31

 セットに使われたパネルは準備の時よりも重い。今は手も震えていない、準備の時より体はよっぽどしっかりしているのに、重い。夢と希望のカケラだった物体は、今はただの重い木の板だ。


 そんなに悪い出来ではなかった、むしろ良かったのでは、とも思う。会場にも笑いが起きていたし、ラストシーン手前では啜り泣く音もちらほら聞こえた。大きなミスもない。だけど結果は無常だった。


 八常高校演劇部は地区大会で予選敗退となったのだ。


 発表を待っている間、部員達は、都大会に出場してくる強豪高校について話したり、稽古の日程を考えたり、改良する点やお互いの駄目出しをしたり、都大会に出場する前提で期待に胸を膨らませていた。それだけに部員達の落胆は大きかった。もちろん僕もだ。


 八常高校の演目に対する審査員の講評もあまり頭に入って来なかった。高校生らしさがどうとか言ってたけど、誰に何を言われても納得の出来る理由なんて得られそうになかった。

 それでも講評の間、僕は何で駄目だったかの理由を探す為に、今日の本番を繰り返し思い出し反芻する作業にのめりこんでいた。結局答えなんて出ないまま大会は終わり、今はただの木の板を運んでいる。


「残念だったな」

 友光が言う。

「うん」

「あいつら見る目なさ過ぎだ。うちが一番面白かった。周りの奴らは何というか元気なだけで雑だった」

「……友光、僕の芝居どうだった?」

「ん? まあ悪くなかったと思うぞ」

「練習の時と比べたら?」

「んーそうだな、やっぱり神懸かってた練習のときと比べたら、練習のときのが良かったな」

「やっぱりそうだよね……」

「ロミオが死ぬ前の台詞あったろ、あそこは涙が欲しかった」

「そう……」

「いや涙というか、感情の盛り上がりか。涙なんて感情が伴ってなかったら安いし。練習の時は本当凄かったよ。こいつ本当に死ぬんじゃないかってぞっとした。で、こっちも凄く悲しくなった」

「そっか、本番ではとてもそんなレベルまでは行けなかったな……やっぱり僕のせいだ。全然表現出来なかった」

「表現する? なんか違うような気がするな」

「え? どういうこと?」

「いや、俺もよくわからん。なんか『表現』って違うような気がしただけだ。まあそれはそれとして、沢田はそんなに悪くはなかったよ。それは本当だ」

「……なら良いけど……いや予選敗退だから良くないけど」

「演劇はチーム戦だ。お前一人の責任じゃない。お前が責任を重く感じるのは逆におこがましいぞ」

「……うん」


 パネルを倉庫代わりにしている旧校舎の使われていない教室に運び終わり、部員は校門の前に集まった。中西先生が部員に向けて労いの言葉をかける。

「今日はお疲れ様でした。都大会には行けなかったけど、先生はとても面白いと思いました。中間テストで忙しい中、良く頑張ったと思うわ。明日も学校だから今日は早く帰ってゆっくり休んで。解散」

 八常高校演劇部の大会を、中西先生はお決まりの内容であっさり締めた。それは決して愛情が無いのではなく、僕らにかける言葉がないからだと思う。それ程僕達は落ち込んでいた。結果発表からこの瞬間まで部員達は言葉少なで、ほとんど私語らしい私語もしていない。


 清水は講評から今の片付けまでずっと押し黙っていた。会場から学校へ帰るバスの中で一度目が合ったけど、その時も何も言葉は交わしていない。


 部長の小山田先輩は会場の隅で泣いていた。祁答院先輩はその小山田先輩にいち早く気付き、小山田先輩の側に居た。


 毛利はいつもとあまり変わらずのほほんとしている様子だったけど、毛利がいつも食べているはずのポッキーが帰りのバスの中ではカカオ70%のビターチョコに変わっていた。さらにバスの中で部長の小山田先輩に向かって「これ、食べますか?」と、塩キャラメルを一個あげていた。涙で出た分の塩分補給のつもりなんだろうか、きっと毛利も何かしら傷付いているのだろうなと思った。


 友光は責任を重く感じる必要なんてないと言ったけど、やっぱり主演という立場もある。意気消沈しているみんなを見て心が痛む。解散になって三三五五みんなが帰って行く中、僕はどうにも動けずにいた。


「沢田、帰らないのか?」

「いや、帰るけど、友光先に帰ってて。もうちょっと反省していく」

「……そうか。まああまり気にすんなよ。また明日な」

「うん。じゃあね」


 友光が自転車を漕いで校門の陰に消えて行くのを見た後、僕は自分の自転車を押してとぼとぼと歩き出した。


 歩き出してすぐ、校舎を振り返る。忘れ物をしている様な気になったからだ。貧血で倒れて保険室で目を覚ました時からずっと何かが気になっている。何かを忘れている。それは学校に関係するモノで、演劇に関係するモノだと思う。


 気が付くと僕は校舎の方へ引き返していた。校舎は職員室だけ灯りが点いている。中西先生だろうか。いつも登下校に使っている生徒用の入口は閉まっている。普段は大きく開いていて閉まっているのは稀に見る光景だ。鍵がかかっているかもしれない。それでも、僕は校舎に近寄らずにはいられなかった。


 校舎入口に向かって右手前には、いつも自転車を停める駐輪場がある。駐輪場は電灯が一個だけ弱く点いていて、おそらく今日は家に帰れない数台の自転車を寂しく照らしていた。僕は押していた自転車をその駐輪場に停めた。僕が停めたレーンには一台も停まっていない。


「沢田君」

 自転車の籠から鞄を出そうとしたときだった。誰かに呼ばれる。僕は驚いて振り返った。振り返るまでの一瞬に、こんな時間に自転車を停めて何をするつもりだったのか聞かれた時の言い訳を考えた。何故なら『忘れ物をしている「かもしれない」』という怪しさ全開の理由で校舎に近付いた手前、何かしら正当な理由を言わねば完全に不審者だからだ。

「どうしたの?」

 最悪な事に一番見られたくない人が其処に立っていた。高橋先輩だ。僕は気の効いた言い訳も思い付けず、「あ……」と自分の不審者容疑を深める声を漏らす。

「ごめん、沢田君が学校に戻るの見えちゃって。帰らないの?」

「え、あ、はい……なんとなく、そのまま帰りたくなくて」

 咄嗟に出た返答だったけど、良い返しだと思った。実際に帰りたくなかった。反省したかった。

「そっか。私も一緒」

「そ、そうですか」

 なんとか不審容疑は免れたかもしれない。

「……残念だったね」

「は、はい。あの、今日はすみませんでした」

「ん? なんで謝るの?」

「いや、不甲斐なくて……友光から聞きました。練習のときのほうが良かったって。練習のときの様な芝居が出来てれば都大会に行けたかもしれないじゃないですか。結局、前に高橋先輩に弱音を吐いたときの通りになってしまいました……だから」

「お芝居は一人でやるものじゃないでしょ。私にも責任あるし、沢田君が謝る事じゃないよ」

「はい……」

「……終わっちゃったね」


 演劇の大会は11月に都大会、翌年1月に関東大会、夏に全国大会となっている。スポーツ系の部活の大会の運びとは違って年度を跨いで行われる。つまり今回挑んだ大会は二年生にとって最後の大会だった。細かな地区の発表会などはあるので、現二年生の正式な部活の引退は来年春になるけど、先輩達にとってはこの大会が終わる事はほとんど引退の様なモノなのだ。


「もっとお芝居演りたかったなあ」

「大学では演らないんですか?」

「んー大学で演るのはちょっと違うかな」

「そうなんですか?」

「芝居ももちろん好きだけど、ハチジョーの演劇部はもっと好き。ハチジョーで演劇やるのが最高過ぎたから、大学ではいいかなあって」

「あー分かります。先輩達、凄く仲いいですよね」

 先輩達は部活のときだけでなく、休み時間や放課後にも一緒に居るのをよく見かける。そして集まっているときは決まってみんな笑顔だ。

「そうなの。仲いいの私達。みんな大好き」

 高橋先輩はとびきりの笑顔で言った。見た人の体の奥から幸せを引っ張ってくる様な魔力を持った笑顔だ。弱い灯りの中でもはっきり白く見える歯が印象的だった。


「もちろん一年生達も大好きだよ。みんな凄く魅力的。来年は都大会行けるといいね。観に行くから」

「あ、はい、でも受験で大変じゃないですか?」

「一日位平気だよ。息抜き息抜き。一年生は沢田君はもちろん、上手い人が多いからいいところまで行けるんじゃないかな」

「僕は上手くなんかないです。練習のときはまぐれでした」

「まぐれでもなんでも出来た事には変わりないよ。……私、ロミオに恋してた。練習の時から。本当に素敵だった」

 そう言って高橋先輩は僕から目を逸らして遠くを見た。


 僕は何も言えず、今の高橋先輩の言葉の意味を考えていた。『それってどういう意味ですか?』と聞きたかった。もし仮に、本当に可能性は極薄だけど、今の高橋先輩の言葉が僕に対して好意を表明する告白だとしたら、『それってどういう意味ですか』という返答を放り込むのは全然スマートじゃない。それを聞くのは『僕の事が好きって事ですか?』と聞く事に近い。意味を再確認するのはとてもくどい。素人丸出しだ。いや素人でいいんだけど、いや何の素人だ。恋愛か、恋愛の素人か。まあそれはそれとしてそれを聞くのはとてもダサい、ダサ過ぎる。百年の恋も冷めるダサさだ。

 じゃあ『それってどういう意味ですか』がスマートではないなら何がスマートなのか? それはきっと、相手の真意を理解し、そのまま応えるのがスマートだ。告白だった場合、『僕も高橋先輩の事が好きでした。付き合いましょう』がスマートなのだ。

 待て待て待て落ち着け自分。もし告白じゃなかった場合、つまり高橋先輩の言った言葉がそのまま『演技上のみ恋に落ちてました(リアルの世界では関係ありません)』という意味だった場合、いきなり告白に応える様な返答をしたら気持ち悪すぎる。高橋先輩は性格も天使だからこんな事言わないだろうけど、一般の女子高生なら『あいつ、告ってもいないのになんか勘違いして付き合ってもいいみたいな事言ってきてマジキモいんですけど』みたいな事をドーナツの肴にして駅前のミスドで友達らと盛り上がって言うだろう。ツイッターで拡散されたり、そのリツイートが千を越えたりするだろう。だからこの場合は『ありがとうございます。今後も精進します』とか当たり障りない事を言ってそのまま会話を続けるのが正解だ。

 しかしまた仮定の話になるけど、万分の一の確率で高橋先輩が僕に好意を示してくれていた場合、それをスルーしてしまう事になるのだ。万載一遇のチャンスをみすみす見過ごす事になる。


 今僕は『思わせぶりな美女から与えられた情報から相手の真意を読み取り、適切な答えを出しなさい』という、自分にはかなり難しい問題に直面しているのだ。何故、女子達はこうも僕の様なウブな男子を翻弄する事に特化しているのだろう? そういう特務機関が秘密裏にあって、女子は皆、訓練を受けているのだろうか? もし僕が及川光博だったら、にっこり笑って『僕もだよ』とか言って、相手の真意に探りを入れる、将棋で例えれば穴熊に対する棒銀の様な受け答えが出来るのに、とか一瞬考えたけど将棋なんか知らない。ネットで得た知識が頭の中で火花の様に散って何故か将棋のイメージが浮かんだ。穴熊に対して棒銀が有効かどうかも良く知らない。要するに僕は今、パニック状態だ。


 高橋先輩の様なパーフェクトな女子に僕なんかが似合うはずもない。それでも人生で一度もモテた事のない僕はちょっとでもチャンスがあればそれにすがりたいのだ。だから僕はパニック状態の中、万分の一の確率にかける事にした。


「ぼ、僕も高橋先輩の事……」

 好きです、と言い掛ける前だった。頭痛が走る。違う、そうじゃない。僕が告白する相手は高橋先輩じゃない。僕には高橋先輩よりもっと好きな、大切な人が居た。高橋先輩の事は確かに好きで憧れだけど、付き合いたい、とかそういうのじゃない。


 僕は心から一生を添い遂げたいと思える様な恋をしていた。

 そしてその人を僕は失った。一体誰? どうしてこんな大事な事を忘れているのだろう。

「さ、沢田君、どうしたの」

 高橋先輩が驚いたような表情でこちらを見ている。気が付くと僕は涙をボロボロ流していた。

「す、すみません。高橋先輩、ちょっと僕、ここで失礼します!」

 そう言って僕は走り出した。

「え、ちょ……」

 高橋先輩は何かを僕に向けて言ったが、靴音や衣擦れ、そして自分の息遣いで良く聞こえなかった。


 涙が止まらない。悲しくて堪らない。栓が壊れた水道の様に止める術を失って溢れる感情に溺れてしまいそうだ。だから走った。溺れないように、走って、走って、走った。物理的で単純な呼吸が、僕の感覚を辛うじて現実に繋ぎ止めてくれる。僕は壊れてしまったのだろうか。誰を失ったかも分からない、それなのに悲しいだなんて。

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