28

 気が付いたのは保健室だった。


 何で自分が保健室にいるのかさっぱりわからなかったけど、これほど素晴らしい寝覚めは経験した事がない、そう思える程頭はスッキリしている。視界がクリアで、わずかな消毒液の匂いを敏感に感じる。


「あら、沢田君、起きた? どう、体平気?」


 誰かの声がする。すぐにカーテンが開かれて声の主が姿を現す。保健の先生だ。先生は僕の顔を見て笑顔をくれた。分厚い眼鏡の奥から目尻に皺がくっきりと浮かび、ボリュームのある白髪と相まって、いかにも優しいおばちゃんという印象を受ける。


 僕はこの保健の先生の顔は知っていたが、名前は知らない。話した事もなかったのに沢田君と声を掛けられた事で心が少し暖かくなった。


「はい、あの、僕はどうしてここに?」

「え、記憶ないの? ただの貧血じゃないのかしら?」

 先生が真顔になる。

「貧血……」

「沢田君、二時限目が始まる前に教室に入ってきて、そのまま倒れたらしいわ。覚えてない?」


 先生に言われて思い出す。確かに教室に入った瞬間に眩暈があった。倒れる時にそばの机のペンケースを手でひっかけて派手に中身が飛び散った事、丁度入ってきた世界史の先生が「こりゃいかん。大丈夫か」と呑気な声で聞いてきた事、どうやらただの貧血らしかったので保健委員に付き添われてここまできた事、次々に思い出した。


「ああ、そうでした」

「一応病院行った方が良いかもね」

「いや起きたばかりでちょっと混乱していただけです。今はもう全然大丈夫です」

 何やら一大事になりそうなので焦った。自分の体だから病院に行く程の事ではないというのはなんとなく分かる。

「そう? 無理しちゃ駄目よ。今日は早退する?」

「いえ、早退はしないです。今何時ですか?」

「一時。そろそろ五時限目ね」


 今日の五時限目は英語の授業だ。英語の島根先生はとても厳しい先生で、授業中はほぼ英語、島根先生の問いに英語で答える事が出来なければ「スタンダップ」と言われ、次の問いに正解するまで立ったまま授業を受けなければならないというスパルタ式な授業をする人だ。当然予習が必須の授業。

「戻ります」


 当然サボろうかという悪い考えが頭をよぎったけど、サボったら余計次の授業についていけなくなる。それに、サボり癖がついてしまいそうで気が引ける。

「そう、偉いわね。でも無理しちゃ駄目よ。何か体に違和感を感じたらすぐに私か誰か大人に相談するのよ」

「はい、わかりました」


 ベッドで皺になった制服のワイシャツを伸ばしながら保健室を後にする。


 実は違和感を感じていた。でもそれは体の事ではなくて別の何か。自分でもそれが何かは分からなかった。

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