11

 八王子には花街文化が今もひっそりと根付いている。多摩地域唯一の花街だ。高校生の僕らにとっては近くて遠い異世界の様な場所、BAR MIZUHOはその花街の中にあった。八王子駅北口の西放射線通りから、道を一本花街寄りに入ったあまり目立たない場所だ。


 ベージュの外壁は新しい。おそらく夜になると扉を照らすのであろう間接照明が外壁の上部から一つ飛び出ている。扉は木製で、銀色に輝く縦長の取手が向かって左についている。とても重たそうだ。その扉の雰囲気は、一見さんはもちろんの事、ましてや高校生が入店するなんて以てのほかだと力強く物語っている。

 扉の目の前に置いてある腰程の高さの電飾看板には、ニューヨークタイムズのロゴに似たフォントでBAR MIZUHOと書かれてある。少し斜めに傾いて配置されたその文字に、僕は初めて平方根の記号を見た時と同じイメージを抱いた。取っ付きづらい慣れない記号、新しい世界の入り口、大人へのルート。


「入りづら……」友光が呟く。正直僕も何か理由を付けて回れ右をしたい。この扉を開けるには勇気がいる。

「確かに……こんな所、高校生がうろつくだけでも怪しいし……」


 まだ明るい時間帯で人通りは少ないけど、この辺りは夜の町の雰囲気が漂っている。高校生の僕らにとっては居心地の悪い場所だ。


 しかも僕らの服装は二人ともTシャツ。僕はデニム、友光はチノパンにTシャツを合わせている。Tシャツコンビ。どこからどう見てもこんな場所に用などなさそうな二人だ。どうしてもう少し大人びた服装をしてこなかったんだろうか。スーツとまではいかないまでもせめて襟付きのシャツ位は着てくれば良かった。


 そしてよく見ると友光のTシャツには何の変哲もないフォントで「GOOD DESIGN」というロゴが胸に大きく入っている。このTシャツをデザインした人間は一体何を考えているのだろうか。あまりにもやっつけ仕事が過ぎやしないか? 何かをデザインする際にGOOD DESIGNと自ら語ってしまおうという発想は一番やっちゃいけない事だというのは、デザインの素人の僕でも何となくわかる。この半ば投げやりに作られたとしか思えないTシャツが僕らの場違い感を一層際立たせている気がしてならない。


「大体、この時間に店にいるのか?」iPhoneで時間を確認する友光。


 時間は15時を過ぎた所だ。夜ではなく昼に行こうと提案したのは僕だ。バーの事はよく分からないけど、仕込みや準備で開店時間の前には居る気がしたし、夜の営業時間帯では迷惑をかけると思ったからだ。


「うーん……こんな所で議論しててもしょうがないし、入ろう」


 少ない勇気を振り絞ってドアの前に立つ。銀色に輝く取手が陽射しを反射してイヤミな位ギラギラ輝いている。左手でその取手を引く。扉はビクともしなかった。今度は押してみる。開かない。押しても引いても少しも動かず音すらたたない。当たり前だけど鍵がかかっている。

 だけどこんな事でこの場から離れる訳にはいかない。折角扉の前まで来た勇気が勿体無いのだ。

 扉をコンコンと叩く。無反応。今度は強めにドンドンと叩く。やはり反応は無い。ホッとしたのと同時に早くこの場から立ち去りたいという気持ちが急速に芽生えてくる。額から汗が眉毛に垂れた。


「まだ、来てないのかな……」僕は誰に聞かせる訳でもなく呟いた。

「ちょっと私、中の様子見てくるわよ」

「え?」

 どうやって? と僕が言葉を続けるよりも早くスルリと壁を抜ける上田さん。そうだ、彼女は幽霊だ。壁抜けなんてお手のものなのだ、と感心している間にすぐに上田さんは戻って来る。

「人が居るわ。中のソファーで寝てる」

「瑞穂さんだった?」

「どうかしら。暗かったし、誰か居るってだけで顔は確認出来なかったな」

「ドア叩いて起きるかな?」ドンドンと何回か繰り返して叩いてみる。

「すみませーん」友光も声を出す。

 上田さんが再び壁を抜けて中の様子を見る。

「駄目ね。全然起きる様子がないわ。焦れったいから中から鍵開けちゃうわね。直接起こしましょ」上田さんはそう言うと再び壁の中へ潜り込む。


「は? 開ける?」友光は高い声を出した。

「上田さん少し位なら物に触れるんだ。本人曰く、凄い疲れるけど少しの間なら触れるって。鍵位なら開けられそうだね」

「ああ、そういえば俺、みぞおちにパンチされたな……二回も」友光は腹をさすりながらこちらをじとっと見てくる。

「あ、あれはお前が夢から覚めたいとか言うから、勢いでさ」

「そうだが……そう言えばまだ謝ってもらってないと思ってな」

 まずい事を思い出させてしまった。

「悪かったよ! 上田さんの事でバタバタしててさ。今度とん八奢るから」

「お、本当か!」

「大盛分をな」

「大盛分だけかよ。でもまあいいや、それで手を打とう」


 内側からカチャンと音がする。

「空いたわよー」と言いながら、上田さんは上半身だけ扉から出てくる。こ、怖い。


「良し! ……って、鍵が開いたからって中に入ってもいいものか……?」たじろぐ友光。

「た、確かに、逆に余計入りづらくなったかも……どうやって入って来た! とかって怒鳴られないかな?」


「もう! つべこべ言ってないで早く入りなさいよ! 折角私が鍵を開けてあげたんだから! 此処まで来たら入らないという選択肢はないわよ」

「沢田よ、腹を括れ、扉を開けるんだ」

「うう、仕方ない……」


 出来るだけ音を立てずにドアを開ける。部屋から流れ出るクーラーの冷気が気持ち良い。店内は暗い。対面の壁に小窓が付いているようだけど、カーテンが引かれていてそこからはわずかな光しか差し込まない。開いた扉から入る光が徐々に中の様子を明らかにする。


 向かって左手にはL字形のバーカウンター。その奥の棚には見たこともないようなお酒がズラリと並んでいる。バーカウンターの席は五席。向かって右手には背の低いテーブルとソファーが二組。上田さんの言う通り奥のソファーに寝ている人がいる。顔をソファーの背の方に向けてくの字形に丸まり、黒いカーディガンの様な物をかけている。よく見ると女の人の様だ。カーディガンから覗く足は細く長い。白のキュロットスカートを履いている。瑞穂さんじゃなかったか。


「あのー……」

 恐る恐る声をかける。すると女の人はゆっくりと寝返りをうった。


「んっ……」

 まだ完全に起きた訳ではない様だ。こちらに気が付いてる感じじゃない。放って置くとまた深い眠りに入ってしまいそうだ。

「すみませーん!」眠られる前に大きな声を出す。


「んー?」女の人はそう声を出すと、もぞもぞと体を動かして起き上がる。髪が静電気で浮いている。元々は内巻きのボブなんだろう。パチクリと大袈裟に瞬きをしながら、口元に纏わり付いている自身の髪の毛を右手の薬指でほどいていく。起き上がったと同時に体にかけていたカーディガンが落ちて、着ているインナーが目に入る。花柄のキャミソールだ。右肩の肩紐がずり落ちているが直そうとはしない。


「だあれ?」寝起きだからか酒焼けなのか地声なのかは分からないけど、声はとても低い。しゃがれ声だ。細身で小柄なその体には似合わない。外見から年齢は二十代の前半から中盤くらいなんじゃないかと思っていたけど、声の所為で三十代にまで予想の幅が広がった。


「あ、えーっと……はじめまして、八常高校一年生の沢田と言います。こっちは友光です。瑞穂さんという方を探して来ました」

「友光です」頭を下げる友光。


「んー? 高校生? ハチジョー?」大きく欠伸をする女の人。ここでようやくキャミソールの肩紐を直して立ち上がると、カウンターテーブルの一角を上げて奥の部屋に消えた。直ぐに奥からガラガラとうがいをする音が聞こえる。


 僕と友光はどうしていいか分からず顔を見合わせそのまま立っていた。

「あれ? まさか……ひょっとして……」上田さんが口を開く。眉間には皺が寄っている。

「どうしたの?」僕が聞く。


「いや、まさかね……」上田さんは僕の問いかけには答えず、一つ首を傾げて自己解決した様子。


 うがいの音が止んでしばらくすると明かりが点いて女の人は戻ってきた。その手には大きなお皿を持っている。

「ケーキ食べる? ってか食べて。余っちゃって」

 お皿には半分になった苺のホールケーキが乗っている。うがいの効果が出たのか声はさっきよりもしゃがれていない。

「は、はあ」

 突然の来客、それもバーに高校生という珍客であるにも関わらず、動じずにケーキを出してくるその精神性を少し尊敬した。これが夜の世界で働く大人の余裕なんだろうか。普段あまり接する事のない種類の大人なだけになんだか圧倒されてしまう。


「そこ座って。今ミルク出したげる。ケーキにはミルクが一番だから」

 僕と友光はカウンターに案内された。

「誕生日ケーキ……やっぱり……み、瑞穂くんだ……」

「え?」

 ホールケーキの横のチョコレートプレートには「HAPPY BIRTHDAY MIZUHO」と書かれていた。

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