第6話

 どうしたものだろうか……。


 俺は無意識に頭をかく。これは、クセなのであり無意識であるがゆえに時正が悩んでいるそれではない。


 では、今、まさに時正が悩んでいるのはなんであろうか?


 それは、朝にさかのぼる。


 俺にとってすればそれはとても想像し得ない事であった。


 まさか、俺の部屋に舞香が来るなんて……。


 そして、今の状況はというと、まるで拘束されているかのように俺の伸ばした腕に頭を乗せて無防備に寝息を立てている。


「すぅ………すぅ………」


「うう……」


 当然、頭を乗せられた方の腕は痺れていた。


 普通に動かせばこの痺れは一過性のもので済むのだろう。


 しかし、俺の理性がそうさせてはくれなかった。


「それに、こんな可愛い寝顔見せられて起こしてしまう方が勿体無い気がする……」


 無意識に舞香の髪の毛に手を伸ばしそうになって慌ててやめた。


 無論、起こしてしまうからというのもあったが、それでは恋人同士のすることではないかと自分自身に突っ込んだからでもあった。


 そこに目覚まし時計の音が鳴り始めてしまう。


「あ、やべっ」


 慌てて消そうとしたが、ちょうど舞香があるおかげで手が届かなかった。


「ん、んん………」


 しかも、目覚まし時計を消すために少し動いてしまった事もあり、舞香が目を覚ましてしまった。


 少し、残念に思いながらも仕方ないと切り替えるとともにどうしようと焦った。


「お兄ちゃん……おはよう……」


「!?!? お……おはよう……舞香……えーさん?」


「なんで疑問系なの? お兄ちゃん」


 そう言いたいのは俺の方だ……。


 喉まで出かかった声を抑えて本題に入る。


「でだ。どうして舞香はここにいるんだ? ここは俺の部屋だぞ」


「お兄ちゃんは舞香がここにいちゃ……いや?」


「うぐぐ……」


 上目遣いでそう言われては何も言い返せなかった。嫌なわけないし、むしろいいとさえ思ってしまっていたからだ。


 そりゃあ多分だけどぉ? 可愛い妹に頼られて嬉しくない兄貴はいないでしょ?


 あっ、でも、ここでいう可愛い妹ってのはドS妹は省きますけどね。


 そんな時正の持論は置いておくとして、どこか舞香の様子が可笑しいと思った。言動といい、時正の事を「お兄ちゃん」と呼ぶあたりが気になった。


 覚醒した目で舞香を見る。


 頭の先からすぅーと下にスクロールするように見たがどこにも異常はなさそうであった。


「となると幼児退行か?」


「え? 何それお兄ちゃん」


 俺の発した言葉に興味津々の舞香。


 その言葉に俺は肝を冷やした。


 髪の毛に続いて幼児退行が起こってしまうなんて……。


 もはやこれはなんらかの病気であると考えざるおえなかった。


「あのな舞香……」


 幼児退行について俺が説明しようと舞香を見ると、舞香は顔を真っ赤に染めてプルプルと震えていた。


「あ、あの! 兄さん!」


「は、はい!!」


「私……兄さんに何かしましたか!?」


「い、いえ、何もされておりません!……え?」


 急に呼びかけられて、まるで叱られているかのように返事してしまった。


 舞香の声も早口で何かに慌てているような気がした。


「そっ……それならいいんです! ででではしし、失礼しました!」


「は、はいぃぃ!」


 舞香は一目散に俺のベッドから出て扉の音が強くなるほどに慌てて出て行った。


「そういえば、俺への呼び方が戻ってたな……幼児退行はまだ舞香が寝ぼけてたからか?」


 俺は首を傾げながらも支度を始めた。





「ん………んん……」


 おもむろに目が覚めた。


 さして、何か衝撃があったからというわけでもなく、さしていつもの時間になったから……でもなく本当に気まぐれに起きた。


 時計を見ると朝5時……。


 二度寝するのにはちょうど良い時間だと七香は考えた。


「寝よ」


 ともう一度毛布をかぶって寝ようとした時に下にいるはずの姉がいないことに気がついた。


 よく上から目を凝らして見ても彼女の姿はなく、もぬけの殻だった。


(こんな朝はやくからの用事なんて聞いてなかったし、もしかしたらトイレに行ってるだけかもしれない……)


 そう七香は結論づけてもう一度毛布を被る。


「…………………」


 これが女の勘なのだろうか。私は女であるが、そのことに限っては胸を張って言えるほどそんな能力が自分にあるかどうかなんてよくわからなかった。


 もともと、男っぽい性格もあるとよく言われるけれども、おしとやかにするというよりもスポーツ少女のガッツ溢れる性格に近いと思う。


 その勘によれば舞香はトイレに行ったのではなく、何か目的があって今ここにいないとある。


 この時間帯であれば、両親共々、兄も含め起きてる人などいない。


 そんな中でどこか目的を持って行くとすれば、兄の部屋しか無かった。


 姉が腹違いの兄に密かに惹かれていたと知ったのは別につい最近のことでは無かった。


 姉妹なのだ。何を考えてそのような行動をしたのかは手に取るようにわかる。


 だからこそ、姉のお兄に対する扱いが明らかに他者に対する扱いとは全くの別物だった。


 明らかにお兄に対してだけはツンケンしまくっていたのだ。


 なぜか、怒るべきところでもなさそうなところで怒ったり、とにかくお兄に対してだけは感情を無駄に露わにしていた。


 そのような姉を見るのは初めてだった。


 最初は照れ隠しなのかなとも思ったが、自室で一人になっている姉を見てそうじゃないんだと確信した。


 その時、姉は心の底から後悔していた。


「あー、なんであんなこと言っちゃうんだろ……」


 ドアを開けようとした時、ふとそんな声が聞こえてドアにかけようとした手が止まった。


 その時にはどうしてそれほどまでに深いため息をついているのかが私には理解できなかった。


 なぜならば、いきなり少し血が繋がっているからといって今更、一緒に住もうだなんてていのいい手のひら返しだと正直不満だらけだったからだ。


 しかし、だからといってこの状況は変えられないし、受け入れるしかないと思っていた。それに、父はともかく義理ではあるが母は私たちによくしてくれた。私も案外悪くないなと思い始めていた。


 でも、兄に関していえば別に普通の人だなという印象しかなかった。


 特にルックスがいいとか、頭……は良かったけれども、性格に関しても別に普通という言葉でしか表現できないほど、特に特出したものがなかった。


 だから、私も別にこの人と仲良くなっておけばいい的な腹づもりで付き合っていただけで、彼を特別視しての付き合いはなかった。


「私……はぁ……この言葉を言える状況まで全く進んでない……」


 胸に両手を添えるようにしてうっとりした表情で悩む舞香に私は頭の上にクエスチョンを表示しまくっていた。


「お姉ちゃんは何を悩んでいるの? あの人のことを言っているのは分かるんだけど……」


 舞香は男性は苦手だ。


 以前から無理的なことを聞かされていたからあんな口調で怒鳴ってしまうのも仕方ないと思う。それは、兄も母も分かっていることだから、兄も反省しているし、母も何も言わず見守ってくれている。


「ああ、こんな時に人の心を読めたらなんて考えるのかな……」


 あの清楚な姉がおかしくなってしまっている。


 まるでいつもスポットライトが当たっていて、誰もが彼女を見れば絶対に立ち止まって見てしまうほどの美貌を持った姉が今や何かおかしい。


 私はそこで気がついた。こういうところは女子なのかなと自分で思った。


(ずばり姉は恋をしている!!)


「でも、こういう時って教えるべきなの? 分からない……多分、諭してあげるべきだよね」


 そうして、部屋の中に何食わぬ顔で入ったのだった。


 私は気になって部屋を出た。


 階段を降り、様子を伺いながら音を立てぬように兄の部屋へと近づく。


「あ……」


「………」


 しかし、角を曲がったところで出くわしてしまった。


 舞香は虚ろな目をしながらも、真っ直ぐに七香を見ていた。


「……七香もお兄ちゃんの部屋に行こうとしてるの?」


「え? う、ううん。 ちょっと喉が渇いたからお茶を飲みに」


「そう。 だったらいいんだけど、私にはお兄ちゃんを狙っているように見えたから」


「そうかな? そんな風に見える?」


 いつもより舞香の声は低く、そのためになぜか少し寒気のようなものを感じた。


 それでいて、『お兄ちゃん』という部分に違和感があった。普段、舞香は兄をそんな呼び方しないからだ。


「ええ、見えるわ。 だって、私たちはお兄ちゃんをめぐるライバルだもの。警戒しちゃう」


「そ、そんなことないよ?」


 舞香に私の気持ちが見透かされていることがよく分かった。隠しているつもりだったが、やはり姉妹ということなのだろう。


 けれども、口に出た言葉はそれとは反対の言葉だった。


「そう、それならいいのだけれど」


 と言い残して、堂々と兄の部屋に入っていった。


 私はしばらくその場を動くことができなかった。


 姉のあの視線がとても怖かった。


 足がすくむほどに。


 私でも、あんな姉は見たことがなかった。まるで、外見だけが同じの別の人物と話しているような感覚があった。


 そして、あの目線……暗がりなのとあいまってさらに相手を威圧させる。


 手を見れば、震えていた。


「あ、あ、あ………」


 声にならない小さな叫びが暗がりの廊下にこだました。







「…………」


「…………」


「……………?、??」


 いつも楽しくワイワイたわいのない話で盛り上がっている朝食が、今日は静かだった。


「母さん」


「いや」


 どうなっているのか、気になったが母はそれについて知らないらしい。


 舞香の方を見れば、一瞬目があったと思ったら、顔を赤くして視線を逸らされてしまった。


 おそらく、さっきの出来事がよほど恥ずかしかったのだろう。


 まさか、入る部屋を間違えるだなんて。


 舞香が黙りこくっている理由はよく分かった。


 しかし……。


 明らかに七香は落ち込んでいるような表情をしている。


 何があったのかは分からないが、良くないことであるのは間違いなさそうだ。


(声をかけておくか……)


 舞香のことで世話になったからな、と兄らしくしてみることにした。


 …………………………


 ……………


 ……


 しかし、どうやって七香を呼び出せばいいんだ?


 自室に戻ってからというもの、そのことばかりが頭をぐるぐる回っていた。


 七香だけを呼び出す口実が見つからなかった。


 いや、分かってる。普通に呼び出せばいいだけのこと、ということは。


 結局それしかないのか………。


 諦めて重い腰を上げ、いざ自分の部屋を出ようと扉びらを開けると……。


「あ、七香……」


「お兄……」


 お互いに見つめあってしまう。とっさに現れた用のある人物に対してすぐに思ったことを言うための整理をしきれなかった。


「入っても、いい?」


「ああ、いいよ」


 俺は七香を部屋に入れた。


 どうやら、七香から来てくれたようで俺にとってすれば絶好のチャンスであった。


 そうして、二人向かい合って座った。


「……………」


「んん……………」


 再びの沈黙。そこには静けさが広がってなんとも趣のある……って話が進まん!


「あのさ、七香? 」


「ねぇ、お兄」


 二人のセリフはほぼ同時に発せられた。


「なんだ?」


「お兄が先に言って」


「う、ああ、じゃあ……」


「そこは譲り合うところでしょ!」


 七香から盛大なツッコミを食らう。いつもなら、わざとやっていることなのだが、今回は素でやってしまった。


「悪い、じゃあ、七香からでいいよ」


「やっぱりお兄ちゃんからでいい」


「今度こそいいんだな?」


「うん」


 七香の許可が取れたところで、頭を中で言いたいことを端的に二文字でまとめた。


 あとはそれを吐き出すだけ……。


「なんか、変じゃないか?七香」


 その言葉をは出せたことに対する安堵が真っ先に込み上げた。


「うん………自分でも分かってるの。……それは」


「じゃあ、原因が分かってるならなおすのは早いな」


 そのように答えた俺の返事に七香はゆっくりではあるが、きっぱりと首を横に振り否定した。


「原因は……うん、分かってる……。でも、解決法が分からないの……ううん、分かってる。分かってるけど、出来ないの……」


 顔を伏せてゆっくりではあるが、そう話した七香。やはり、いつものような活気溢れる本来の七香ではない。


「取り敢えず、話してくれ……」


 その俺の言葉に力なく、頷いた。


「朝、お姉ちゃんと会ったの」


「いや、同じ部屋なんだから会うのは当然だろ」


「ううん、廊下で会ったの。 お姉ちゃんの目はまるで催眠術にでもかかったかのように虚ろだった。お兄も見なかった?」


 七香は本当にゆっくりと回想していった。


 今朝のことを思い出す。


「ああ、なんか、幼児退行していて俺に気兼ねなくベタベタしていたし、でも、すぐに元に戻ったんだよな……」


「それでね、その時のお姉ちゃんはまるで狂気に駆られたように私を見ていたの。これ以上踏み込むな……みたいな」


「あの舞香がか……想像できないな……」


「私、怖くて……足がすくんじゃって……あれからお姉ちゃんをまともに見られないの……」


 ついには顔を伏せて嗚咽をし始めてしまった。


 俺は、七香の背中をさすりながらも今朝の一件とつなぎ合わせていた。


 七香の話からすると、舞香は自分から俺の部屋に来たらしい。


 ではなぜかと考えてみる……俺に会いに来るため……とかだったらいいんだけど、考えられるのは部屋を間違えたか、力尽きる前に俺の部屋に入り込んだかだろう。


「お兄はお姉ちゃんのことどう思ってるの?」


 唐突な質問をされる。


「え? ……それ、今する質問?」


 まだまだ、呼吸の乱れが治りきっていない七香ではあるが、からかっている様子でもなく、真っ直ぐに俺の方を見ていた。


 まるで、俺の言葉次第で何かが変わってしまうようじゃないか……。


 時正にとってこのような質問はどうしても裏を読んでしまう癖があった。


「うん、今、答えて……」


「え? そ、そうだなぁ……。 舞香は、俺にぶっきらぼうで…って俺がズボラだから叱ってくれてるんだろうけど、いつも怒られたばかりだから舞香のことをどうこうというよりもまずは関係を良くしたいかな。 今でこそ、色々な話をするけど、まだ本当の家族という意味で仲良くなれてないというか、壁があるって気がするんだ。だから、それを変えたいかなと思ってる」


「………」


 頑張って言葉を選んで答えたつもりだったが、七香から返事がない。


 もしかして理解できなかったか。


「あの、七香?」


「本当に? になりたいの?」


 七香が俺の方に向かって至近距離まで詰め寄ってそう答えた。


「勿論だ。 ……ええと」


 俺は軽く反った形になるものの、そのように答えた。


「そう」


 と言って、七香は詰め寄った上半身を元に戻した。


 しかし、七香の表情は晴れなかった。


「…………」


 話を整理すると、舞香の変わりように七香は恐怖を感じてしまったらしい。まるで殺人鬼と一緒の部屋にいるような感じなのだろうか。俺にはよく分からないが、今朝の舞香の変わりようは明らかに変調であると確信できる。


「怖いとは思うけど、舞香の変化に注意して見てくれ」


 今の七香には酷なことなのかもしれないが、それを解消するのにはやはり触れる、近くにいること、そして感じること。これしかないと思っている。


 それに舞香は本来そのような性格じゃないはずだ。一年足らずの付き合いの俺にだってわかるほど真面目な子だ。


 そんな子が俺の一件といい、七香の言った舞香との出来事といい、普段の舞香とはあるまじき行動、言動が多すぎる。


 人間はそう簡単に性格を変えられるものじゃない。だからこれはきっと……。


「え、でも……」


 七香は自分の腕で自分を抱えるようにした。よほど恐怖なのだろう。あんなに活発的な七香に戻すためにも舞香をなんとかしないといけない。


「大丈夫。 舞香は七香を少なくとも嫌いになんてなってない。だから怖がる必要なんてないんだ」


 俺は七香の肩に軽く添えるように手を置いてそう答え、励ました。


 それはある意味七香への脅迫になったかもしれない。俺はつくづく悪いやつだと思った。誰かのためを思ってやってることが、誰かにとっては悪なのだから……。


「わ、分かった……」


 七香は渋々ながらも頷いてくれた。そのことに心の中で安堵した。


「よし、じゃあ先ずは気分を晴らそう! バッティングセンターでも行くか!」


 と提案して、七香を連れ出すことにした。








 七香と時正が話している間、舞香は自室で頭を抱えていた。


「今日のはなんだったの?? まるで、私じゃなかったみたいだった……まるで、人格が入れ替わっちゃったみたいに……」


 自問自答する中でハッとなった。


 そして、薬の隠し場所へと行き、薬を取り出す。


 考えられるならば、これしか原因が思いつかなかった。


「ある意味、望んだ効果は出ているかもしれないけど、こんな形なんて……」


 自分でないものが兄に対して甘えたいという気持ちの強い人格が表に出てしまい、兄にアタックしてしまうということであろうと考えた。


 私にとってすれば、正直迷ってしまっている。


 このままその人格でいけば、兄に近づくことができるかもしれない……。でも、それをするのは今の私ではなく、人格が表立った


 私であって私ではないものがそれをするというのは違う気がした……。


 しかし、自分でどうにかできるものではない。


 もうこれを飲んでしまった以上、後戻りもできない。


「どうしたらいいの………」


 どうしようもないと感じた舞香は気分転換に外に出ることにした。






「あ」


「あ」


「あ………」


 玄関で兄妹が出くわしてしまった。本来ならば、それは偶然、の一言で済ますことができることであるが、今回は俺と七香が舞香に恐怖心を抱いていることで気まずいと時正は思っていた。


「どうしたのですか? 二人でお出かけですか?」


「ああ……ちょっと気分転換に七香にバッティングセンター行こうって誘ったんだ」


「………ッッ!!」


 七香は舞香と目を合わせることなく、むしろ俺の後ろに下がって視覚的に舞香から見えない位置に下がった。


「え? 七香……」


 そのことに当然疑問を持った舞香。しかし、当の本人が元凶だと言えるはずもなかった。


 さて、どうやって誤魔化そうか……。


 刹那の間に舞香が取り敢えず納得できる言い訳を言えればよい。


「ちょ、ちょっと友達と喧嘩したみたいで落ち込んじゃってるんだ」


 俺としてはバッチリな言い訳だと思った。


「へ、へぇ……」


 けれども舞香の不思議顔は晴れることはなかった。


 それを見て少なくとも俺の言葉に納得がいってないことはすぐに分かった。


「そ、それじゃあな、舞香。気をつけてな」


 それ以上、舞香を言いくるめるだけの語彙を持っていなかった俺は七香の手を引き、半ば強引に外へ出た。


 舞香は一人ぽかんとしたまま取り残されてしまった。






 カーン………カーン。 と、一定のリズムを刻みながら鳴る金属音。


 現役なのだから、これくらい出来て当然みたいな感覚で軽々と球を打つ。


 俺はその姿をネット越しに見ていた。


 その現象を女の子がやっていることもあり、周りから注目されていた。


 むしろ、伊達にやっていない素人よりも上手い。


 それを単に呆然と見つめていた。七香のこともそうであるけれども、問題はやはり舞香であろう。


 なぜならば、舞香の問題を解決してあげることで必然的に七香の悩みだって解決するからだ。


 だったら、舞香の問題を片付けた方が効率がいいと思う。


 ランダムでくる変化球にも柔軟に対応し、左右に打ち分けている。


 さっきまでの七香とは違い生き生きとした表情を見せた。野球が心底楽しいという顔をしている。


 今朝の舞香の言動といい、薬が関係していることはほぼほぼ間違いない。


 もともと、中枢に届きやすい薬であろうが、まさか人格を変化させる作用を持つなど思いもよらなかった。


 認知症促進薬とか? ははっ、まさかな……。


 認知症になると訳もわからず怒り出したりする時がある。舞香の言動はそれとは違うものであったが、大きなくくりにすれば似てくるのだろう。


 というのが、時正の推測であった。


「次はお兄の番だよ」


 いつのまにかネットから出てきていた七香がそう言ってバットを差し出してきた。


「お、おう」


 バットを受け取ってネットをくぐる。


 この際だからはっきりと言っておきたい。


 コインを入れ、ゆっくりとバッターボックスに立つ。


 俺は右投げだが、左打席に入る。


 足を肩幅以上を開き、右足のかかとを軽く上げる。


 そして、画面のピッチャーが足を上げたところで右足を上げ、タイミングを伺う。


 ボールが来た瞬間にどこにくるかを予測しそこにバットを持っていく。


 カン……。


 ボールは前に飛ばず、後方へと飛んだ。


 そう、俺は野球が好き、なのであって得意ではないのだ。


 カン……カン……カン……と、凡打の山ばかりでそれ以外は全て空振りした。


 特にバッティングが致命的に不得手でヒットを打つことすら珍しいくらいだ。


 最後の球を空振りして、ネットをくぐる。


「あー、やっぱダメだわ……」


「お兄は感覚が良くないんだよ。 頭ではわかってるんでしょう。私に教えれるくらいなんだから。でも、自分では打てない……私には不思議でたまらないね」


「はは……俺にもよく分からないよ……」


 と言って、再びバットを七香に渡した。


 七香の言う通り、色々な媒体から野球の極意を学んで頭ではわかる。つまり、理論では実践できる。


 しかし、いざ実際となるとほぼ出来ない。


 七香は逆だということはお分かりだろう。


 七香が打席に立つと再び七香へ注ぐ視線が増えた。


 俺もその一人であるが、今はそれを見つつも舞香ほかのことで頭がいっぱいだった。







 夕日が見えだした頃に帰路につく。その頃には舞香のことなど頭にはなく、気持ちよく打てたことによる高揚感を引き延ばしていた。


 俺はただひたすら聞き手に回った。


 実際に舞香のことについて忘れて欲しかったから結果オーライだ。





「あっ、七香……兄さんお帰り」


「あっ」


「た、ただいまー」


 しかし、家に帰った途端やはり戻ってしまった。一度植えつけられた恐怖心はそう簡単には帰るとは思ってなかった。


 俺たちを出迎えた舞香はエプロンをつけていた。


「料理……してたの?」


「はい、はっ!、えっと……そうなの色々試してみたい料理とかあって……」


「へー、そうなんだどんなのを作ったの?」


「えーとね……」


 この舞香を見ていると今朝までのことといい七香の話がまるで嘘のように感じた。


 舞香は舞香らしく振舞っていてとても時正としては落ち着く。


「ごめん、ちょっと散歩……してくるよ」


「七香!」


 七香は散歩、と言いながらドアを一目散に開け、出て行った。


 舞香の顔を一切見なかった。


 その七香の一つの行動で場の空気が沈んだ……。


「七香……」


 その声もこの空気と中和するように霧散していった。






「はぁ………はぁ………はぁ………」


 とにかく逃げたかった。


 この気持ちから解放されたかった。


 怖かった。


 気がつけば近くの公園にまで来ていた。


 姉の顔を一度も見れなかった。姉の声が聞こえてくるだけでもあのシーンが鮮明に頭の中でよぎってしまう。


 七香は下を向いたまま、ベンチに腰掛けた。


 息を切らした呼吸を整えながらも頭の中でぐるぐると考えが巡る。


 こんなことをしても無駄なんて分かってる。こんなことじゃ、お兄にも嫌われてしまいかねないのも分かってる。色々、してくれてるから変わらなきゃって思う。


 けど、頭ではわかってるけど……けど、出来ないの。怖いの。あの姉の顔がリフレインしてしまって。


 今すぐにでも殺されちゃうんじゃないかって。そんな気がしちゃうの。


「お困りですか? 」


 ふと、ベンチに座っていた私に影が作られてその上から声がした。


 私はゆっくりと顔を上げた。


 その顔からして男だと分かる。なぜ、こんな私に声をかけようなどと思ったのかは知らない。


「えっと……」


「何も言わなくていいです。私はあなたのお兄さんの上司で、万条恭介です。色々なお話はお兄さんから聞いております」


 私が何を言おうか迷っていると的確に彼……万条という方はそう言った。


「それでいて私はあなたに手を差し伸べるもの……しかし、それはある種の賭けでもありますから最終的に選ぶのはあなたです」


 そう言って私の手に何かを握らせ、私に背を向けた。


 手を開くと、楕円形の形をした薬があった。


「これは?」


「それを飲むのはあなた次第です。あなたが変わりたいと望むのならばそれを飲みなさい」


「………お姉ちゃんはこれで変わっちゃったの?」


 両手で薬を握り、顔を下に向けたままそう尋ねた。


「あれは彼女が望んで変わった結果です。私は強要はしていませんよ。ただ、機会を与えたのです。それを取るのか取らないのかはあなた次第です」


 そう言って恭介という男は闇に消えていった。














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