第7話 七香の決断
私はベンチに座り込み、手に持たされた薬を見つめた。
彼のいうことはつまり、この薬を飲めば今私の望むようになるということなのだろう。
彼は私の願望を兄経由であるが分かっているらしい。
確かに思い返して見ても、
「ううん、違う。 近すぎるからその選択肢がお兄にはないんだ」
そう、普通の人なら考えるはずの選択肢を兄であるからと潰してしまっている。七香には時正の言動、行動がそうしていると見抜いている。
だからこそ、色々なことをして気づかせようとした。
「でも、それはなんでだと聞かれればそうとしか言いようがない。言われても仕方がない……」
七香は上を見上げて昔の自分を思い浮かべた。
頭上にはどんよりと暗い雲があたり一帯を覆い、いつ雨が降ってもおかしくなかった。
—それは姉が兄を好きになっていると密かに知った頃……。
私のいる中学でも色恋の話がちょくちょく出ていた。
「ねぇねぇねぇ、あの子カッコよくない?」
「え? どこどこどご?」
教室の窓から指を指す友達につられて、七香は窓の外を見た。
友達の指した指の先には、グラウンドで激しく駆け回る男子たちの姿があった。
その中でもひときわ目立っていた男の子がいた。友達はその子を指してそういっているのだと分かった。
「ほら、あれ。 顔もいいし、運動神経も抜群! 」
「そうだね」
グラウンドでは、その男の子が華麗にシュートを決めていた。
その子を見て、友達は興奮冷めやらない感じでいた。
その頃、私は色恋沙汰などに興味などなかった。それよりも野球が好きだった事もあったし、元父のこともあって男性というものにいい印象がなかった。
「なんか、乗り気じゃないね」
友達も私の返事や表情を読んでそう答えた。
「うん。 ごめんね、ちょっと色恋に興味がなくて」
その場はその言葉で片付けた。その言葉により、「はぁー、七香は野球が恋人だもんねー」
と呆れたように私にいうのだった。
確かに友達の言うことは間違っていなかった。
……この時までは。
ある日の土曜。
「七香ちゃん。 野球が好きなんだってね」
唐突にそんなことを兄から言われた。
兄にはきっちりとそのことを伝えてはいなかったが、まぁ、部活にユニフォームで行ったりするだろうから見られているに決まっていて、よくプロ野球を見たりするので側から見ても分かるのであろう。
その時の私は兄のその言葉を否定的な意味で捉えた。
兄の言葉には「女子なのに……」というニュアンスが含まれていると七香は思ったのだ。
「好きで悪い?」
だから、開き直ることにした。
兄もまさか怒られるとは思っておらず、苦笑いだった。
「良かったら、一緒にキャッチボールでもしない?」
唐突にそんな提案をされた。
私はその時の兄の真意にまだ気付けてはいなかった。
ただ、単純に女子でも野球がまともにできるんだぞと示せるチャンスが相手から与えられたことに興奮していた。
「女だからって甘くしないでよね」
だから、挑発的な態度をとって兄を負かす気でいた。
公園に移動した。
その中に軽いグラウンドがあってそこを使った。
「最初は軽くね」
兄はそう言うと、山なりのボールを投げた。
ヒョロロンというような低俗なボールだった。
やはりガリ勉はそんなところね。
私は受け取ったボールをやや強く投げ返した。
ヒューンと直線を描いてボールは兄のグラブで弾いた。
そのボールは本気で投げたつもりではないのに取れないことに私は表には出さないものの嬉しかった。
その後も、私はそのボールを投げその度に兄はボールを取り損ねた。
「よし、じゃあそろそろいくよ……はあぁっ!」
そう言って兄は日本人メジャーリーガーの投球モーションの真似事をして七香に向かって投げた。
一瞬にして目の前に来るボール。先ほどの返球とはまるで違う回転の良さと速さ。
「ひやっ!?」
恐くなり、咄嗟に避けてしまった。
ボールは私の後ろのフェンスに挟まった。
そして私は肩から地面に倒れてしまった。
痛みが走る。幸い、服を着ているので、かすり傷程度で済みそうな痛みだった。
「七香!? 」
慌てた様子で兄が駆け寄ってきた。
「怪我は?」
と言いながら、肩を触られた。
「いつっ!」
触られたことで痛みが走った。
「何する−」
「これは擦ってるな……絆創膏持って来るから、肩を濡らしていてくれ」
私の抗議の声には耳もくれず、兄は走って行ってしまった。
あんな真剣な顔の兄は今まで見たことなかった。
しばらく何も考えられずポカンとしてしまった。
「それに今、呼び捨てされて言葉が崩れたし……」
本来ならば、怒れてくるはずの事なのに怒りなど微塵も湧いてこなかった。
むしろ、あんな顔の兄を見れたことに嬉しくなった。
言われた通りに、肩を露出し、水で拭いた。
「痛つっ!」
染みて痛みが走った。
それでも、水をつけて汚れを落とした。
「七香!」
兄が息を切らして戻って来た。走って来たのだろう。
兄はすぐさま私の傷を見る。おそらく、汚れが残っていないのか確認しているのだろうが……。
「お兄……近いよ……」
傷が肩、ということもあって兄の顔が近くにあった。
「我慢してくれ、お前も俺みたいなブサイクじゃなくて、カッコいい男にやってもらえたらいいんだろうけど、今はそんなイケメンいないから我慢してくれ」
「………なによそれ……」
私から出た言葉はそれだけだった。
兄は傷に消毒を施した後、絆創膏を貼った。
その顔は真剣そのもので、私はその顔にまたドキッと胸が鳴った。
「これでよし」
兄の顔が離れる。
少し名残惜しい……そんなことは思ってない。うん、思ってない。
「んじゃ、帰ろうか」
兄がそう言って、立ち上がった。
「え? 続きは?」
とっさに聞いてしまっていた。
これでは、兄とのキャッチボールを私が望んでいるみたいになってしまっていてちょっと恥ずかしい。
「当たり前だろ? 別のとこならともかく、投げるための肩をやったんだ。傷が広がったら大変だろ?」
「え? うん……」
正論に首を縦に振ってしまった。なにも言い返せなかったという方が正しいかもしれない。
「また、いくらでもやってあげるから……な?」
ポンと兄は私の頭に手を当てて笑顔を作った。
「頭ポンポンしないで!」
「おっ、ごめん……」
兄はそれで私との距離をとった。
「それと、話し方。敬語じゃなくなってる」
「……ごめん、気をつける」
兄は肩を落として私に謝った。
「違くて……兄妹なんだから……敬語はなし、それでいい」
私はボソッと、それでいて兄だけに聞こえるように言い捨てて早足で帰った。
追いかける兄をよそ目に少し頬がつり上がっていた私がいた。
ふと空を見上げると、雨がポツリポツリと降り出して、今にも本降りになりそうだった。
暗い空を見る。
今の私の気持ちを忠実に再現している。そんな、雲だった。
でも、いつまでもこのままじゃいけない。
今まで引け目だった私、姉とは線を引いてお互いに努めて仲のいい姉妹でいようとした。
「でも……でも、私もゆずりたくはないよぅ……お姉ちゃん……」
七香は握っていた左手を口元に持っていき、喉音を鳴らした。
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