22
新学期が始まっても今年の夏の暑さは衰える事を知らない。いつか、TVで人の良さそうな気象予報士が『10月まで暑さは続くでしょう』と言っていたのを思い出す。授業をしている先生が「日本は亜熱帯に変わったんじゃないか。昔はこんなじゃなかった」と言う。僕はその言葉を聞いて、数年とか数十年という短期間で地球の気候が変わるなんて事があるのかと思った。
地球というものは目まぐるしく気候を変えるものなのか、それとも人間が地球に与える影響というものがそれほど大きいものなのか、と普通の高校生にとってはどうでもいい事ばかり考える午後の時間。教室内は、みんなの下敷きに扇がれた『尾崎豊』と『自己同一性』という単語が意味を持たずにふわふわと宙を舞っている。
「ねえ、あの先生なんで倫理の時間に尾崎豊の授業をやっているの?」
上田さんが不思議がる。僕はその質問を受けてノートに『謎』とだけ書いて上田さんに見せた。授業中なので口頭で会話出来ないからだ。
「尾崎豊って倫理的なイメージないんだけど」
僕とは対照的に、普通のトーンで声を発する上田さん。
服部先生が倫理の時間に尾崎豊の授業をする事は、演劇部の先輩達から聞かされて知っていた。僕は尾崎豊というのが何者なのか良く知らなかった。名前は聞いた事があったけど、歌手というのは先輩に教えられた。
倫理の授業で出てくるテーマに『自己同一性』という項目がある。服部先生はその「自己同一性」の説明にかこつけて尾崎豊の布教活動をする。「尾崎はさあ」というのが口癖で、演劇部の先輩達も良く真似していた。なかでも祁答院先輩がとても上手い。
「尾崎の歌は社会に対する反抗と捉えられがちだ。でも違うんだよ。尾崎はさあ、青年期の自己同一性を獲得する苦悩を歌っているんだ」
「あーアイデンティティの授業なのね。だから尾崎なのか」
上田さんは自己同一性の事をアイデンティティと変換した。自己同一性とは簡単に言うと『自分とは何か』『どうやって生きていくのか』と言った悩みの事らしい。
ふわふわと浮いていた『自己同一性』という単語が僕の頭の上に落ちる。『どうやって生きていくのか』という意味がひっかかった。
高校に入学してからあっという間に一学期が過ぎ、夏休みが終わった。親や先生は高校時代なんて一瞬だと何度も言う。確かに、現にこうして二学期が始まって、演劇部の大会は一週間後に迫っている。二年生になったら理系と文系のクラスに分かれる為、将来どんな仕事に就きたいか、一年生のうちにざっくりと決めなければならない。医者になりたいなら理系を選ばなければならないし、弁護士なら文系を選ばなければならない。二学期の始めに貰った進路希望の紙は、白紙のまま鞄の中にある。その紙を手にしたとき『なんて大人はせっかちなんだろう。まだ僕ら、一年生だぜ』と思った。
友光はコンピューターのプログラミングに興味があるから、理系を選ぶと言っていた。僕はまだ決まっていない。役者になりたい、なんて思った事もある。だけど役者で生計を立てていくのが難しい事は僕でも知ってる。小劇場の役者なんかはみんなアルバイトをしていると聞く。僕なんかにはとてもじゃないけど無理だ。
自分は顔も普通だし、踊りも歌も芝居も才能があるとは思えない。僕がもし少年漫画の主人公なら、並々ならぬ情熱と常軌を逸した努力で成功するのだろうけど、進路に迷っているようでは情熱が不足している気がしてならない。本気で役者をやりたい人はそんな損得なんか抜きで一直線に役者を目指すだろう。
演劇部の他の部員はどうだろう? みんなもう進路は決まっているのだろうか? プロになりたいと思っている人はいるのだろうか? もちろん一番気になるのは高橋先輩だ。高橋先輩はどういう進路に進むのか? 女優になろうと考えているのだろうか?
高橋先輩の進路の事を考えると胸が締め付けられる。きっと僕の手の届かない遠くに行ってしまう。ただの部活の後輩でしかない僕と高橋先輩の関係に歯痒さを感じる。芝居の事で少し話せるようになったとはいえ、普通の会話や雑談は皆無だ。趣味とか、家族の事とか、それこそ進路の事とか、聞きたいことは山ほどあるのに、怖気付いて何も聞けない。自意識過剰なのは分かってる。でも、恋愛に関しては自意識過剰になるな、なんて無理な相談だ。
とにかく、高橋先輩とは連絡を取り合うような関係ではない。希薄な関係だ。卒業したらそれっきりだ。
「じゃあ、次の授業は尾崎の『卒業』の考察をするから、歌詞を読んでおいてくれ」
服部先生が発した『卒業』という言葉と、今考えていた『卒業』という言葉が同調した。ふと授業に気持ちを戻すと、チャイムが鳴っている。どうやら授業が終わったみたいだ。
「なかなか面白い授業だったわ。沢ちん、今日帰りに尾崎のCD借りてかない? 興味持ったから聞いてみたい」
「ん? 上田さん、尾崎豊の世代じゃないんだ?」
「私、そんな前の世代じゃないわよ!」
上田さんは続けて「ムキー!」と言って拳を振り上げる。
「ごめんごめん。尾崎っていつ流行ってたのかよく知らなくて」
「呆れたわ。授業全然聞いてないじゃない。ていうか、聞いてなくてもそれ位なんとなく分かるでしょ。沢ちんの時代感覚はガバガバね」
「えー、みんな分かるのかな?」
「沢田君」
突然、上田さんとは違う声が耳に入る。僕は条件反射の様に「え?」と言った。
「沢田君……独り言?」
上田さんとの会話に割り込んで来たのは同じクラスでもある堂本さんだった。手を伸ばせば届く距離、もちろん僕の声もはっきり聞こえる近さに居た。最近上田さんと一緒に居る事に慣れてしまい、あまり周りを気にしなくなっていた。油断だった。顔が熱くなる。僕は顔から火が出る、という形容の成り立ちを心から理解した。堂本さんから見たら僕は独り言の激しい痛い奴だ。
「あ、え……」
この突然の事態に僕は言葉を詰まらせた。
「沢ちん、セリフ。セリフの練習してたって言いなさい」
上田さんがアドバイスをくれる。ありがたい。
「あっ……と、セリフの」
「ねえ沢田君」
堂本さんが僕の言葉を遮る。そして続けた。
「あの……変な事聞くけど、ひょっとして上田さんと話してるんじゃない?」
堂本さんの口から『上田さん』という単語が飛び出した事に僕は驚いた。何で堂本さんが上田さんの事を知っているのだろうか? 上田さんの姿が見えているのだろうか? 友光から聞いたのだろうか? 上田さんの事を打ち明けてもいいのだろうか? 様々な疑問が頭に電流の様に駆け巡る。堂本さんの問いかけに何と答えるのがいいのかわからない。シラを切ろうにも切れない。僕は固まった。
「沢田君……し、信じられないけど、やっぱり誰か……いや、上田さんがそこに居るの?」
そう質問をするという事は堂本さんは上田さんの姿が見えないのだろう。でも何故、上田さんの事を知っているのだろうか?
僕は何て答えればいいか分からなかった。「何で上田さんの事を知っているの?」と聞くのは堂本さんに上田さんの存在を明かす事になる。僕は上田さんを見た。上田さんも何て答えればいいのか分からないみたいで、目を大きく開いて小刻みに首を振る仕草が返ってきた。
「い、色々聞きたいのだけど、そろそろ部活だから……部活終わったら……一緒に帰らない?」
少し吃音で、伏し目がちに、申し訳なさそうに聞いてくるその姿を見て、僕は不安になった
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます