15

 首なら首だけ、腰なら腰だけ、腕なら腕だけ。ダンスやパントマイムにおいて身体の一部分だけを単独で動かす技術の事を『アイソレーション』という。分離、独立などという意味だ。


 今はハチジョー演劇部のみんなでこのアイソレーションの訓練をしている。体育館の舞台上に鏡を並べ、堂本さんが手本を見せている。普段は無口で大人しい彼女だけど、今はとても凛々しい。彼女のアイソレーションのレベルは他の部員とはまるで違う。身体の部位一つ一つがそれ単体で意思を持って動いているように見える。まさに体の部位が『独立』して動いている。


 普段ハチジョー演劇部ではアイソレーションの訓練はしないが、この後に控えるパントマイムのワークショップの為に体を慣らしているのだ。


 パントマイムの講師は堂本さんの師匠で、わざわざハチジョー演劇部の為に来てくれる。このワークショップが開かれる事になった発端は小山田先輩の発案だ。エチュードの時の堂本さんの動きに興味を持った小山田先輩が、はじめは堂本さんに講師をお願いした。堂本さんは謙遜して「自分なんかが教えるなんて滅相もない」という事で自分の師匠を呼んだのだ。師匠と言っても堂本さんの伯父さんで、普段は大道芸人でもなく、会社員をしているらしい。


 初めてのアイソレーションに僕は苦戦した。首のアイソレーションならどうしても肩が一緒に動いてしまう。肩も同じで、肘や首が一緒に動く。上手く出来るイメージが全く湧かない。体がむずがゆくて酷く不自由さを感じる。 


「これで一通り基本的なアイソレーションが終わりました。もう少しで私の師匠でもある伯父さんが来ますのでそれまで休憩にしてください」堂本さんが言う。


「沢ちん、不器用ねー」

 僕が鏡の前で練習していると上田さんが冷やかしてくる。

「うるさいなー。初めてなんだからしょうがないじゃないか」胸も腰も駄目だ。


「ほれほれ、これがアイソレーションのお手本よ」

 そう言うと上田さんはアイソレーションを利用したパントマイムを披露した。空中に見えない壁や棒をいとも簡単に出現させる。

「上手い……上田さん何でも出来るんだね。何でなんだろう? とても同じ高校生のレベルじゃないよ。清水みたいに子役だったのかな?」

「子役ねぇ……」


「確かに。キャリアがないとそのレベルには達しないな」

 肩を上下に動かしながら友光が言う。

「……」上田さんは無言でアイソレーションを繰り返す。何か思い出せないかと探っている様だ。シンプルな動きだけど洗練されている。思わず見惚れてしまう。


「さ、沢田くん、何か分からない事ある……?」

 話し掛けてきたのは堂本さんだ。

「分からないというか全然出来ないよ」

「く、首のアイソレの練習は、両腕を頭の上に伸ばして両手を合わせて、ほっぺを腕にくっつける様に動かすとやりやすいの」

 言われた通りにやって見る。なんだかアラビアンなポーズになる。でも確かにやりやすい。

「本当だ」

「それに慣れてきたら首だけでやってみるの」

「なるほど」

「何か分からない事があったら言ってね」

 他の部員から「堂本さーん」と声が掛かり、堂本さんはそちらの方へ行ってしまった。


「沢田よ、少し女子と話す事に慣れてきたみたいだな」友光が言う。

「え、あ、言われてみればそうだね」

「上田さんのお陰かな」

「そうかもね。でもまだ高橋先輩と話す時は緊張するけどね」と言いつつ、高橋先輩の方を見る。高橋先輩は胸のアイソレーションを練習していた。胸を前に出す動作でその膨らみが露わになる。僕は慌てて目を背けた。


「おはようございまーす!」

 大きな声が体育館の入口から聞こえる。僕ら演劇部とコートで練習しているバトミントン部の面々が入口の方を見る。そこには一人の中年の男性が立っていた。

 堂本さんはその声を聞くと僕の脇をすり抜けその人に駆け寄った。少し恥ずかしそうで困った様な表情だった。おそらくあの人が堂本さんの伯父さんなのだろう。


「やーやーハチジョー生諸君、どうもどうもお待たせしました。葵の伯父の吉田隆太です。どんな呼び方でも好きに呼んで下さい。隆太さんでも、吉田さんでも」

 吉田さんは低くて良く響く声をしている。聞いているだけで安心感のある暖かい声だと思った。取り分け変わった事を言ってる訳でもないけど、雰囲気が面白く、部員達からは自然と笑いがこぼれた。

「いつも葵がお世話になってます」

 吉田さんは額の汗をタオル地のハンカチで吹きながら頭を下げた。背はあまり高くなく、親しみやすい笑顔とギョロ目。威圧感があると言うよりは頼りがいのあると言ったほうが適している骨太な体。吉田さんから厳しい雰囲気は感じられなかったのでホッとした。楽しいワークショップになりそうだと思った。


「ヨ、ヨシリューさん……」そう呟いたのは上田さんだった。

「え、知ってるの?」


 上田さんはこちらの問い掛けに応えず固まっていた。顔色がみるみる蒼くなっていくのが分かる。幽霊も血の気が引くんだなんて呑気な感想が浮かんだけど、きっと深刻な事を思い出したのだろう。友光もその様子に気付いたのか心配そうに上田さんを見た。


「私は昔、大衆演劇をやっていました」吉田さんが言う。

「大衆演劇? それって普通の演劇とは違うんですか?」一年生の蜂須賀さんが質問する。

「はい。全然違います。大衆演劇というのは元々は歌舞伎や能や狂言を大衆向けに親しみ易くしたお芝居の事です。現代の大衆演劇の基本はお芝居と舞踊ショーの二部構成。お芝居は時代劇の人情劇が多いですね。舞踊ショーは歌ったり踊ったりとにかく派手にお客さんを楽しませます。あと大衆演劇の特徴としてお客さんと役者の距離がとても近いです。舞踊ショーではお客さんが合いの手を入れたりもするし、公演後に『送り出し』って言ってお客さんとコミュニケーションを取ったりします。役者もお客さんの顔を覚えます。知らない人にとっては一種異様な世界かもしれませんね」

「全然知りませんでした。そんな世界があるんですね」と蜂須賀さん。

「はい、そこで僕は芸事の一つとしてパントマイムも覚えたんです。そんな僕ですが今日はよろしくお願いします」


「大衆演劇……」と上田さんは呟いた。

 だけどその後はずっと押し黙ったままで、結局上田さんとまともに話す事が出来たのはワークショップの後の帰り道だった。


「上田さん、どうかしたの……何か様子が変だったけど」

 帰りの支度を済ませて、駐輪場に来たところで上田さんに尋ねた。横には友光もいる。

「少しだけど記憶が戻ってきた……」

「その……吉田さんが、何か上田さんの死因に関係があるの?」


 上田さんが次の言葉を口にするまで少しの間があった。


「……私、小さい頃から家族と一緒に大衆演劇をやっていたのを思い出した……私の父親が座長の劇団だったわ。ヨシリューさんはそこの座員。私のパントマイムは、ヨシリューさんに教えてもらったものなの」

 大衆演劇……それで上田さんは舞台に関する色々な事が上手かったのか。やっぱり小さな頃からキャリアを積んでいたんだ。


「それである日、事件が起こったの」

「事件?」

「劇団員の一人が窃盗で捕まったの」

「え……」

「その事件の後、私の劇団は解散する事になって。それから……」

「それから……?」

「……ごめん。そこから先が思い出せない。でも、酷く嫌な気分なの。何か、悪い事が起こった気がする……」

「そっか……」

「何か思い出すのが怖くなってきちゃった……」

「成仏する方法も……分からないよね……?」

「うん……ごめん」

「いや……ごめん」

 それから僕たちの間に静寂が流れた。何か言葉を発しようと思っても、何を言えばいいのか分からない。


「……おい、二人とも今日これから暇か?」

 僕たちの会話を黙って聞いていた友光が口を開く。

「え?」

「富士森公園行くぞ」

 ぶっきらぼうに言う友光。


「富士森公園?」と友光の言葉を繰り返して思い出す。今日は富士森公園の花火大会の日だ。唐突な提案に少し面食らった。この重い空気を察して友光なりに気を遣ったんだろう。

 上田さんの様子から察するに、上田さんはあまり良い死に方をしていないんじゃないだろうか。死に方に良いも悪いもないかもしれないけど。


 花火を見上げる上田さんの表情は迷子になった子供の様に寂しげで、僕は抱きしめたい衝動に駆られた。何て声を掛ければいいか分からないけど、何か声を掛けてあげたかった。僕は胸が締め付けられる嫌な気持ちを奥歯を噛んで誤魔化した。


 花火が上がる。夜空に大輪の花が咲く。散る。また次の花火が上がる。散る。花火はよく人生に例えられるけど、僕はどんな花火なんだろう。あの小さく咲いた花火かな。上田さんのは? もう散ってしまった花火……なのかな。そんな風に考えたくなかった。だから別の事を考えようとするのだけど、上がって散る花火にどうしても悲しい連想が纏わり付いてしまう。友光や上田さんはどんな気持ちでこの花火を見ているのだろう。花火が咲く毎に友光の顔は光を受けて色とりどりに染まる。上田さんの顔は変わらずに一色だった。

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