27

 なんとなく、こうなるんじゃないかと寝る前から予感していた。

 朝起きたら、また上田さんが居ない。


 昨日、堂本さんからのLINEで僕は動揺した。その動揺を上田さんに知られないように平静を装ったつもりでいたけど、きっと上田さんは僕の動揺を感じ取っていて、そしてそれが自分の死因に関係するものだと勘付いていたのかもしれない。


 寝ているうちに僕のLINEを覗かれたのだろうか? おそらくそうだ。僕の異変に気付いて、LINEを見たんだ。何故堂本さんとのやりとりを消さなかったのか。僕の馬鹿。


 スマホを充電器から外し画面を見る。まず時間が目に飛び込んでくる。いつもの起床時間より大分遅い。心中の事が気になって寝付くのも遅かったからだ。僕は急いで制服に着替え、朝食も摂らずに家を飛び出した。


 学校に到着して、自分の教室には寄らず、真っ先に旧校舎の音楽室へ駆けた。駆けている間、もうそこには上田さんは居ないような気がしていた。


「上田さん!」

 音楽室の扉を開けながら叫ぶ。

「沢ちん……?」

 弱々しい声がどこからか聞こえる。姿はまだ見えないが上田さんは居る。その事にまず安堵した。もしかしたら何処か別の所に行ってしまったのかと、それか、何かの弾みで成仏したのかとも思っていた。


「上田さん……LINE見たの?」

「うん……ごめんね……勝手に見て」

「いや、いいよ……上田さん何処にいるの? 奥?」


 僕は音楽室の奥に向かって歩き出した。初めて上田さんと出会ったときのようにピアノの向こう側に人影が見えた。上田さんがしゃがんでピアノの足にもたれているようだ。


「来ないで!」

 上田さんの強い語調に僕は足を止めた。

「上田さん……どうして?」

「どうしても……」

 突然の拒絶にどうしていいか分からずに立ちすくむ。

「……上田さん、全部思い出したの?」

 そう言葉を発した後、これは今一番聞いてはいけない事だと思った。

「……」

 案の定、上田さんからは何も返ってこない。僕は馬鹿だ。思い出したに決まっているじゃないか。死因を思い出して、ショックを受けて取り憑くのをやめて、一人になりたくて今此処にいるんだ。


「上田さ……」

 何でもいいから上田さんと話をしようと口を開いたときだった。僕は上田さんの異変に気付いた。

 此処からはピアノが邪魔であまりよく見えないが、上田さんの姿がいつもと違うように見える。制服のスカートは紺色のはずだった。だけど今日のスカートは、黒、に見える。形もなんだか複雑な形をしている。所々穴が空いている。影絵の切り抜きの様だ。

 一瞬スカートには切り抜きで蝶のような模様が施されているのかと思った。そして僕はすぐにそれが大きな間違いだと気付いた。


 焼け焦げているのだ。制服が。スカートが。そしてそのスカートから覗く足も黒く焦げている。


 不意にプラスチックを溶かしたような匂いに鼻腔をつかれる。これが幻臭なのか、実際に匂っているのか判断はつかないけど、僕の嗅覚は何かが焦げているのをはっきり捉えている。

 ピアノの周りには血溜まりができ、其処から細い赤の川が僕の足下まで流れてくる。


「沢ちん、絶対に近付いちゃ駄目……見られたくないの」

「何でこんな……上田さん……」

「お父さん」

「え?」

「……お父さん。辛かったんだと思う。私の顔がこんなになっちゃったから」


 細い声で上田さんは話した。僕はすぐにはそれが何の話なのかわからなかったが、少し間を置いて、いつかの夢の中で目を木刀に貫かれた事と結びついた。


「私、お父さんと一緒に死んだの」

 僕は何も言えなかった。冷たく長い沈黙が流れた後に、上田さんは続ける。

「ねえ、演劇のせいなの?」

「……演劇のせい?」

 僕が出した声も頼りない、かすれた音だった。

「私が演劇をやってなければこんな事にはならなかったよね。お父さんは死のうなんて言わなかったよね。私に演劇の才能がなかったら、私やお父さんはまだ生きていたんじゃないかな……」

 僕はまた何も言えなかった。目が痛くなる程鮮やかな赤い円が僕の周りに出来ていた。

「もう今更どうにもならない事だけどさ……」

「上田さん……」


 何か言わなきゃと思った。上田さんの為になるような、上田さんを勇気づけられるような、上田さんの傷を癒すような、暖かい言葉を言わなきゃと思った。でも、そんな言葉は僕の中にはなかった。代わりに出た言葉は「ごめん」という何の役にも立たない言葉だった。


「……なんで沢ちんが謝るの?」

「何も……上田さんの力になれないから」

「沢ちんは悪くないよ。むしろ私の為に色々してくれてありがとうね。あと私の方こそごめんね。もう舞台には立てないや……」

「うん」

「せっかく沢ちんが計画してくれたのにね」

「そんなの、全然いいって……」

「本番直前なのに沢ちんには物凄く迷惑をかけちゃうね。本当にごめん」

「迷惑なんかじゃないよ……」

 僕の声が音楽室のブツブツ穴のあいた壁に吸い込まれるのが分かる。僕の声は、ただただ消えていくだけで何の役にも立たない。


「沢ちん、今までありがとう。多分、もうお別れ」

 上田さんの言葉が僕の心臓を殴った。突然切り出された言葉に反応して、血液が逆流する。

「え? ど、どういう事?」

「私、なんだかとてもだるくなってきてるの。エネルギーが段々なくなっていってる感じ。このままじっとしていたら、多分そのうち消えちゃうんだと思う。スッキリした終わり方じゃないけど、きっとこれで終わりなんじゃないかな……」

「こ、これが成仏なの? 未練はもうないの?」

 僕は音楽室いっぱいに広がる血の海を見て言った。

「未練か……何か未練があったとして、この世界で何かを成しても、結局なんにもならないよね。もう、どうでもよくなっちゃったのかも」

「それは……」そうかもしれないけど、と続ける言葉は飲み込む。

「私、もう演劇したくないし、朋子の事は誤解だったし、家族も死んでるし、会いたいような人もいない。思い残す様な事、もうない。沢ちん、これまで私に付き合ってくれてありがとうね」

「そんな、嫌だよ……こんな終わり方」

「どんな終わり方でも一緒じゃない。結局私はもう死んでいて、いずれ消えるんだから……」


 上田さんは12年前に死んでいるという覆せない絶望的な事実がある限り、どんな言葉や行動も気休めにすらならない。


「でも……」

 逆接を吐いたはいいけど、その後に続く希望の言葉は湧いて来ない。

「沢ちん、もう此処には来ないで」


 僕は俯いた。足下には上田さんの血。こうやってどんどん上田さんの中からエネルギーが流れて行くのだ、きっと。

 僕の目からポタポタと赤の海に小雨が降る。抑えきれない感情の波がこの海から押し寄せた。


 もう二度と上田さんに会えない。受け入れ難い事実。


 この土壇場で初めて自分の気持ちに気が付いた。好きだったのだ、上田さんの事が。高橋先輩じゃなくて、今ここにいる上田さんが好きだ。上田さんを失いたくない。もう死んでいるとしても、幽霊だとしても失いたくない。ずっとずっと一緒にいたい。特別な幸せなんかいらない。何でもない日常を上田さんと過ごしたい。面白くなくてもいい、何でもない会話をしたい。これからも上田さんと映画の感想を言いあったり、本を一緒に読んだり、音楽を聞きたい。僕の体を使えば上田さんだって食事も出来る。上田さんと色んな経験を共有したい。喜びも悲しみも全部一緒に分かち合いたい。普通の幸せな人生は歩めないだろうけど、それでも上田さんと一生一緒に居たい。上田さんのいない世界なんて耐えられない。想像するだけで孤独に押し潰される。何でもするから、どんな苦難だって受け入れるから、上田さんと一緒に居たい。もしこの世に神様がいるのなら、どうかお願いだから上田さんと一緒に居させて下さい。


「沢ちん……」

 僕はいつしか抑えきれなくなって声をあげて泣いていた。

「嫌だ……ずっと、う、上田さんと、居る」

 何度もしゃくりあげながら言葉を出す。

「沢ちん、こ、子供みたいだよ」


 上田さんの声は上擦っていたけど、子供のような僕をあやすような響きがあった。


 優しさをちぎった響きを載せたその船は、赤の海を渡って来る。

 

 僕は、大きな声を出して泣いた。

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