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 奥歯の鳴りがおさまらない。ひどい緊張で体のコントロールが全く効かない。


「沢田よ、大丈夫か? 顔面蒼白だぞ」

「ど、どもびつ……き、緊張がやばい」

「だろうな。落ち着け。おっとと。おいおいパネルしっかり持て」


 もはやパネルすらしっかり持てない。

 前の高校の演目が終わり、ハチジョーの『ロミジュリ!』にセットチェンジ中だ。


 僕らの西多摩地区は16校が大会に参加している。日曜日の今日は、そのうち4校が一時間程度の演目をそれぞれ披露する。地区大会は二週がかりで、優秀な上位2校が都大会に進める。今日は地区大会最終日でもある。


 セットチェンジは一時間しかなく、プロの舞台の様に手の込んだセットは組めない。簡易なパネルを立てたり、椅子にも机にもなる抽象的なボックスを置くくらいだけど、いかんせん時間が短いので手早くセットを組まねばならない。


「おい沢田、腹式呼吸だ。呼吸が浅かったら発声が安定しなくて芝居が微妙になる。気持ちも落ち着くはずだ」

「お、おう」

 友光の言う通りに腹式呼吸をする。

「呼吸が浅いな。腹式呼吸するときはまず息を吐けって誰か偉い俳優が言ってたぞ」

「だ、誰だったっけ? 聞いた事ある」

「忘れた。でも確かな実力を持った俳優か女優だったはずだ」


 本当なら発声の前には、体を温めて、ストレッチをして、腹式呼吸して、ハミングをする、というアップの順序がある。参加校はお互いの演目を見なければいけないので、自分の本番前に満足なアップは出来ない。その為、このセットチェンジはとても大事な時間だ。セットを建てながら、衣装を着替えながら、腹式呼吸したりハミングをするのだ。


「どうだ? 少し楽になったか?」

「うん、少しは。でもまだ指先が震える」

 体も冷えている。心臓は早いのに血が巡っていない。

「夏にBAR MIZUHOに行ったろ? あれより緊張してるか?」

「ああ、あれ。あれも入るまでは緊張したけど、あれより緊張してるよ」

 夏に友光と、中西先生の同級生だった瑞穂さんという人が経営するバーに遊びに行ったのだ。今思えば変な事をしたものだ。夏だし、おかしなテンションだったのだろう。

「まあ、気楽にいけよ。たかが演劇だ、命を取られる事はない」

「それはそうだろ」


 ふと思った。自分はなんでパネルも持てない位ガタガタ震える程緊張しているのか? 確かに友光の言う通りだ。命を取られたりする事はない。プロを目指している訳でもない。失敗しても失うものなんてなく、ただちょっと恥ずかしい思いをする位だ。

 確かに恥ずかしい思いをするのは嫌だ。でも恥ずかしい思いをしたからなんだというのだ。僕はカッコ良くもないし女の子にモテたりもしない。もともとの評価が別に高くないからこれ以上落ちようがないではないか。なのに、高橋先輩や他のみんなの前で恥をかきたくない、カッコつけたいという思いがある。だから緊張している。結局自意識が強いのだ。


 自意識。この単語が頭に浮かんだ時、強烈な頭痛があった。脳の中心から沸いた様な痛みで、体も一瞬固まる。何かとても大切な事を忘れている気がする。

 自意識、自意識、自意識……『強すぎる自意識は邪魔だ』と言ったのは誰だっただろう。僕は誰かに、演劇をするときには自意識は捨てろ、と教わった気がする。TVで誰かが言っていたのではない。確かに誰かに教わった。それも最近な気がする。

 何で覚えていないのだ。何かがおかしい。何か僕の身に異変が起きている。ひょっとしたら脳の病気なのか。さっきの頭痛は今まで経験した事がない痛みだった。この前倒れて保険室で休んだ時も記憶が少し曖昧だった。


「おい沢田」

 友光の声で我に帰る。


「大丈夫か? もうここはいいから衣装着ろ。集中しろ」

「う、うん」

 僕は準備の為に舞台袖に向かった。


「集中を作るにはまず五感に集中するのがいいらしいぞ!」


 友光の声が遠くで聞こえる。また頭痛がある。友光が今言っていた事も、その誰かが言っていた事な気がする。友光も同じ人に演劇を教わったのだろうか? ひょっとしたら友光に聞けばその誰かが分かるかもしれない。

 振り返ると友光はパネルをつなげるために釘を打っている。今は本番まで時間がない。そんな事を聞いてる場合ではないけど、簡単には後回しに出来ないざわつきが胸に広がっている。気が付けばまた呼吸が浅い。焦って衣装の袖に腕を通すのにも苦戦する。


「さ、沢田君。き、今日の本番頑張ろうね」

 やっとの思いで腕を袖に通したところで堂本さんが話しかけてきた。手に小道具の台本を持っている。

「堂本さん、ありがとう」

「き、緊張してる? してるよね。当たり前だよね」

「う、うん、してる」

「そ、その緊張、少し楽になるかもしれないから準備しながら聞いて。わ、私の尊敬する女優さんの言葉。『緊張して駄目になってしまうのも実力のうち。上手くいっても失敗してもどっちでも自分の実力。駄目なら反省して次に進めばいいだけ。舞台上では自分の実力以外のものが出ないって考えたら、とても気楽じゃない? 自分を受け入れればいいだけなんだから』って」

「……いい言葉だね。なんて女優さんなの?」

「い、言っても分からないと思う。大衆演劇の女優さんで、もう亡くなってる人だから。その人と同じ劇団に居たヨシリューさんから聞いたの。だから気楽にいこ?」

「う、うん」

 堂本さんの言葉も何処かで聞いたことがある。デジャヴュが連続で襲って来ている様な不思議な感じだ。

 だけど堂本さんの言葉は僕を落ち着かせた。さっきまでのざわつきが嫌なモノではなくなった。どことなく懐かしい様な、温かい思い出の様なモノに変わったのだ。

 本番直前の不安や緊張をやわらげるいい言葉だった。

 もうここまで来たら全て受け入れて舞台に立つしかない。早い心臓の鼓動も震える手も自分なのだ。もうそれでいい。震えたままでいい。16ビートで鼓動すればいい。


 目をつぶる。

 周囲の音がクリアに聞き取れる。自分の鼓動も微かに聞こえる。

 目を開ける。

 忙しく準備している部員達、セット、幕、小道具が目に飛び込んでくる。次に自分の体を意識する。震える指先、落ち着きなく動かさずにはいられない体、衣装のスニーカーにかかる自分の体重、底のゴムに僅かにめり込む足の裏、履いている靴下の感触が伝わってくる。


 緊張はしているが、落ち着きは取り戻したように思う。何よりも本番に対する覚悟が出来た。台詞が飛ぼうが失敗しようが抗う事が出来ないものなら、ジタバタしたってしょうがない。ある種の開き直りに似た境地に居た。

『沢ちん、大丈夫だよ、私が付いていたんだから』

 近くで女の子の声が聞こえた。部員の声ではなかった。近くを見回したけど声の主に当たる様な女子は誰もいない。どこか懐かしくて寂しい声だった。ひょっとしたら、いつか僕が妄想した理想の女の子かもしれない。僕は少し吹いた。妄想の女の子まで引っ張り出して励まさせる自分が可笑しかった。


 開演前に会場に流れていた音楽が止み、だんだんと明かりがフェードアウトする。次に明かりが点く時は僕はロミオになっている。


 今、幕が開く。

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