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「演技とは演技しないことなの」

 上田さんは哲学的な事を言った。

「演技しないこと……? どういう事? 矛盾じゃない?」


 僕と友光は今、僕の部屋でオーディションに向けて上田さんに演技を教えてもらっている。

「抽象的な事を言うつもりじゃないの。本当に演技っていうのは演技しないことなのよ。上手く演ろうとしない事。表現しない事なの」

「ひょ、表現しない事? 演技って表現じゃないの?」ますます哲学的だ。


 友光は眉間に皺を寄せている。


「そうね、例えば物語の中で自分の役が悲しい感情になるとしましょうか。悲しい感情っていうのは、普通に生きていて周りに表現したい事じゃないでしょ。寧ろ隠したい感情だし、避けたい感情じゃない。だから悲しいシーンを演じるときに、『私は今悲しい感情なんだ』って観客に表現しようとしてしまうとその表現は嘘っぱちになるのよ。観客は馬鹿じゃないわ。そんな嘘を見せられても白けてしまうだけ。感情は表現するものじゃなくて自然と溢れ出るものなの。ちゃんと感情が自分の内に流れていれば表現しなくても伝わる。だから演技っていうのは演技しない事が大事」


「演技は演技しない事が大事……難しそうだね」


「実践しようとするのは難しいわね。演技しないようにって意識すると、その意識が逆に邪魔になったりもするし」

「じゃあ具体的にどうすればいいの?」


「単純よ。訓練。それも集中の訓練。そして準備」上田さんは強く言い切った。

「集中の訓練と準備」僕は思わず繰り返した。


「その訓練の初めとしてまずは五感に集中するの」

「五感に集中?」

「そうね……五感の中でも『視る』という行為が単純で集中しやすいからそれを説明に使うわね。相手役の顔とか、道具の汚れとかを単純に意識して視てみるの。『ああ良く視ると、この人奥二重なんだな』とか、『この汚れは動物に見えるな』とか。そういう感想が出てきたら正解。それは『視ている』わね」

「え? それって演技の最中にやるの? 全然演技に集中してないように思えるけど」


「演技中というより、練習とか、本番に入る直前にやるといいわ。これは集中の入口よ。本番は必ず観客やカメラの前でしょ? これはその『観客やカメラに見られている』という自意識をカットして、役として生きる為のスタートラインに立つ事なの」

「ああ、この前、自意識があるのは駄目って言ってたよね」

「そう。役の感情を自分の内に流すのに『観客に見られている』なんて自意識はいらないからね。余計な自意識をカットして視る事に慣れてきたら、匂いとか、音や触感、他の五感にも集中してみる。こうやって五感に集中出来たら、次にその五感を感情に繋げるの。五感だけ鋭敏で、感情が動かない事もあるから。五感を感情に繋げるのにも訓練が必要よ」

「どんな訓練なの?」

「五感で得た情報を一つ一つ言葉にしていくの。例えばそうね、ここにアイスコーヒーがあるわよね」上田さんが指差したのは僕が友光に出したアイスコーヒーだ。

「うん」

「これ、集中して視て」

「……」僕は単純に視る事に集中した。はっきり言って造作もない事だと思った。


「単純な色だとか形状とかを私に伝えてみて」

「……色は、何て言ったらいいんだろ薄い黒? 氷が三つ入ってる。グラスの周りに水滴がついてる。量はグラスの三分の二位」

「じゃあそれを感情に繋げていきましょ。そのコーヒーを見てどう思った?」

「え? 飲みたい……かな」

「いいね。他には? どんな事思った?」

「他? うーん。ミルク入れたらもっと美味しくなりそうだなって思った」


「そう。そんな感じで意識的に五感を自分の感情に繋げていく訓練なの。人間は普段の生活では色んな情報を五感で感じとって、その度に感情が動いたり、何か考えたり、大なり小なりめまぐるしく反応をしている。だけど演技に於いて集中していない状態では、周りの膨大な情報を無視して台詞をただしゃべるだけのロボットみたいになっちゃう。見ててそれはとてもつまらないわ。舞台上で心が動いてないんだもの。特に演技の初心者とか、演技の事を勉強していない勘違い役者が陥り易いわね。そうならないように五感が機能したとき、意識的にどんな感情が起こるか確認をする。単純で簡単だけど、奥の深い訓練よ」


「ちょっと疑問なんだが、これって訓練が必要なのか? なんか拍子抜けする程簡単だ」友光が問う。


「そりゃそうよ。日常当たり前にやってる事を意識するだけなんだから。でもね、それが舞台上では凄く難しくなるのよ。だから簡単な訓練でも繰り返す事に意味があるわ。五感を機能させて感情を確認する反復練習は絶対に役立つ。相手の台詞をちゃんと聞けて、感情に依ってリアクションが産まれて台詞が言える様になる。それは決して嘘っぱちの演技じゃないわ。つまり本当の演技なの」

「……」友光は無言で頷いた。

「ここまでは演技に集中する方法。次に準備が必要よ。集中だけ上手くてもそれは自然体で舞台に立つのが上手いだけだから、役の感情を自分の内に流す為に準備する必要があるわ。エチュードなら集中だけで乗り切れるかもしれないけど、実際に戯曲がある場合は勝手が違ってくるの」

「準備って具体的にどんな事を準備するの?」


「まず、準備の事を説明する前にちょっと脇道に逸れるわ。さっきのアイスコーヒー、沢ちんは飲みたいって感情が生まれたわよね?」

「うん」


「コーヒーが嫌いな人ならそういう感情は生まれないわよね。あと沢ちん自身、喉が渇いていなかったら飲みたいって感情は産まれなかったんじゃないかしら」

「そうだね」

「性格や置かれた環境やその人の経験によって、五感で得た情報から生まれる感情が変わるの。感情が変わるという事は行動も変わってくるわね。つまり『準備』とは自分が演じるキャラクターの人生、欲求、性格、物語の中での目的、感情、行動を考える事よ」

「うーん、準備もなんか難しそうだね」


「難しいというか大変かも。役者は演じる役に対していくらでも『準備』が出来るから。でもこうやって役に具体性を持たせていけば段々とその役に血が通うようになるわ。考えれば考えた分だけ役に深みが出るの。役作りとも言われているかしら」


「役作りか。役作りってなんか想像してたものと違ったな」友光が言う。

「あら? どういうものだと思ってたの?」

「例えば有名な俳優が役作りの為に何キロ減量したとか、髪を切ったとか良く聞くじゃないか。そういうものかと……」

「自分の外見を変えたりするのは役のアプローチの方法としてとてもいいわ。でも大事なのは、例えば減量するなら何故痩せているのか、痩せているその人の生活はどんなものになるのかに想像を働かせる事よ。どれぐらい食べるのか? 好きな食べ物は何か? 食費はどれ位か? 外見だけじゃなくて内面も考える事。何でそんな外見なのか、意図的なのか先天的なものなのか。その外見によってその役の人生はどんなもので、どんな性格になって、どんな欲求を持ってどんな行動をするのか。それを考えるのが役作り。ただ減量するだけじゃ駄目。ただ奇抜な髪型にしたりするだけじゃ駄目。駄目な役作りの代表的な例の一つとして、癖のあるしゃべり方とか変な動きだけをひたすら考えたりする事が挙げられるわね。そんな目に見えたり聞こえたりする部分だけを取り繕ったって観客の心には響かないわ。根拠のないメッキはすぐ剥がれ落ちるわね」

「内面が大事なんだな」と、友光。


「その通り。あと、台詞を一つ一つ分析するのも忘れずにね。その台詞を言う動機は何か、誰に向かって言っているのか、その台詞を言う事によってどうしたいのかを一つ一つ明確にしておくの。台詞の説得力が変わってくるわ。これも準備の一部」


 僕は何も言えずに黙っていた。与えられた情報量が多すぎて処理しきれなかったからだ。


「沢ちん、大丈夫? ついてこれてる?」

「いや、まだ全部は理解出来てないけど。なんとなくは」

「いきなり詰め込み過ぎちゃったかもね。これから練習で吸収していけばいいわ。今説明したのが演技に於ける準備の部分ね。取り敢えずこの準備と集中に重点を於いてオーディションに備えましょ。これだけでも見違える程上手くなるはずだから」


 それからオーディションまでの短い期間、僕はみっちり上田さんに特訓を受けた。上田さんの指導はスパルタだったけど、具体的だった。どこを修正すれば僕の演技が良くなるのかが的確で分かりやすかった。今までの僕は演技についてぼんやりした感覚しか持ち合わせていなかったという事を思い知らされた。僕は演技について何も知らなかったんだ。


 そして僕は『ロミジュリ!』の戯曲を読み直している最中にふと思った。上田さんの夢は何だったのだろう? やっぱり女優になる事だったのだろうか。これだけの実力と容姿を兼ね備えているんだ、きっと大女優になれただろう。


「上田さん」僕は思わず上田さんに呼び掛けた。「なに?」と返す上田さん。そこで僕は自分がとても残酷な事を聞こうとしている事に気が付く。幽霊に向かって夢を聞くなんて。「どうしたの?」と上田さんが覗き込む。「あ、いや、やっぱり大丈夫」と適当に誤魔化す。「分からない事があったら遠慮なく聞いてね」と返してくれる。


 上田さんの夢が女優になる事だとしたらもう絶対に叶わない。でも……果たして上田さんの夢は女優になる事だったのだろうか?

 あんなに酷い事が起こってまだ演じる事が好きでいるのだろうか。それともこの前僕が夢で見た上田さんの記憶は、上田さん自身まだ思い出していないのだろうか。そもそもこの前僕が見た夢の内容は、上田さんの生前の出来事で間違いないのだろうか? 間違いないのだとしたらその内容はすでに上田さんも既に思い出しているのだろうか? 


「……上田さん、演技の事、好き?」


「好きに決まってるじゃない」

 その言葉には一点の曇りもなかった。

「そうだよね、ごめん変な事聞いて」

「本当に変な事聞くわね。余計な事考えずにロミオ役の人生や欲求を考えなさい!」

「ごめん」


 ここまで熱心に演技を語ってくれる上田さんには聞くまでもない事だった。死因を思い出していようといまいと上田さんの演技が好きという気持ちは確かだ。

 上田さんの指導は無駄にしたくない。絶対に役を勝ち取りたい。

 そして僕は上田さんを成仏させる為にある計画を立てた。

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