32
僕は校舎の周りに沿って走った。その道は『内周』と呼ばれている。学校の敷地周りを『外周』と呼ぶのに対して、敷地内の校舎の周りを走る道だから『内周』だ。演劇部も良くこの内周を走る。これを半周すると旧校舎の入口がある。一旦そこを通り過ぎたけど、僕は旧校舎に違和感を覚えて立ち止まり、振り返った。
ついさっきまで片付けをしていた旧校舎。まだ中西先生は旧校舎の鍵を閉めていないみたいで、入口の扉は開いている。旧校舎の中はほんの少しだけどぼんやりと赤く光っていた。
感情の昂ぶりと突然の全力疾走で頭痛が酷く、呼吸も激しく乱れている状態の中、僕はぼんやりと不思議に思った。何故赤く光っているのだろう? 片付けをしていたさっきまではそんな灯りはなかった。
正直、旧校舎が赤く光っていようが虹色に発光していようが今の僕にはどうでも良かった。でも僕は、今抱いている意味の分からない悲しみから逃げたかった。溢れ出る感情から目を逸らしたかった。自分がどうにかなってしまいそうで怖かった。だから少しでも自分の外の事象に目を向けたかった。僕は赤い光を確認しようと旧校舎に近付いた。そんな事を確認しても何の解決にもならないのは分かっていたけど、僕にはその光は逃げ場だった。
外から天井を見ると蛍光灯は点いていない。僕は旧校舎に一歩入って光源を探した。しかし見渡しても光源は見つからない。僕はさらに奥まで入ることにした。
すると入ってすぐの廊下に、細く赤く発光している線の様なものを見つけた。その線は廊下に沿って階段にまで伸びている。僕はその線に近付いた。
その線を覗き込んだ瞬間、僕は思わず仰け反った。条件反射みたいに上半身が素早く動いた。体がその線を見ることに拒絶反応を起こしたみたいだった。仰け反った勢いで数歩後ろによろめき、尻餅をつく。走っている中で止まっていた涙が再度流れ出す。さっきよりも激しく、早い感覚で断続的に息切れを起こす。
「血だ……」
もし周りに誰かいたら、多分その人は僕がなんて言ったか分からなかっただろう。僕の呟きは泣き声混じりのあやふやなモノだった。
僕は堪らずに仰向けになり、両腕を交差して顔を覆う。
「君の……血だ……君の……」
これは、君の血だ。君が血を流して苦しんでいるんだ。君は誰? なんで僕は君の事を忘れているんだ? 君は何処にいるの? 何処にいるの? 何処にいるの?
「今、行くから、行くから、君の所に」
君が聞いているかもしれないからきちんと発声しなければならない。もう一度「今、行くからね」と大きく言う。誰もいない旧校舎の玄関で僕の声だけが響く。君からは何も返って来ない。
僕は壁に手をつき、身体を預けながら立ち上がった。君はきっとこの旧校舎にいる。探さなければいけない。
立ち上がると、冷たい血液が眉間の辺りから喉を通って一気に胸へ落ちる様な感覚に襲われる。と、同時に急な吐き気がやってくる。胃液が荒ぶった生き物の様に激しく逆流し、食い止めようとするけど、抗えずに少し吐く。吐瀉物が制服のズボンにかかる。
ひとまず洗面所に行こうと一歩足を出す。が、足に力が入らない。柔らかい地面を踏んでいるみたいに足の感覚がない。体重のコントロールを失って前のめりに倒れる。派手に顎を打つ。さっき吐き切れずに堪えていた吐瀉物が唇から漏れ出る。
きっと君は、僕に来るなと言っている。でも、もう優しくしなくていいから、僕の事なんか思いやらなくていいから、君の事を思い出させて下さい。君に会わせて下さい。この体から内蔵まで吐いて空っぽになっても、絶対君に会いに行く。
洗面所で吐いてる中、呼吸が出来なくて、視界の上から黒いカーテンがチラチラと見え隠れする。両手で洗面台を強く掴み身体を支える。冷たい洗面台の感覚がありがたかった。そのお陰で意識を保てている。何回目の嘔吐だろうか、鼻からも吐瀉物が落ちる。しばらく吐いて、もう吐くものなんて無いのに吐き気が次々に襲ってくる。その度に呼吸困難と頭痛に見舞われる。本当に胃袋まで吐いてしまうのではないか。黒いカーテンの次は光の粒が視界に浮かぶ。
だけどいつまでも此処にはいられない。早く君の所へ行かなければならない。洗面台の蛇口を強く捻り、出てくる水に頭を突っ込む。そのまま顔を大袈裟に洗い、口をすすぐ。上半身を起こすと頭部から制服へ水が滴り落ちてくる。もうそんな事はどうでもいい。僕は濡れたまま廊下に戻った。
頭痛、息切れ、吐き気、に加えて寒気が増える。さっき被った水のせいだけじゃない。廊下はさっきまでとは違って異様に寒い。冷蔵庫の中の様だ。吐く息も白い。白い霧状になった冷気も見える。
僕は血を辿り、廊下を歩いた。さっきから視界が霞んでいる。目の焦点が合わない。手指の感覚もなくなっている。何処を歩いているかももう考えられない。階段を登った気もするけど、降りている様な気もする。良く練習で使った旧校舎だけど、初めて来た建物みたいだ。
でも血があるから、君の血が見えているから、こんな状態でも君の事を全て忘れていた時よりいい気分なんだ。この血は君が確かに存在している証拠だろう? きっともうすぐ会えるんだ。君が血を流して苦しんでいて、早く助けてあげなきゃいけないけど、不謹慎にも僕は結構高揚しているんだ。
辿っていく中で、血は段々と色濃くなり、その量も多くなっていく。そして僕はある部屋の前で立ち止まった。血はその部屋の扉の隙間から漏れ出ていた。
「こ……こ……だ」
やっと君に会える喜びで思わず独り呟いた。きっとこの部屋に君は居る。気持ちが逸り、半ば倒れ込む様にドアに近付き、ドアの取っ手を握ろうとした。僕の麻痺した指は上手く開かず、そのままでは握れなかったので、口で無理矢理指を開く。だけどそうやって取っ手を握っても力が入らない。扉は重厚で、これではとても開きそうにない。
そこで僕はドアと取っ手の間に腕をねじ入れた。そのまま後ろに倒れこむ様に体重をかける。ドアが少し震える様な手応えを感じる。あと少し。もう一度体勢を戻し勢いを付けて後ろに倒れこむ。
ドアは勢い良く開き、ダムの放水を彷彿させる大量の血が轟音と共に流れ出す。僕は真正面から血の瀑布を食らい、後ろの壁に激突した。
血は暖かい。そしてルビーみたいに透き通った綺麗な赤色をしている。身体中に浴びても何ら悪い気はしなかった。むしろ心地良かった。冷え切った身体に暖かさが戻りはじめ、そしてだんだん意識が薄れていく。
君に、包まれているようだと思った。
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