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 八月も下旬に差し掛かったのにまだまだ暑い日は続いている。


 テレビでは、髪の毛の薄い人の良さそうな笑顔の気象予報士が「この日の東京の最高気温は36度になり、さらにこの暑さは十月まで続くでしょう」と言った。スタジオにいるタレントがそれを受けて「勘弁して欲しい」と嘆く。そのタレントの隣の女性が「水分、塩分補給はこまめにしましょう」というお決まりのフレーズを言う。


 僕は、夏が長いのは大人にとっては嫌な事なんだろうか、とぼんやり思いながら朝食のデザートのスイカをかじる。


 未だに成仏出来ない上田さんはそんな夏の暑さなんて何処吹く風で、水中のクラゲの様にふわふわと浮いて鼻歌を響かせている。この夏からの僕の日常。


 家からハチジョーまで自転車で移動するだけでもYシャツが汗だくになる。夏は好きだけど、こんな日は室内で練習する演劇部を選んだ自分を褒めてあげたい。日差しが強くて目を開けているのも辛い。その中でボールを追いかけるサッカー部に心の底から尊敬しつつ、校舎に入る。


 今日は秋の大会に向けての会議で学校に来ている。会議室として使用している教室は二年七組で、部長の小山田先輩の教室だ。基本的にどの教室も同じ作りのはずだけど、先輩の教室にどことなく居心地の悪さを感じる。馴れない親戚の家に上がった様だ。

 今座っている席はどんな先輩の席だろう? 怖い人じゃないといいな。女子だろうか? その人が突然やってきて僕が座っているのをみたら嫌な気持ちになるだろうか? 学校に来る途中、コンビニで買ったパックのレモンティーが汗をかいて机を濡らしている。持っていたタオルでそれを丁寧に拭く。


 僕達が秋の大会で演るのは『ロミジュリ!』というタイトルの創作劇。創作劇と言っても僕達の世代の誰かが書いたものではなく、数年前の卒業生が書いた戯曲だ。これが戯曲を決める会議で多数決で選ばれた。


 タイトルからも察する事が出来るけど、この戯曲はかの有名なシェイクスピアのロミオとジュリエットが元になっている。


 犬猿の仲である二つの高校の演劇部にそれぞれ所属するロミオとジュリ。ロミオは演劇部の大会でジュリに一目惚れをする。どうしてもジュリと仲良くなりたいロミオはあの手この手を使ってジュリの連絡先を手にする。勇気を出して連絡を取るロミオ。ジュリは最初は警戒していたが、やがて心を開き、二人は仲良くなっていった………かの様に見えた。


 ジュリにはある秘密があったのだ。実はジュリは対立する演劇部のエースであるロミオを恋愛で骨抜きにしようと企んでいた。そうとも知らずジュリにメロメロになるロミオ。そんな中、ロミオはジュリに自分の病気について打ち明ける。


「実は俺、余命一年なんだ。最後にジュリさんと同じ舞台に立ちたい」


 それを聞いたジュリはロミオを騙していた罪悪感から過食症になってしまう。見るも無惨に太ってしまったジュリ。それでもジュリの事を嫌いにならずに好いてくれるロミオにジュリは本当に恋に落ちてしまう。


 そして二人は同じ舞台に立つため、お互いの演劇部の合同発表会を企画する。が、その練習は対立ばかりで全く上手くいかず、本番直前に発表会はご破算になってしまう。だけど二人は諦めず、ゲリラ公演を企画、決行する。


 二人だけのロミオとジュリエットだ。


 だけど二人の頑張りもむなしく、ゲリラ公演は客が入らず、成功しなかった。舞台の後、ロミオはこの世を去る。


 しかし、ゲリラ公演を観た二つの演劇部の部長が心を動かされ、犬猿の仲だった演劇部が力を合わせてロミオの追悼公演をしてフィナーレを迎える。

 ベースはコメディで、最後は感動で終わる王道の作りの戯曲だ。


 三年前、中学生だった僕は、秋の高校演劇大会で当時のハチジョー生達が演じる『ロミジュリ!』を観て衝撃を受けた。観劇後、何かしたくて、居ても立っても居られない状態に成ったのを今でも鮮明に覚えている。


 僕は『ロミジュリ!』が演りたくてハチジョーに入ったと言っても過言ではない。実は脚本会議で『ロミジュリ!』を提案したのも僕だ。


「じゃあまず、ジュリのキャスティングなんだけど、演りたい人いるかしら? または推薦したい人」中西先生は指に着いたチョークの粉をはたき落としながら言った。


 ハチジョーのキャスティングは先生や先輩が独断で決定するスタイルではない。立候補や推薦、話し合いで決定する。


「真央が良いと思います」

 小山田先輩が手を挙げて発言する。真央というのは高橋先輩の事だ。

「賛成。真央にピッタリだわ」

 と、小山田先輩に同意したのは祁答院瑠璃華先輩だ。『けどういんるりか』と読む。冗談の様な名前だが本名だ。他の先輩達は祁答院先輩の事を『お嬢』と呼んでいるが、本人曰く普通の家庭で育ったとの事。その名前の珍しさから、中学や高校の入学時にはわざわざ別のクラスから祁答院先輩の顔を拝みに来る人も多かったという。みんな祁答院先輩がどんな顔をしているのか気になるのだろう。


 僕が初めて祁答院先輩の顔を見た時に思い浮かんだ言葉は『アーティスト』だ。細長い切れ長の目からは物事に妥協を許さない意思の強さが感じられ、アシンメトリーに切られた髪型は本人の尖ったセンスを主張している。祁答院先輩は役者として舞台に立つよりも照明、音響を担当する事が多い。


「うん、私も高橋さんがピッタリなんじゃないかなって思ってたわ。高橋さん自身はどう? 演ってみたい?」と中西先生が言う。

「私も演ってみたいです。ただ、他に演りたい人がいたらきちんとオーディションして決めて欲しいです」

「そうね、他に演りたい人居るかしら? 居たら手を挙げて。一年生も高橋さんに遠慮しないでいいのよ」


 中西先生はそう呼び掛けたけど、他に立候補者は居なかった。

 程なくしてジュリのキャスティングは高橋先輩に決まった。中西先生は黒板に「ジュリ……高橋」と書き込む。当然と言えば当然のキャスティングだ。高橋先輩は容姿も去る事ながら、演技だって部員の中では一番上手い。先のエチュードでは上田さんだって褒める程なのだ。主役の一人であるジュリを演るのは高橋先輩しかいないだろう。


「じゃあ、次はもう一人の主役、ロミオね。これは演りたい人居る? または演って欲しい人とか」中西先生が問い掛ける。

「はい! 私、演りたいです」大きな声で立候補したのは蜂須賀さんだ。

「あら、女子から立候補とは意外ね」

「駄目ですか?」

「ううん、いいわよ。むしろ蜂須賀さんは合ってるんじゃないかしら?」中西先生は微笑んだ。

「ありがとうございます!」小さくガッツポーズをして席に座る蜂須賀さん。


「あ、俺も演りたいっす」

 手をぬらりと挙げて立候補したのは清水だった。俺しかいないだろう、と言わんばかりの自信に満ち溢れた表情をしている。


「清水君、蜂須賀さんがロミオ役希望……と。他にロミオ役演りたい人は?」


 はっきり言って僕はこのロミオ役を喉から手どころか足が出る程演りたい。『ロミジュリ!』に憧れてハチジョーに入学し、しかも相手役は高橋先輩なのだ。これ以上の舞台を演れるチャンスは今後ないだろう。立候補しない手はない。だけど……


「いないなら締め切っちゃうわね。二人にはオーディションをしましょう」中西先生の声が無情にも響く。


 僕は手を挙げられなかった。


 会議が休憩に入って、僕はトイレに逃げ込んだ。手を挙げられなかった自分に嫌気がさす。挙げられなかった理由は単純だ。自信がなかった。僕は演劇の事が大好きだけど、自分の芝居は嫌いだ。下手くそだから。


「沢ちん、何でロミオ役に立候補しなかったの?」と上田さん。


「いや、別に……主演、演りたい訳じゃないし」


「ふーん。勿体無い。『ロミジュリ!』だっけ。いい戯曲じゃない。演ってて楽しそう。沢ちん、立候補しなかった事、後悔してるんじゃない?」

「……うるさいな。上田さんには分からないよ」

「……何それ? どういう事?」

「上田さんにみたいに何でも出来る人に僕の悩みなんか分からないって言ってるんだよ!」


 しまった。つい語気を荒げてしまった。上田さんに当たるつもりなんかなかったのに。自分が情けなくて、自分に対してイライラしていただけなのに。


「沢ちん……ごめん……」上田さんは意外にも謝ってくる。

「あ……いや僕が……」

「なんて言うか! どりゃ!」

「イテッ!」

 上田さんのチョップを頭に受ける。しかも結構強い。


「何ウジウジしてんのよ! 演りたかったら演ればいいのよ! まだ若いんだから失敗を怖れちゃ駄目!」

「いや、だって……」

「だってじゃない! 沢ちん、私が何でも出来るって言ったわね?」

「え? うん」

「私、幽霊なんだけど! もう死んでるの! なんっにも出来ないわよ!!」

「あ……」

 僕は何て馬鹿なんだろう。酷い事を言った。


「沢ちん、沢ちん生きてんだから! 沢ちんこそ何だって出来るわよ!」

「……うん」

「何で立候補しなかったのよ? 自信なかった?」

 僕は頷いた。


「もう! みんな別にそんなに芝居上手くないんだから気にしなくてもいいわよ。他人にどう思われようがいいじゃない。『下手くそが立候補しやがって』とか思われると思ってるんでしょ? 他人にどう思われようがどうだっていいじゃない。自意識過剰よ。自意識が強いのは役者として良い事じゃないわよ」

「……そうなの?」

「自意識過剰な役者は最悪よ。見ててキツイわ。『ああ、自分は今見られてる。上手く芝居演らなきゃ』とか『どうだ、俺の芝居。感動するだろ? 面白いだろ』みたいなのがアリアリと見て取れるからね。そんな役者に客は感情移入しないわ。だから沢ちん、あんた自意識捨てなさい。役者は自意識捨てるだけでグッと面白くなるから。まあ、自意識がまるでないのも駄目だけど、強いよりはゼロの方がまし」

「そうなんだ……でも自意識捨てるって言ってもどうすればいいの?」

「沢ちん、主演、立候補する気ある? やる気のない人には教えたくないわ」

「う……」

「恥ずかしいという感情も自意識の一部だからね? 高橋先輩の事が好きなんでしょ? 高橋先輩二年生なんだから、ちゃんとした大会はこれが最後でしょ。これ以上高橋先輩と絡める役なんかないわよ? 演りたいの? 演りたくないの?」

 グイグイ僕に詰め寄る上田さん。


「あの……えっと、僕は……高橋先輩と『ロミジュリ!』が演りたい」

「でしょ? じゃあどうするの沢ちん? まだ会議は終わってないわよ?」


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