グラウンドの隅のオトギリ草が太陽の日差しをいっぱいに浴びて喜んでいる。白球を追う野球部と蝉の混声合唱が夏を謳う。職員室では冷房のファンが静かに夏を囁いている。


「上田歩美?」そのぷっくりとした唇から少し鼻にかかった色っぽい声が漏れ出る。

 中西先生は不思議そうな表情でこちらを見た。今日は演劇部の練習日。僕と上田さんと友光は開始時間の大分前に登校し、中西先生に会いに来ている。上田さんの事を説明するためだ。


「何であなた達が歩美の事を知っているの?」

 少し小さめの白いブラウスはその大きなバストを強調している。襟を細い人指し指でなぞり、そのまま頬杖をついて上目遣いにこちらを向く。所作の一つ一つが色っぽい。中西先生に赤い実弾けてしまった男子は多いだろう。実は横にいる眼鏡もその一人だ。

「あなた達、冗談だったら少しタチが悪いわよ。死んだ人の事をそんな風にネタにしたら駄目」

 事情を説明すると中西先生は真顔でたしなめてきた。


「冗談じゃありません。今此処にも上田さんが居ます。髪は茶色のツインテールで、昔のハチジョーの紺色の冬服を着ています。中にラルフローレンのグレーのカーディガンを着ています」

 僕が言うと、中西先生は一つ溜息をついて言った。

「……本気で言ってるのだとしたらちょっと心配ね。何処で歩美の事を聞いたのか知らないけど、これ以上その名前をだしたら本気で怒るわよ」

 その声の残響は、リン、と耳に小さな痛みを落とす。中西先生は険しい表情でこちらを睨む。今まで見た事がない表情だ。普段優しい先生なだけにそのギャップにたじろいだ。思わず上田さんの顔を見る。


「瑞穂君とはどうなったのって聞いてみて」上田さんが指示してくる。

「す、すみません。あ、あの、瑞穂君とはどうなったか聞いてって言ってます……」

「沢田君! いい加減にしなさい!」


 中西先生の語気に強く空気が震える。これ程の声量で怒られるとは思っていなかったので血の気が引いた。表情はたしなめるそれではなく、敵意がむき出ている。上田さんの名前を出せば昔を懐かしがってエピソードの一つでも披露してくれるものだと思っていた。しかし現実は目を合わせる事すら難しい程怒らせてしまっている。友光の援護射撃も期待できない。友光はもともと中西先生に弱い。


「す、すみませんでした……」

 有無を言わせぬ空気に職員室を出て行く他なかった。


「ちょ、ちょっと何で出るのよ!」上田さんが首を掴んで止めようとしてくる。

「仕方ないじゃん。あの空気感じたでしょ。とても上田さんに謝れなんて言えないよ」

「怖かったな。あんな中西先生初めてだ」

「何であんなに怒るんだろう?」

 もし冗談だとしてもそんなに怒鳴られるような事だったんだろうか。

「あの反応では上田さんが本当に存在していると信じてもらえるような確固たる証拠がなきゃ駄目だな。上田さん何かないのか? 上田さんしか知り得ないような事とか。上田さんと中西先生の共通の合図とか」と、友光。

「うーん、何かあったかな……当時の担任の先生の名前はどうかしら?」

「微妙だ。調べられそうな事じゃ駄目だな」

「そうよね……」

「上田さんと中西先生は仲が良かったの?」

 僕が尋ねる。

「仲良かったわよ。私も朋子も同じ中学校出身、同じ演劇部で同じクラス。良く一緒に遊んでたわ」

「瑞穂さんとの関係とか経緯ってどんな感じなの?」

「初めに瑞穂君の事を好きになったのは私。瑞穂君はとても顔立ちの整った男の子だったわ。確か八月生まれで、夏が似合う爽やかな男子だったわ。笑顔が印象的なの。見てるこっちが安心するような笑顔……私は朋子に彼の事を相談していたわ。朋子は協力してあげるって言ってくれたの。朋子も私も瑞穂君とは知り合いじゃなかったから、朋子がまず瑞穂君と知り合いになって、瑞穂君の趣味とか、好みのタイプとか聞いてもらったりしたわ。でもそうして接触するうちに朋子も瑞穂君の事を好きになったみたいね」

 お決まりのパターンだ。友人の恋愛相談に乗るうちにやがて自分もその人の事を好きになってしまう。


「朋子は私に瑞穂君はやめた方がいいって勧めてきたの。瑞穂君はとてもチャラいから遊ばれるだけだよとか。動物とか子供とかが嫌いで人間性に問題ありそうとか。部活もやってないし、成績も悪いみたいだし何に対しても不真面目で好感持てないとか。私が瑞穂君を諦めるように瑞穂君のネガティブな情報ばかりを教えてきたの。その中には嘘の情報まであった。その裏で朋子は瑞穂君ととても仲良くなっていったの。仲良さそうに二人で居るのを良く見たし、決定的だったのは瑞穂君と朋子がキスしている所。偶然目撃しちゃったの」

「中西先生そんな事をする人だったのか……」

 僕は少しショックを受けた。


「昔の話だろ。中西先生だって若かったんだ。好きになってしまったらそうなる気持ちも分かるがな」

 中西先生のシンパである友光は口を尖らせる。


「まあ、そうかもしれないけど……」

 そんな事を言ったら上田さんが可哀想じゃないか。幽霊になってまで思い詰めてるんだぞ、馬鹿友光。


「そうね……朋子は悪くないのかもね……」

「あ、いや……上田さん……ごめん」素直に謝る友光。

「いいのよ。人を好きになる気持ちは理屈じゃ説明出来ないし、理性が効かなくなるのも分かるから……」

 僕も友光も黙っていた。


「実は、初めはかち割って欲しいなんて馬鹿みたいな事言ったけど、実は朋子にはもうあまり拘ってないかも……」

「え?」と僕と友光が揃えて声を出す。

「なんかこの数日、沢ちんや友光と一緒に居たら朋子や瑞穂君の事、どうでもよくなってきちゃった」

「ん? じゃあなんで上田さんは成仏しないんだ?」友光が言う。

「そう言えばそうね。なんでだろ」

「確かに、もうどうでも良くなったなら成仏出来るはずだよね。やっぱり謝ってもらうとかそういうけじめみたいなのが必要なのかな?」僕が返す。

「うーん、そうなのかもしれない……」

 上田さんは困った顔で俯いた。


「それと関係して、ちょっと気になっていた事があるんだが……」友光は腕組をした。

「何?」友光の方を向く上田さん。

「その、ちょっと聞きにくい事なんだが……上田さんの死因って何なんだ? いや、言いたくなかったら言わなくても大丈夫だけど……そういえばまだ聞いてないなと思ってさ。成仏する為のヒントになるかもしれないだろ」


 上田さんの死因については今まで考えなかった訳じゃない。けど、デリケートな部分だから聞くのが憚られていた。いつか上田さんから話してくれる日がくれるんじゃないかと思っていた。

 このタイミングで友光が聞いてくれるのは助かる。僕も、上田さんが成仏出来ない理由と死因は切り離せないものじゃないと考えていたから。

「実は、分からないの……」

「分からない? 何で?」

「思い出せないの。それも死因だけじゃなくて、家族の事とか、自分が何処に住んでたとか、当時の事全体がぼんやりしてるの。所々は色濃く覚えているけど。例えば、今説明した失恋した事とかは覚えているんだけど……」

「そうなんだ……」

「失恋した事を覚えているから朋子に拘っていたのもあるわね……」


 友光と上田さんのやり取りを聞いているうちに僕の中である一つの仮説が立ってしまった。自分でも立てたくない、嫌で途方もない仮説だった。根拠もないし、口に出すのも憚られるモノだから頭を振って忘れようとした。


「ごめんね。二人とも協力してくれてありがとう」

 上田さんは頭を下げた。珍しくしおらしい上田さんのその態度に僕と友光は顔を見合わせた。

「どうって事ない。何か困った事があれば言ってくれ。沢田が解決するから」

「お前も協力しろよ」


 上田さんが笑う。少し開いている廊下の窓から風が吹き込む。隙間から綿あめの様な雲が一つ、夏の空に浮かんでいるのが見える。自分の中の黒いモヤモヤとは正反対の白さだった。

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