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「歩美、ごめん」


 これが映画の撮影ならきっとNGだろうな、と私は思った。だってお父さん、全然悲しそうじゃない。何を考えているのか分からない。頼まれていたTVの録画を忘れて謝る様な軽い口調なんだもん。


「うん」


 それに対する私の台詞にもきっとカットがかかる。私の方もすっかり大根役者だ。


「これ、飯食った後で飲みな。寝てたら済んでるから」

 赤信号で停車中、そう言ってお父さんは五錠、薬をくれた。


 車の窓から外を見ると良く晴れていて、何で青色の事を空色と名付けなかったのか不思議になる。空は素敵な空色に塗られている。そして私は嫌味っていうのはこういう事を言うんだなと思った。神様はこの素敵な空色を使って私に嫌味を言っている。


『神様、今更そんな事言わないで下さい。眼帯を外して、焦点を車の窓ガラスに移すだけで、神様の言う事なんて簡単に論破出来てしまいますよ』


 流れていく景色はとてものどかで、途中横切った公園にはフリスビーで遊んでいる親子が居た。『私の事なんて他人は本当にどうでもいいんだ』と、当たり前の事を当たり前に思う時間が景色と共に過ぎて行く。


「本当にマクドナルドでいいのか?」

 お父さんが聞いてくる。私は何の変哲もない「いいよ」を返した。お父さんからも何の変哲もない「分かった」が返ってくる。


 最期の食事にマックを選んだのは、決して自暴自棄だった訳じゃない。本当にマックが食べたかった。お寿司も焼肉もイタリアンも最期に食べる料理としてはなんだか物足りない気がした。どんな高級料理を食べても満たされる事なんて絶対に無いって分かりきっているから、だから選ぶのはファーストフードなのだ。それに特別でもない普通のハンバーガーを食べれば、普通の明日が待っているような気がした。普通に過ごせば、普通にやり取りをすれば、当たり前の普通の幸せが手に入る、私とお父さんは心の何処かでそう思ってるんじゃないだろうか。私達はこの土壇場まで幸せにしがみついている。


 マクドナルドのドライブスルーには数台の車が注文待ちで並んでいた。私は停車しているときにテリヤキバーガーのセットが欲しい事をお父さんに伝える。


 私達の注文する番が来て、お父さんは私のセットとは別にとても一人では食べきれない量を注文し、くしゃくしゃの五千円札で支払いを済ませた。お父さんの注文する声はかすれていて、お札を受け渡す手は微かに震えていた。どんなにお客さんがいっぱい居ても、本番前日にどれだけお酒を飲んでも、舞台上では渋い低音で歌い、カッコ良く殺陣をこなすお父さんと同じ人物とは思えなかった。


 お父さんは八王子市役所の駐車場に車を止めた。八王子市役所の目の前は浅川で、広い河川敷が広がっている。

 河川敷にはランニングしている人や犬を放し飼いで遊ばせている人、サッカーボールでパスを出しあっている親子が居る。皆、一様に幸せそうだった。私とお父さんも他人から見れば幸せに映るのだろうか。それとも何か訳がある様に見えるだろうか。


「セットみたい」私は小さく呟いた。


 今日のこの時間のこの場所は、映画のセットみたいだ。目に入る人達はエキストラ。私達の人生と彼等の人生を対比してコントラストを強調しているのだ。ありきたりな演出だ。神様は映画監督に向いていない。


 こんな時まで映画に例えて嫌になる。そして今、私は私が今抱いているこの感情を覚えておこうと思っている。いつか何かの作品に出るときに参考に出来る感情だから。役者の性。とびきり悲惨な事が自分の身に起きても、客観視して自分の感情や行動を分析してしまう。これが舞台なら客にはどう見えるだろう、カメラが回っていたらどうだろうって。もちろん、今の私には無駄な事。


 ハンバーガーを食べている最中、河川敷を沿う遊歩道に目をやると、自転車を二人乗りする高校生カップルが通った。私は思わず目を逸らす。


 私の恋と友情は最悪な形で終わった。私の芝居も最悪な形で終わった。「ああ、もういいや」と私は言う。その言葉を聞いていただろうお父さんは何も言わず、わざとらしく大きな音を立てて紙袋に手を入れ、ナゲットを取り出して食べた。


 ハンバーガーを食べ終わって駐車場に戻る。私は車に乗り込む前に後部座席のドアの前に立ってみた。かつて劇団の全国巡業に使われていたオンボロバンのドアには、剥がしきれなかった『紅硃鈴』の文字を縁取った黒や金色の塗装が微かに残っている。

 そしてそのドアにはぼんやりと制服姿の女子高生が映っていた。こんな日に着るのも制服で、お気に入りの服も、流行りの服も持っていない、友達も彼氏もいない、顔に傷のある女子高生が映っている。周りに合わせる為に買ったブレザーの下のラルフローレンのカーディガンが妙に浮いている。


 私は車と女子高生に「お疲れ様でした」と言って勢い良くドアを開けた。

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