とん八を出たところで上田さんはカラオケに行きたいと言った。

 言い出したら聞かないし、考えてみれば上田さんは12年も何処にも行けず一人で歌っていたのだ。カラオケぐらい連れて行ってあげたいなと、単純にそう思った。

「きゃー! カラオケ久しぶりだわー!」

 僕達は八王子駅近くのカラオケ店に入った。上田さんは、TV画面を見て「誰この歌手?」と聞いてきたり、予約を入れる大きなリモコンやカラオケ機器を見て「未来ねー」と部屋の隅々まで観察していた。

「カラオケはあまり好きじゃないんだがな……」


 友光はそう言うが実は歌はうまい。友光の声は音域が広くて音色は甘く、スピッツを好んで歌う。僕の勝手な想像だけど、友光はSEKAI NO OWARIを歌えばハマるのではないかと思っている。


「沢ちん、最近は何が流行ってるの?」

「え? 何だろ? AKBとかセカオワとかももクロとかかな……初音ミクも歌う人多いかな?」

「何それ? 聞いた事ない単語ばっかり。初音ミク?」

「ボーカロイドだよ」友光が答え、スマホを使って動画サイトで初音ミクの曲をかけて説明する。上田さんはますますテンションが上がったようで「何これー! 何これー! スゴー!」とはしゃいだ。


「上田さん何歌う? 最初に歌いなよ。検索してあげる」

 僕がリモコンに手を伸ばしながら言うと、上田さんは「このリモコンが歌本の替わりなの?」と尋ねてくる。

「そう。本もあるけどこっちのが便利だよ」

「えー! 本をパラパラめくって探すのが楽しいのに! 思いがけない歌いたい曲とか発見出来るし」

「慣れるとこっちもいいもんだよ」

「まあいいわ、どうせ歌本があっても長時間は触れないしね。じゃあ、NAHOの『BLUE SUMMER』入れて頂戴!」

「え? 上田さん何でNAHO知ってるんだ?」友光が不思議がる。NAHOは去年デビューしたシンガーソングライターだ。

「沢ちんのiTunesに入ってた。私、この曲凄く気に入っちゃった!」


  夜、上田さんが一人で起きている間、iTunesで色んな曲を夜通し流しているのだ。そのまま部屋で流してはうるさいのでクローゼットの中で。

「マイクは使えないよな? アカペラか? バックミュージックの音量下げようか?」友光が気を効かせる。

「ふふ、お舐めでないよ友光! 幽霊はマイクなんぞ通さなくても拡声できる能力があるのだ。それにもともと私の声量はカラオケのベーシックな音量程度に負ける程やわくないの!」

 そう言って上田さんが歌い出す。

 そこで僕は一つ、悟った。圧倒的な力の前に人間というのは抗う事は出来ないのだ、という事を。

 上田さんの歌声は、まず僕の耳から全身を駆け巡って細胞という細胞にスイッチを取り付ける。快楽スイッチと名付けよう。次にその声はバチバチバチバチと凄いスピードでスイッチを切り替えていく。快楽スイッチOFFからON。一小節、たったの一小節で僕はもう上田さんの歌声の奴隷になった。その声は動く事を禁じて、全力で聴く事を命じる。動けない。

 この世の快楽を全てまとめて音にしたらきっとこんな響きなのじゃないだろうか。

 芯が通っていて力強く、それでいて優しさと可愛らしさも共存している音色。完璧なリズム。固く広い大地を一歩一歩踏みしめるようにブレない音程。身体中に上田さんの歌声が響いて、大袈裟だけどこのまま死んでも幸せかもしれないとさえ思える程だった。


「あら? 次入ってないじゃない。早く入れなさいよ」

 歌い終わって上田さんが言う。自分が発する音の価値に全くこだわらない、日常然とした態度、僕はそれに怒りさえ感じた。僕は自分の曲を探す気にはなれなかった。友光も固まっている。きっと友光も同じ気持ちなんだろう。

「ど、どうしたのよ二人とも揃って固まっちゃって……狛犬みたいだよ」

「う、上手すぎるだろ……」何拍も置いてやっと友光が口を開く。

「そう? 素直に褒められると照れちゃうわね」

「人の歌を聞いて初めて凄いと思った。完璧じゃないか! 感動した。一音一音が輝いて粒立っている、そんな歌声だ!」

「何処の評論家よ」

「いや、本当にそう感じたんだよ!」

 友光がこんなに手離しで人を褒めるなんて珍しい。でも、分かる。上田さんの歌はそれだけ圧倒的だった。

「どうしたのよ友光? らしくないじゃない?」

「俺は本当に良いものはちゃんと褒めるぞ。しかし沢田よ、これは自分で歌うのが馬鹿らしいな……」

「友光、完全に同意だね。上田さんの歌をもっと聞きたい」

「何々? 二人とも気持ち悪いわね。せっかくなんだから歌いなさいよ」

「僕らは気が向いたら歌うからさ、今はとにかくもっと上田さんに歌って欲しいんだよ。他にどんなの歌うの? 入れるよ」デンモクに伸ばした僕の腕は鳥肌が立っている。

「沢田よ。ここは上田さんの好きな椎名林檎を入れるんだ。『キラーチューン』はどうだ」

「キラーチューン?」上田さんが首を傾げる。

「あー『キラーチューン』は僕のiTunesに入ってないから上田さんわからないな。『ここでキスして』にしよう」

「お、若いのに『ここキス』を選択するとは中々見所があるな」満足そうな笑顔を見せる上田さん。


  そこからは大リクエスト大会になった。あれ歌える? これ歌える? と次から次へとリクエストをする。上田さんも嬉しいのかそれにどんどん応えてくれた。僕も友光も一曲だけ歌ったけど、自分が歌うのなんかどうでも良かった。自分で歌うより上田さんの歌を聞く方が気持ち良かった。カラオケに来て他人の歌を聞くだけなのがこんなに楽しいなんて初めての経験だった。傍からみたら歌わないでひたすらバックミュージックを聞いてる男子高校生二人組という気持ちの悪い構図だっただろう。

 マイクを片付けながら友光が「上田さん、生きていたら絶対歌手になれたな」と言う。

 僕もそれに同意して頷く。

 上田さんは笑って「ありがとう」と言ったけど、その顔は今までで一番悲しそうに見えた。



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