「沢田君」

 練習が終わり着替えを済ませ、教室を出たところで呼び止められた。中西先生だ。

「は、はい」

 結局練習中は中西先生と一言も交わす事がなく、気まずい時間を過ごしたので声を掛けてくれたのは嬉しかった。


「ちょっと職員室までいいかしら?」

 口調は怒っているような感じではない。ただ、どんな意図で呼び掛けられたのか読み取れないような音程でもある。少し恐い。

「はい」

「あ、友光君もいいかしら」

「はい、分かりました」友光は眼鏡を中指でクイッと直す。

 職員室に他の先生はいなかった。中西先生は自分の机の前まで行くと、両隣から椅子をカラカラと引きずって持ってくる。すっかり夕陽に染まった椅子を二つ、自分の椅子の対面に並べた。

「座って」

 中西先生に促されるまま椅子に座る。僕らが座ると中西先生も座った。表情は固く見える。

「さっきは怒鳴ったりしてごめんなさい。大きな声を出したりして大人気なかったわ」

 座った状態で深く頭を下げる中西先生。そのお辞儀は夕陽を背にしているので神々しくて謝罪ではなく何かの儀式の様に見えた。

「あと聞きたい事があるの。エチュードの事なんだけど、とても良かったわ。どうして急にあんなエチュードが出来たのかしら?」

「それは……」

 返答に困った。正直に言っても上田さんの事を信じて貰えなかったら余計こじれてしまう。


「ひょっとして……歩美……歩美が関係しているのかしら?」

 何か心変わりがあったのだろうか。中西先生の方から助け船が出た。

「はい……あの……信じて貰えますか?」

「にわかには信じられないけど……さっきのエチュードを見たら、二人が言ってる事は本当なのかもしれないと思ったの。本当に素晴らしいエチュードだったわ……沢田君には申し訳ないのだけど、あれはとてもまぐれとかたまたまで出来るものじゃないわ。歩美が指示を出したり、何か力を貸していたのだとしたら納得が出来るの。歩美は演技の天才だったから。さっきの沢田君はまるで歩美が演じているみたいだった」

「実は、あの……そんな所です……」

「そうなのね、ちょっと信じられないけど……あのエチュードの説明がつかないものね……歩美の演技の事は良く覚えているわ」

「上田さんの演技、凄かったんですか?」

「凄かったわよ。圧倒的な存在感、安心感、期待感があって、舞台に出てくるだけで観客は歩美の虜になる。場の空気を自由自在に操る事の出来る化物じみた演技力を持った子だった……懐かしいわ」

 中西先生は少し微笑を浮かべて遠くを見つめながら語った。当の上田さんは後ろに手を組んで俯いて聞いている。


「今も歩美は近くに居るの?」

「居ます」

「……貴方達は私と歩美の事を聞いているのね?」

「少しは……でも上田さんは当時の事をあまり覚えていないんです。その……上田さんの死因とか、もし良かったら教えて頂けませんか?」

「覚えていない? 死因も?」

 中西先生は何かを少し考えるように僕から目を逸らし、俯いた。そして続ける。

「歩美が覚えていないのなら私の口からは何も言えないわ……ごめんなさい……」

「え? 何故ですか?」

「自分の死んだ時の事なんか思い出させたくないわよ。だから私からは……」

 言われてみればその通りだ。自分の死んだ瞬間なんて幽霊だとしても覚えていたくないだろう。


「……歩美は私の事は覚えているのね? 少し話せる?」

「はい、僕達は上田さんの姿もみえますし、声も聞こえます。だから通訳します。今僕の隣に立ってます」

 中西先生は上田さんの方へ向いて少し笑みを浮かべた。

「歩美……久しぶり。元気? いや、元気って聞くのも変よね……あの、そっちの、死後の世界っていうのかしら、そっちでは上手くやってるのかしら?」

「はぁ? 元気に地縛霊やってましたけど!」胸の前で腕を組む上田さん。

「あの、先生、上田さんはその死後の世界には行けずに、つまり成仏出来ないでずっとこの学校で地縛霊をやっていたんです」

「え? そうなの! 私てっきりお盆か何かでひょっこりこっちの世界に帰って来たのかと思ってたわ」

「そんなのんびりした理由で会いに来たんじゃないわよ! あんたのそういうちょっと天然入ってる所変わってないわね! よくそれで先生やってるわね! 大丈夫かしら?」

 僕はその通りに伝えた。

「まだまだ上手くいかない事も多いけど、何とか先生やれているわ。心配してくれてありがとうね」

 どうやら中西先生は上田さんが自分の事を心配していると思ったようだ。幽霊の通訳というのはなかなか難しい。


「ちょっと沢ちん、全然違うニュアンスで伝わっちゃってるじゃない! もう! 心配なんてしてないわよ! 皮肉で言ってるんだから」

「そうだけど、難しいよ」

「これも演技の練習だと思いなさい。私になった気で私の言葉を伝えるのよ」

「何それ、無茶言わないでよ」

 中西先生は不思議そうな表情をしている。

「あーあ、朋子、貴方も年取ったわね。綺麗にはなったけど、10代の頃とは肌の艶が違うわ。老けたわね。はい沢ちん、伝えて」いたずらっ子の様に笑う上田さん。

「ええ! そんなの無理だよ!」

「え? 何が無理なの?」

「あ、いえ、こちらの話です。中西先生は綺麗になったわねって上田さんは言ってます」

「ちょっと! 沢ちん! 老けたわねって言いなさいよ!」僕の首を締める上田さん。

「歩美ありがとう。でも歩美程じゃないわよ。私は歩美程の美少女は今まで見たことないわ。大学時代でもそうだし、芸能人を含めてもそうだし、教師として赴任されてから沢山生徒を見てきたけど歩美が一番よ。これはお世辞じゃなくて本当にそう思うの。歩美に嫉妬した事もあるわ」

「……ふん」上田さんは僕の首から手を離してくれた。


「歩美が成仏出来ないのは何でかしら? ひょっとして私に会いに来てくれたのと何か関係があるのかしら?」

「あの……言いづらいのですが……上田さんは中西先生に謝って欲しいんです。瑞穂さんでしたっけ。その人の事なのですが……」

「ああ……」中西先生は俯いた。

「上田さんはずっと成仏出来ないで居て、中西先生に謝ってくれれば成仏出来るかもしれないんです」

「歩美……」中西先生は言葉を詰まらせた。

「そうよね……ごめんなさい……」何時の間にか中西先生は瞳に涙を浮かべていた。声は絞り出すような音でかすれている。


「許してもらえるなんて思ってないけど、歩美があんな事になるなんて思わなかった……本当にごめんなさい。12年間も……苦しめて……ご、ごめんなさい」

 きっと色んな男性が心を奪われていっただろう瞳に涙が満ちて、瞬きで一粒、雫がこぼれる。大人の女性の、しかも先生の涙だ。なんだかとても悪い事をしている気分になった。

「歩美……ごめん」中西先生は何度も何度もごめんと繰り返した。

「朋子、もういいわ。ありがとう、って伝えて」

 上田さんの言う通りに伝えると中西先生は声を大きく上げて泣いた。僕らは掛ける言葉もなく、どうする事も出来なかった。中西先生が泣き止むのを待つだけだった。

 中西先生が落ち着きを取り戻すまでしばらく時間がかかった。もう外はすっかり陽が落ちている。友光が職員室の電気を点ける。上田さんが「朋子、もう行くね」と口を開いた。

「先生、上田さんがもう行くねって言ってます」

「待って! 此処に瑞穂君が居るから……」

 中西先生は机から名刺のファイルを引っ張り出して僕の前に名刺を差し出した。名刺にはBAR MIZUHOと書かれている。

「彼に会ってみたら……」

「沢ちん、その名刺いらない。朋子、もういいの。もう充分よ」

「あの、先生、上田さんはもう充分だって……」


「歩美は、私の事を許してくれたの?」また少し涙ぐむ中西先生。

「許したわよ! もう! そんなに泣かないでよ! 私が悪者みたいじゃない」頬を膨らませる上田さん。

「先生、上田さんが、泣かないで、私が悪者みたいじゃないって言ってます」

「ごめんねぇ……」

「てい! いつまでも泣かないの!」中西先生にチョップを繰り出す上田さん。

「ん? あれ?」頭に手をやる中西先生。

「上田さんは少しだけならこっちの世界の物を触れたり出来るんです。中西先生の頭に泣くなってチョップをしたんです」中西先生、上田さんは重いパンチも打てるんですよ。

「歩美……そう言えばよくやってた。歩美……ありがと……」泣きながら微笑む中西先生。

「もう! しょうがないわね……そんな泣いたら美人が台無しよ。ほらほらアイライン落ちてる」そう言いながら中西先生の頭を撫でる上田さんの目も少し濡れていた。

「ひょっとして私、今、頭撫でられてる?」

「先生、わかるんですか? そうです!」

「なんとなく……」中西先生が顔をあげる。中西先生には上田さんは見えていないはずだけど、二人は見つめ合っているようだった。

「歩美……これで成仏出来るかな……」

 中西先生の言葉にハッとする。そうだ。これでわだかまりが解けたのなら上田さんは成仏するはずだ。じゃあ、上田さんは消えてしまうのか?

「沢ちん、上田さんは成仏しましたって伝えて」

 消える様子のない上田さんが言う。上田さんの言う通りに伝えると中西先生は「そっか」と呟いて俯いた。


「朋子、ありがとう。なんか逆にごめん。朋子は今を生きてるんだもんね。過去なんか振り返らせて、ごめん」

 上田さんは自分の声が聞こえない中西先生にそう伝える。僕はそれを聞いて酷く悲しい気持ちになった。やっぱり上田さんは幽霊なんだ。上田さんは12年前に死んで、でも周りの時間はそんな事関係なく流れているんだ。上田さんはもう『居ない』人なんだ。

「先生、僕達はこれで失礼します。今日は色々ありがとうございました」友光がお辞儀する。

 僕も、おそらく上田さんも、声を出すのが酷く億劫だったから助かった。

「こちらこそありがとう。もう暗いから気をつけてね」


 少し気の早い鈴虫が鳴く浅川沿いの家路を自転車で走る。前を走る友光のライトが放射状に闇を割く。僕と友光は黙々と自転車を漕いだ。荷台に座る上田さんの体重は感じられない。時間、存在、幽霊、成仏、生命、芝居、大人、子供、恋愛、青春。色々な単語がカラカラ回る車輪から産まれて、闇に消えていく。

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