよ……本当に大好き」

「ど、どういう事?」

「幸せだから……」

「ぼ、僕のせい?」

「『せい』じゃない。『おかげ』だよ」


 急に下から光に照らされ、周りが明るくなる。驚いて床を見ると、血が光の粒に変わっいて、蒲公英の綿毛が風を舞うようにその粒が飛び立っている。壁も床も、血だらけだった音楽室全体が光っている。上田さんの体も淡く光り、段々と透け始めている。


「い、嫌だ。成仏するのが目的だったかもしれないけど、成仏するのが一番上田さんの為だったのかもしれないけど、我儘言ってるのは分かってるけど、上田さんと、ずっと一緒に居たいよ。どんな事でもするから、お願いだから僕の前から消えないで」

 また……また上田さんを失ってしまう。今度は確実に、永遠に。そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。


「……沢ちん、私から最後の演技の授業ね」

「最後なんて言わないで!」

「聞いて! 私が沢ちんに出来るのはこれ位しかないから」

「そんな……」

「ロミジュリのラストで感情が盛り上がらなかったって言ったよね……今の沢ちん、泣いてる。今、沢ちんは感情を表現しようとしてる訳じゃないよね。まさに感情が溢れている状態なの」

「今演技の事なんてどうでもいいよ!」

 上田さんは僕の言葉に少し困ったように眉毛を下げ、続けた。

「……だから、今の状態を覚えておくの。感情や五感を覚えておくの。今見える物は? その色は? 手や足や体の触覚は? 何が聞こえる? 匂いは? 役者は現実世界で感情が揺さぶられる事が起きたらそれを覚えておくんだよ。それをお芝居の参考にするの」

「そんなのいいから……そんな言葉が聞きたいんじゃないよ……」

「……生まれ変わったらまた会いたいな」

 そう言うと、上田さんの体はまばゆい光に包まれた。強烈な光で、思わず手で目を覆う。ピアノの足を掴んでいた手を離した為、バランスを失って思わず尻餅をつく。「上田さん!」目を強く瞑りながら叫んだ。前方に両腕を伸ばして上田さんを抱き締めようともがく。当然、腕は宙を掻く。


 目を閉じていても光はまぶたをつらぬいて視界を白くしている。目は開けられないけどまだ居るはずだ。まだ上田さんは其処にいる。まだ話したい事が沢山ある。


「沢ちん、ありがとう。今日の感情、覚えておくんだよ」


 頭の奥で上田さんの声がした。柔らかい何かが僕の唇に触れる。そして今までより一層強い光と熱が僕を覆った。

 少しして光が弱まり、僕は目を開け周りを見回した。


 月の光が照らす正常な夜に沈んだ音楽室に、僕は一人だった。

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