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「ごめん、劇団は解散する事になった」男の人は言った。


「……もう続けられないの?」僕が言う。僕の声は女の子の声だった。僕って女の子だったっけ。


「あんな事があって、もうファンの人も付いて来てくれないし、うちを受け入れてくれる小屋もないんだ」


 この男の人はお父さんだという事を思い出す。お父さんなんだけど初めて見る。なんだか僕の記憶はぼんやりしている。


「歩美は別の劇団に行ってもらう。もう、話はついてるから。歩美程の才能をこんな所で埋れさせる訳にはいかないんだ。分かってくれ」


 そうだ、歩美。それが僕の名前。


「うん、分かった。私、頑張るよ」家族が、劇団が大変な今だから、僕が頑張らなければならないんだ。

「ごめんな、今まで通りにはいかないと思うけど……我慢してくれ」

「お父さんはどうするの?」

「暫く働くよ。歩美には苦労をかけてしまうけど、いつかまた一緒に芝居やろうな」そう言うと僕のお父さんと思しき人は僕の頭をポンポンと叩いた。


 僕が何者なのか思い出してきた。僕は『紅硃鈴』という劇団を運営する大衆演劇一家に生まれた。一家と言っても今は家族は父親しかいない。母は僕が幼い頃にガンで亡くなっている。

『くれないしゅれい』と読む。物心ついた時から僕は舞台に立っていた。


 大衆演劇の劇団は365日ほぼ毎日活動する。一ヶ月毎に小屋を変え、定住せずに全国を飛び回る。

 紅硃鈴も例外ではない。だから僕は小さい頃から一ヶ月毎に転校を繰り返していた。転校は形だけでほとんど学校になんか行かない。ほぼ毎日が本番で、しかも演目は日替わり。次の日の公演の稽古は本番後にやる。台詞や手順を覚え、舞踊ショーの振り付けを体に叩き込む。終わるのは大体深夜だ。過酷なスケジュールで学校に行く暇なんてない。子供でも例外はない。大衆演劇の世界に世間一般の常識は通用しない。たまに学校に行ったとしても、誰だっけこいつという反応をされるだけだった。


 紅硃鈴はあまり人気があるとは言えず、自転車操業の貧乏劇団だった。それでも一時期は僕目当てにお客さんがそれなりに集まった事もある。僕は小さな頃から天才子役と言われ、大衆演劇界隈ではちょっとした有名人だった。お父さんも喜んだ。大衆演劇の世界で女の人が人気になるのは珍しいらしく、「歩美はいつかスターになる。大衆演劇の世界だけでは終わらないんだ」と酔っ払った時には必ず言っていた。


 だけど僕は次第に学校に憧れを持つようになり、中学三年生になった頃「学校にもっとたくさん通いたい」とわがままを言った。お父さんは反対したけど、僕が泣いて喚いて説得した。劇団の公演には東京で催される公演にだけ参加した。


 僕があまり公演に参加しなくなったせいで、それまで順調だった劇団の経営は再び翳りを見せ始める。そして僕が高校一年生のとき、事件は起こった。


 瀬長という若い劇団員の男が窃盗で捕まったのだ。しかも盗みを働いた相手は劇団のお客さんだった。昔から贔屓にしてくれていた資産家の女性で、名前は木槌さんという。


 大衆演劇の役者がお客さんと仲良くなる事は珍しくない。公演後に一緒に食事をしたりする事もある。『アフター』と揶揄される行為だ。


 二人は親子程も年が離れていたけど、木槌さんは旦那さんを早くに亡くしていて、度々会っては食事をし、一夜を共にする仲だった。枕営業というやつだ。


 実は瀬長が木槌さんの家からお金を盗んでいたのは捕まったときが初めてではなかった。木槌さんもそれに気付いていたが、見逃していたという。


 しかし回を重ねるうちに無くなる金額が大きくなっていった。見兼ねた木槌さんは瀬長を注意した。だけど瀬長は反省するそぶりすら見せず「枕してあげてるんだからいいじゃないですか」と言い放った。木槌さんはその言葉をきっかけに通報する事を決めたらしい。


 大衆演劇の役者が窃盗、それもお客さんの家からというショッキングな事件はニュースになった。大衆演劇の世界は狭い。噂は瞬く間に広がり、お客さんは離れていった。紅硃鈴はやがて借金を抱えるようになり、僕のお父さんは劇団の解散を決めた。


 僕は新しい大衆演劇の劇団で活動する事になった。少しでもお父さんの為になればと思って僕もそれを受け入れた。また学校にもなかなか通えなくなった。


 この新しい劇団は腐っていた。


 それは僕が新しい劇団に入団して初めての公演の時だ。

 入団してから僕は雑用ばかりで全く稽古をさせてもらえなかった。下っ端だから仕方のない事なのだけど、あろうことか劇団の連中は稽古をしていない僕をいきなり舞台に立たせたのだ! 僕に恥をかかせる為だ。

 連中は「天才なんだから出来るでしょ」とニヤニヤしながら言う。

 その時の演目は元々自分の劇団でも扱っていた代表的なものだったから大筋は分かっていた。だけど劇団によって細かく関係性、手順、台詞も違う。当然ミスをする。

 お客さんからヤジが飛ぶ。公演後の駄目出しで僕は徹底的にいびられる。


 劇団の連中に対して怒りが湧いた。こんな事をしたらお金を払って観に来てくれているお客さんに申し訳ないじゃないか。それで劇団自体の評価が下がったりしたらどうするつもりなんだ。僕を虐める事にどれだけの価値があるのか! 何の意味もない! 誰も得をしない! ここの劇団の連中は性格が捻じ曲がっている!


 だけど自分に対しても腹が立つ。ロクに稽古をしていないとは言え、舞台上でヤジが飛び出るほどブレてしまったのは自分の責任でもある。どんな状況でもお客さんを失望させてしまっては駄目だ。連中が僕に稽古をさせないというのならそれでもいい。僕はお客さんを楽しませる為だけに芝居をしようと決めた。


 大衆演劇の演目は日替わりだ。次の日の公演は今日の公演とは違う演目を演る。ありえない事だけど稽古はさせてもらえていない。

 だけど大筋は分かっている。これが僕の武器だ。突拍子もない事さえしなきゃいい。


 僕は自分の役の設定だけ背負って舞台上で自由に芝居をした。アドリブ満載だ。小道具も衣装も相手役も、舞台も照明もお客さんも使える物は何だって使った。お客さんを沸かせまくった。舞台に立ちさえすればそんじょそこらの奴には負けないんだ。僕は舞台上で連中をコテンパンにしてやった。


 連中はそれに参ったのか、その日の公演が終わった後はちゃんと次の日にやる演目の稽古をさせてもらえた。


 大衆演劇の芝居には台本がない。『口立て』という方法で台詞を覚えるのが慣例となっている。

 口立てというのは、座長や先輩の役者から口頭で台詞を教えて貰うというものだ。若い座員達はメモを取るなり、録音するなりして覚える。僕は一回聴けば覚える自信があったのでメモなどは取らずに聴いていた。そして聴いていて少し不自然だなと思う箇所があった。だけどそれはこの劇団の特色なのかと思って流していた。


 次の日、本番が始まる。連中は口立てされた台詞とはまるで違う台詞を口にしている。僕は混乱した。僕だけが口立てされた台詞を言えばどうしたって芝居がおかしな方向に流れて行く。口立ては罠だったのだ。


 僕はこんな舞台に立っている自分が情けなくて舞台上で涙を流した。


 公演後、当然連中はここぞとばかりにいびってくる。「役者が舞台上で個人的な事で涙するなんてありえない」「ちゃんとメモを取るなり、録音するなりしないからこうなるんだ」「泥棒劇団の看板役者はやることが違うね」連中の顔は舞台上より生き生きしていた。来る日も来る日もあの手この手でいびってくる連中に僕は次第に疲れていった。


 劇団のひさびさの休みに僕はハチジョーに登校した。新しい劇団に入ってからほとんど通えなかったハチジョーだ。久しぶりのハチジョーに心が踊った。授業の内容は進んでいて全然分からなかったけど面白かった。正しい内容というだけで僕にはありがたかった。出鱈目な口立てとはまるで違う、人の暖かさを感じた。そして学校には親友の友光もいるし、大好きな高橋先輩もいる。僕は二人の顔を見る事を切望していた。辛い時は二人の事を思い出していた。二人は僕の心の支えだった。


 放課後、僕は演劇部の練習場所に顔を出した。演劇部のみんなは丁度秋の大会に向けての練習をしている。当初演る予定の『レ・ミゼラブル』の練習ではなかった。

「歩美さんが居なかったらとてもレミゼの改作なんて手を出せないわ。歩美さん程の歌唱力があってこその『夢やぶれて』だもの」部員の一人が説明してくれた。


 変更になった作品はあまり面白いとは思わなかったけど、部員のみんなはとても楽しそうだった。それが羨ましかった。僕が今立っている舞台にはないものだった。


 その日の演劇部の練習後の帰り、僕は校門を出た所で友光と高橋先輩がキスをしているのを目撃してしまった。


 嫌な予感はあった。練習中に友光に一緒に帰ろうと声を掛けたけど、友光はなんだかあせった様子で「ごめん先約があるんだ」と言っていた。胸に冷たい空気が流れ込む様な感覚だった。


 先約とは高橋先輩との事で、何時の間にか友光と高橋先輩は付き合っていたのだ。友光は僕が高橋先輩の事を好きなのを知っていたのに。裏切られたんだ。帰宅する道とは反対方向に走って逃げ出した。友光は何か叫んでいた様だけど僕は聞かずに走った。


 気が付けばまた劇団の稽古場に居る。殺陣の稽古の最中だ。この日は剣を使った殺陣の稽古をしていた。相変わらず陰湿な虐めは続いている。殺陣においてアドリブなんてあり得ないのだけど、連中は好き勝手に僕に打ち込んでくる。柔らかいゴム製の剣だったけど、勢いがつくと痛い。


 この日は僕も集中力を欠いていた。連中は何時の間にかゴム製の剣を木刀に変えている。調子に乗っているのだろう。僕の危険もかまわずに打ち込んでくる。顔面に木刀が迫るのがスローモーションで見える。僕は他人事みたいにその迫り来る木刀をぼんやり見ていた。右目に深く突き刺さるまでぼんやりと……


「うわあ!」

 自分の声に驚いて目が開く。


「沢ちん、またうなされてたよ」

 上田さんが僕の顔を覗き込んでいる。そのまま「悪夢でも見たの?」と柔らかな声を僕にかける。


 僕は上田さんの顔を見つめた。

「どうしたの……? そんなマジマジと見つめちゃって」

 上田さんの顔は綺麗なままだ。目に怪我はない。

「ううん……何でもない」上田さんの顔に木刀が突き刺さる夢だったんだよ、なんて言えない。


「汗ぐっしょりだよ、ちょっと拭いた方がいいよ」

 そう言われて額を触ってみると髪が汗で張り付いている。両手で髪の毛を掻き上げて大きく息を吐いた。手が汗で濡れる。

「うん、ちょっと顔を洗ってくる」


 さっきの夢は上田さんの記憶だったんだろう。自分の劇団が解散し、新しい劇団で虐められ、久しぶりに通った学校では親友と好きな人とのキスシーンを目撃、挙句の果てに事故……。


「大丈夫かいな?」洗面台の前で固まっている僕の顔を心配そうに見つめる上田さん。

 そっちの方が『大丈夫かいな』じゃないか。辛い過去がいっぱいあったんじゃないか。思わず僕は上田さんを抱きしめようとした。だけど僕の腕は上田さんの体をするりと通り抜けて空を切った。


「ど、どうしたの? 急には実体化出来ないよ。よしよし」


 上田さんはそう言うと手を実体化して僕の頭を撫でる。頭に上田さんの手の微かな感触がある。だけどそれも一瞬だ。涙が込み上げてくる。泣いてしまいそうになっているのを悟られたくなくて、蛇口を大きく捻って水を勢い良く出した。大袈裟に顔を洗った。


 再び布団に入ってからは全く寝付けなかった。上田さんの為に僕が出来る事をずっと考えていた。


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