第5話
「検査の結果、特に異常は見られませんでした……」
この日、舞香が精密検査を受けた。結果は特に異常はないという一番良い結果だった。
それを聞いた瞬間、俺は肩の荷が降りたかのように深いため息をついた。もちろん安堵、のだ。
検査の内容は多岐にわたった。
レントゲンにMRI,CTなどなど……血液検査の結果だけが後日ということになったが、取り敢えず安心できそうだった。
舞香が検査している間に俺は舞香とは別行動していた。
「え? 検体データを渡してほしい?」
俺は担当した医師に名刺を渡してそのように申し出ていた。
「ええ、もちろんあなた方の検査結果を信用してない訳ではありません。ただ、舞香の血液が欲しいんです……」
担当医師の向かって頭を下げる。
俺の魂胆は舞香にとっては裏切り行為になってしまうことであるが、血液からあの薬を単離して調べることだった。
「いくらあの研究所の君でも被験者の同意がなければこれはあげられないよ」
「そこをなんとか! ほんの一ミリだけでもいいんです!」
俺は懸命に頭を下げた。
正直、一ミリでもないだけマシな量だった。
(今は少しでもあるだけありがたい!)
「し、しかし……同意があれば文句なく君なら安心して渡せるのだが……」
「大丈夫です。 妹も僕を信用してくれていますから。絶対に了承してくれるはずです!」
わざと力強く答えた。やはり嘘はつくものではないと胸の痛みを堪えながらの答えだった。
(こんなものには慣れたくないな……)
心底、そのように思った。罪悪感だけが募るばかりだ。
「そ、そこまで言うのなら仕方ない……しかし、こんなことが世に知られでもすれば我々が非難を浴びるんだ。たとえ妹さんの
「はい! ありがとうございます!」
と、俺はヘパリン入りの舞香の血液を手に入れた。
試験管の中の血液が液体なことに疑問を持ったことはないだろうか?
普通に出血して皮膚から血が出た場合、血はしばらくすれば固まる筈である。
ヘパリンが入っているのは血液を凝固させないためだ。献血でも、血液検査のための血もとった血液が液体状のままなのはヘパリンが入っているお陰なのだ。それは固まってしまっては検査や輸血のしようがなくなるからに他ならない。
やはり、むこうでも検査するので全量とはいかず、三分の一を貰い受けた。
それでも一ミリよりはマシだ。量が多ければ多いほど舞香が飲んだ薬が見つかる可能性が単純に多くなる。そうなれば、舞香の飲んだ薬の作用が解明できるかもしれない。
検査結果を聞いた舞香も軽く安心したようだ。ホッとした表情を浮かべている。
「血液検査の内容は後日報告する事になります。もう少しお待ち下さい。では、以上で検査は終了です。お疲れ様でした」
「「ありがとうございました」」
俺と舞香は医師に礼を言って病院を後にした。
実はもう一つ嘘をついている。
医師には舞香の髪の事は話していない。単純に検査を受けた。そのことを伝えれば大騒ぎになってしまうと考えた。
と同時に俺は一つの懸念があった。
その事実を知れば舞香を珍しがる研究者は当然増える。平たくいえば「こいつは興味深い!?」(白髭ジジイっぽい口調で)と言って群がってくると思った。
そうなれば、マスコミも黙ってはいない。
舞香も俺も家族も周囲、もとい世界中からスポットライトを浴びせられるのは本意ではなかった。
故にその医師にはその事実を伝えなかった。だが、それでは血液検査の際にたとえその薬の成分を検出しても不純物として処理してしまう可能性が容易に想像できた。
したがって血液を拝借した。
「舞香、これで安心だな……俺も安心したよ……」
やはり胸が少しちくりと痛んだ。俺自身、嘘の言葉を平気で吐ける人間ではなかった。
「うん、私も検査の時は少し怖かったの……もし異常が見つかったらどうしよう、とか考えちゃって……」
「そっか……」
今は舞香にバレないかという想像でハラハラしていた。舞香に表情でバレないように努めて平静を装うが、恐らく……いや、相手がまといだったら絶対にすぐバレるだろう。
それだけは救いだったと思う。もしこの隣にまといがいたらすぐに見破られてしまったことだろう。
その後はお互い、検査のことには触れず(時正が意図的に誘導した)帰路に着いた。
「ただいまー」
「あっ、おかえり。……それで、どうだったの?」
珍しく、母親が玄関に来て開口一番にそう聞いた。
やはり、心配だったのだろう。親であれば子供を心配するのは当然なのだろうと改めて感じた。
「ううん、特に異常はなかったよ」
舞香は首を横に振ってそう答えた。
「そう、それを聞いて安心したわ」
母親が優しい笑みを浮かべた。まさに安堵の笑み、という感じであった。
「レントゲンの時ね……」
舞香と母親が詳細な検査の出来事を話し合っているのをよそに、俺は自室に戻った。
カバンから慎重に血液の入った試験管を取り出して、机の上に置いた。無論、ここでは何も調べようがない。しかし、見つかると厄介なので引き出しの中に隠した。
十中八九、バレることなどない。あくまでも念のためだった。実際、ノック無しでこの部屋に入るのは母親くらいなものでそれ以外のメンツには入られたことよりもだいたいノックされたことさえない。
試験管には不純物が出来るだけ入らないように、蓋をしてある。埃一つでもない方がいい。
俺は見つからないようにと祈りを込めて引き出しを閉めた。
部屋を出る。
「親父……」
扉の前の廊下で父親が壁にもたれて立っていた。玄関の方からは、まだ楽しそうに母親と話している舞香の声が聞こえていた。
「結果は……どうだったんだ?」
俺の方には目を合わせず、そう尋ねた。
「面と向かって聞けばいいじゃねぇか……。はぁー。……異常はなかった。これでいいか?」
「………そうか……」
少し俺の反論に気まずそうにしながらも、親としてのプライドなのか、俺の答えを聞くとそれだけ言って去っていった。
やはり親……なのだろう。一応、心配している……ということなのだろう。
しかし、そうだと感じながらも無愛想な父親の態度に首を傾げざるおえなかった。
「やあっ!」
カーンと甲高い音ともに白いボールが飛んでいった。
「ちょっと七香ー! そっちに打球いってるー!」
レフトを守っていた七香にショートの子から声がかけられた。
「え………?」
七香にはショートの子が何か言いたそうにしていたのだけしか分からなかった。
だが、必死に何か伝えたそうにしているのだけは分かった。
(上?)
七香はショートの子の大袈裟なジェスチャーを読み取った。
七香はそのようにしてみる。
「うわっ!?」
目の前に白球が来ていて咄嗟にグローブを差し出した。
そのおかげもあってか、球が体に当たることなく、弾くことができた。
すぐに拾ってショートの子に投げ返した。
バッターの子もごめんと読み取れるジェスチャーをしていた。恐らく、太陽とボールが被って見失ってしまったように周りは思ったのだろう。
咄嗟に手を振ってこちらは頭を下げた。
七香は野球をやっていた。この中学には女子野球部が存在する。
七香のポジションは外野か投手。変化球は覚えていなく(肩を壊すと言われて覚えていないだけで本当は覚えたい)、単純に女子にしては肩がいいという理由から必然的になったという感じだった。
その証拠に外野の通常のシフトからノーバンでキャッチャーにボールを届けることができる。もう既に女子という枠を軽々と超える女の子だった。
休憩に入る。
先ほどのショートの子が近くにきた。
「今日はさっきみたいなのばっかだね」
「ご、ごめん……気をつける」
この子はキャプテンの
それだけに一プレー一プレーが華があるように見える。それも男子に一目おかれる理由らしい。
「何かあるの? 相談に乗るよ」
「いや、大したことじゃ。 ほんと、何でもないから……次からは真剣にやるから」
ぼうっとしてプレーに集中してないことを指摘されたと思った。やんわりとではあるけれども私を叱ってくれているのだと思ったからこそこれではダメだと心を入れ替える。
「そういうこともそうだけど、七香ちゃん、顔に出やすいの。このままだとまた同じこと、繰り返すよ」
私の性格を的確につかれる。やはり、三年間一緒にやってきたチームメイトだけあって私の性格を把握されていた。
「大丈夫! 切り替えるから!」
そう言い切ってバットを持って逃げるようにしてネクストに入った。
「ほら、やっぱり……アームガード忘れてるじゃない……」
光希はやれやれといった感じで立ち上がって、ネクストに向かう。
そして、アームガードを七香に手渡す。
「あれ? おおう、ありがとう」
今更、気づいた。よく見るとアームガードをしていなかった。
「ほら、顔に現れるでしょ。何があったかは別に言わなくていいけど、バーターボックスに立ったら忘れて」
「………うん!」
光希に肩を軽く叩かれた。
前の子が三振で倒れ、七香に打順が回ってきた。よりにもよって最終回のツーアウト二三塁の場面だ。もしここで七香がホームランを打とうものならサヨナラとなる。
気になっているのはもちろん姉の舞香のことだった。今頃、精密検査を受けていることだろう。その結果が気になって仕方がなかった。
(気にしても仕方ない! 集中!)
結果は戻らなければ分からないと無理やりにかぶりを振ってでも頭を目の前の出来事に戻した。
バーターボックスに足を踏み入れる。右打席に入る。出来るだけ、ボックスの線ギリギリまで後ろに下がる。無論、ギリギリまでボールを見極めるためだった。
バットを立てて構える。基本的に七香のフォームはプロのホームランバッターのフォームを真似て構えている。右脇を締めてその時から軸回転できるような構えだ。これによってインコースの際どい球にでも対応できるようになった。
ピッチャーが構えて投げそうになるところを見計らって左足をあげる。タイミングを計る理由もあるが、より遠くに飛ばすための助走でもある。
ボールがピッチャーの手から離れてこっちに向かってくる。その白球をただ見つめ、打つ瞬間に備える。
「………ふんっ!」
自分の打ちたいタイミングで勢いよく左足を地面につけバットを思い切り振った。
甲高い音が鳴り響き、手には確かな感触があった。
跳ね返された白球は大空を舞った。
部活が終わると一目散に着替えて走って家路についた。そして扉を勢いよく開けはなち、二階へと駆け上がった。
「お姉ちゃん! どうだった? 大丈夫だった!?」
「七香、びっくりさせないで……いきなり扉を開けて……」
「そんなのいいから! 私、心配で……」
七香は舞香の肩を掴み、激しい剣幕のような勢いで部屋に入ってきた。
舞香はそんな七香に驚いたものの、今は頭を撫でている。
「検査は問題なかったよ。……ごめんね。心配させて……」
舞香は笑みを七香に向けそう答えた。その表情からも七香は舞香の言葉が嘘でないことははっきりと分かった。
「そうなんだ……よかった……」
そうして舞香は七香とも検査の出来事を話した。七香の曇った顔はもうどこにもなく舞香の話を愉快に聞いていた。
「七香こそ、どうだったの? 今日は確か試合だったんでしょう?」
「うん……負けちゃった……私も足、引っ張っちゃってさ……まだまだ練習が足りないよね。芯で打てたと思ったらあと少し足りなくてセンターフライでさ……もっとパワーがあれば入ったと思うだけどね。ホントあと少しだったんだよ」
「………それって、わたしのせい? ご、ごめんね……」
「いやいや、お姉ちゃんのせいじゃないよ。悪いのはそのことを引きずったわたしなんだから……」
「それでも、わたしのことがなければ七香は思い切り試合ができたのに……」
七香の学校は年によってブレはあるけれども結構な野球の強豪校で、試合で負けることは滅多になかった。
舞香もそれは元そこの生徒だから知っていた。だからこそ、その事実を重く受け止めていた。
それに舞香は七香が主軸を担っていることも知っている。七香は女子の中ではかなり飛ばせる能力があり、プロへの呼び声も高いんじゃないかと聞いていた。
「本当に……何でもないから。今日は練習試合だったし、負けていろいろとまだまだなんだなって学べたよ」
「ごめん……」
舞香はただただ謝った。自分に非があるのだと思い続けている。
「もう、しんみりしちゃダメダメ! わたしはこの感触を忘れないようにお兄とキャッチボールしてくる!」
七香は舞香から逃げるようにして部屋を出る。あんな顔の舞香を見ていられなかった。
勢いよく飛び出した七香は兄を探した。さっきの言葉は嘘ではなく、兄とは一緒の家になってからよくキャッチボールに付き合ってもらっていた。
兄自身、野球が好きらしくキャッチボールの相手が見つかって嬉しがっていた。
わたしも男の子の速い球を取れるから兄とのキャッチボールはいい練習相手でもあった。
リビングにいたのでその提案を申し出ると、
「ああ、最近言ってこないからウズウズしてたんだ」
と、二つ返事で了承を経て今近くの公園にいた。
俺と七香は近くの公園に来ていた。二人距離を開けて向き合っていた。
「最初は軽くなー」
「ええー! 思い切り来てもいいんだよ!」
「俺はまだ、肩があったまってないの!」
山なりのスローボールを七香に投げる。七香の実力を知っている俺はもう女の子だからと手加減することはない。
むしろ、あっちは現役だからこそ、俺よりも上手いと思っている。
(研究ばかりじゃ、身体が鈍るからな……こういうのも、たまには……いい……かな!)
先ほどよりも強い球を投げる。そのボールは、ストライクとはいかないけれども、七香の方へといった。
七香がボールを取る。グローブのど真ん中にボールが入る音がした。かなり、大きな音だ。そうとう痛いかもしれない。
「い、痛いね……やっぱ男の子の球は速いや!」
負けじと、投げ返される。
「痛っ!?」
女性らしからぬ速い球がグローブに入り、甲高い音を立てた。
思わず、顔をしかめた。
「やったなー。よし、これをくらえー!」
俺はワインドアップする。つまり、ピッチャーが投げるようにグローブを振りかぶった。
「よっしゃー! こいこい!!」
七香は速い球が取れるのかと、ワクワクしている様子だ。自ら、しゃがんでここだとグローブを的のようにかまえた。
俺は軸足である右足を横に向け、左足をゆっくりと上げる。俺はここで腰の回転を加えるためにあげた左足を右側にひねった。
左足を前に持っていく、ここは勢いよく流れに乗るために早く持っていく。けれども、左足はギリギリまで七香の方を向かせず我慢する。これは、ピッチャーが縦回転して投げるのに必要なことだ。そうすることで、より速い球を投げられる。
(いまだ!)
「はっ!」
最後は指先に集中し、ボールを放つ瞬間に指先に力をめいいっぱいかけた。
縦回転の強い球はすぐさま、七香のグローブへと吸い込まれていく。今度は、ど真ん中のストライクであった。
「ストライクククク!!」
七香もストライクだと言ってくれた。
「よっしゃー!」
まるで、優勝したかのようなガッツポーズを見せた。七香も笑っていた。
「いいなー、わたしもそんな球が投げてみたいよ……」
「じゃあ、俺よりももっとトレーニングしないとな! あっ、だからって変化球に逃げるなよ! 真っ直ぐがあってこその変化球なんだからな!」
そう、変化球禁止令を出した張本人はまさしく時正だった。しかし、それには、成長過程でまだ身体が出来上がっていないからというちゃんとした理由があるからこそ反抗できなかった。
「分かってるよ!」
と、反撃するようにボールを投げ返してきた。
「ぐわっ!や、やったな! おりゃあ!」
「負けない!」
こうしてキャッチボールと言う名の勝負になってしまっていた。
そして、はじめにバテたのはもちろん俺だった。
「ちょ……もう……きつい……」
小一時間くらいだろうか、お互いに全力で投げ合った結果、スタミナ勝負となり、普段からトレーニングなど微塵もしていない時正が先に根をあげた。
「えー、次、ノックだよー」
「ま、マジかよ……」
夕日を照らす二人の表情ははっきりと対照的だった。
バットを渡されて、さらに一時間バットを振ることとなった。
「じ、地獄だーー!!」
私はなんてことしてしまったんだろう……。
机の上で舞香は頭を抱えた。事の発端は、私のせいにあると思っていた。
七香は自分の非であると言っていたが、そもそも私の髪が変わらなければそんなことにはならなかった。
「こんなことなら、薬を飲まなければ……」
と言ってしまい慌てて口を塞ぐ。その言葉は自分に対してもまた、他の誰かに対しても決して言ってはいけないセリフだったからだ。
(後悔は……ダメ……。 私が決めたんだから。私が望んじゃったんだから……)
舞香の飲んだ薬は市販では絶対に販売していない。恭介に貰ったいわゆる試験段階の薬だった。
その薬は恭介が言うには、舞香の望みを叶えるにこの上ない効果をもたらす作用があると言っていた。
そう、血縁という壁を取っ払ってくれるという私の望みを叶えてくれる……と。
しかし、その効果がもうすでに出ているのか、もしくはその期待する効果とは異なる作用が出ているのかさえよく分からなかった。
なぜなら、髪の毛の色以外変わっていないからだ。
ひょっとしたら全く効果がないということも考えられることではあった。しかし、舞香にしてみればそれはとても考えたくないことであった。
「ううん、ダメ。 もう、後戻りなんてできないんだから……途中でやめちゃったら前の私の勇気が台無しになっちゃう」
七香の好意にはとても申し訳ないが、舞香は自分に叱咤をかけ、部屋を出た。
俺は実験室に舞香の血液を持ち込んでいた。
取り敢えず、血液ということでもう既に分かっている血液成分を分離して捨てていき、残りのものを同定するという作業に入った。
もちろんこれは恭介にも手伝って貰って同定の作業に入った。
血液成分を除いた中にも、血液の中に入っていてもおかしくない物質も出て来ていた。それを順に除外していく。
「ん? これか?」
検査をする中で二つだけ、この物質だと帰属できないものが出てきた。
「確かに、これは見たことないな……」
恭介も見たことないものらしい。あの恭介が言うのであれば、これでほぼほぼ間違い無いのだろう。
「では、これの構造を決定してきます」
「うん、頑張ってくれ」
恭介の激励もあり、スムーズに作業を進めることができた。
けれども……。
「うーん。 これは構造的にあり得ないだろ……」
出てきたグラフから構造を決定した俺は腕を組んで首をひねった。
もちろん俺が出した答えが間違っている可能性は否定できなかった。だから、恭介に見てもらうことにした。
「いや、グラフから正直に読み取れば、確かにこれで間違いはないよ。でも……これだとね……」
「これは物質の性質上あまりにも不安定すぎて存在し得ません。こんなのが検出できたこと自体がかなりの幸運だったと思います」
「そうだね……。 もう一度やってみたら?」
恭介は腕を組んでそう答えた。
俺の問いに対して恭介も同じ答えを出した。そして、恭介が出した提案も俺が考えていることと同じものであった。
「やっぱり、それしかないですかね?」
「どうしてだい? 」
そう恭介は聞き返した。
恭介の質問はどうして、時正はもう一度施行するのを躊躇うの? という意味だと俺は解釈した。
もちろん、渋るのには理由があった。
正直、俺はこの結果に満足している。
なぜなら、こんな物質は存在し得ないんだ。つまり、舞香の中にはなにもやましいものなんて存在しなかったという結論に行き着くんだ。
ということは、舞香は至って健康体だと言えてしまう。
じゃあ、これでいいのでは? と、俺は思ってしまった……。
「いえ、これでいいと思います」
「……そうか」
俺の出した答えの裏の考えまで読んでいたかのように恭介はただ、そうとだけ答えた。いや、おそらく読まれているのだろう。
それを踏まえて、俺の出した答えを尊重してくれた。なんだか、それが嬉しかった。
「じゃあ、通常業務に戻ろう。 今日は何がある?」
恭介が手を叩いて場の空気を変えた。
「はい、今日は……」
そう言った恭介の言葉に俺は頭を切り替えた。
そうして通常業務に戻ること小一時間……。俺はマウスと格闘していた。
「こーら、大人しくしろ」
俺はマウスを首の後ろから背中かけて指の腹全てを使って摘まみ上げる。それがマウスが最も抵抗出来ない掴み方だった。
ちょっと、残酷だけどな……。
今回の実験は、学生実習の為の仕込み段階の手伝いだった。
学生実習は学生が実際にやってみてそのマウスの行動を観察してもらうという実験だが、全てやらせるわけにはいかないので少し、手伝う前準備をしていた。
といってもやる事はほぼほぼ生徒にやらせるので俺の業務はマウスの健康状態の管理だけだった。
一匹、一匹と
ふと、作業が終わってマウスを元の位置へと戻し終えた時にふと思ってしまった。いや、さっきからずっと考えていたことではあった。
頭の中で繰り返すようにもう一人のボク的な声で「それでいいのか?」と繰り返し聞こえてくる。その度に工程を思い出して何もミスがないからこれでいいとその悪魔の問いに対して大丈夫だと言ってきた。
しかし、その時に自分の中で寒気こそないのに身震いした。それほどまでの戸惑いが俺の中で起きてしまった。
それでは、舞香の髪の毛の色が変わった理由を説明できない……と。
「っ!?」
俺はさっさとマウスを片付け、自分の研究台へと戻った。
そこにある、未知の物質二つの検出データをもう一度見直す。
「確かに、不可能なんだ。 だけど……」
理論上は不可能という定説がほぼ当たり前という名の常識だからそれはあり得ないと消していた。
単なる、機械のミスだろう……と。
「だが、研究者というのは……そのあり得ないを可能にするのが仕事なんだ!」
すぐさま、俺はパソコンを手に取り、文献を漁った。
それに加えて、類似するような化合物を検索サイトにかけて調べた。専門家しかわからないアルファベットと数字を合わせたものを入力していき、検索ボタンをクリックした。
しばらく検索中といった文字が出て来たが、すぐに様々な類似の化合物が所狭しと並んだ。
類似といったのは御察しの通りである。
その中でも、一番近そうなものがあった。
「意外と見つかるもんなんだな……」
それは、窒素が抜けてはいたけれどもほぼ同じ構造をしていた。
ほぼ、といったのは組成は同じだけれど、配置が違うのだ。ここは、文字だけではうまく説明出来ない。
俺は画面をスクロールしていく、今、欲しいのは構造もそうだけれど、それよりもそれを人に投与してどうなるかということだった。
ただ、これは………。
「人に投与したという文献はないな……」
どうやら、理論的に組み上げたものらしくて実際に作ってしたわけではなさそうだった。
ただ、その際には何かの作用を期待して組み上げたものであることがしばしばというよりもほとんどがそうだ。
「だったら……」
俺はこの化合物に絞ってさらに情報を集めていった。
……………………………
…………
……
「ふぅ……」
俺が椅子にもたれかかる。
「もう日が落ちかけてるな……」
茜色の空を見て、一人呟く。
結局、舞香の髪の毛の色が変わる原因物質とは確実には言い難かった。
今は、ほぼ十中八九こいつが犯人だと分かっているのに証拠がつかめない…という気分だった。
「やっぱり、俺は研究者に向いてないのかな……」
パソコンの画面には、この物質の期待する作用が書かれていた。どうやら、それは脳に抑制性にする為の薬を目指して作ったものだったらしい。いわゆる睡眠薬とか、精神を落ち着かせる為の薬を目指したらしい。
ただ、臨床実験などやった記録がないのでつくる段階で頓挫したのだろう。実際、俺も恭介も見ていないのだからそこまでの成果は無かったのだと推測できる。おそらく、動物実験の時点でダメだったのだろう。
ほぼ無意識に頭を掻く。
これ以上悩んでも仕方ないと立ち上がり、白衣を脱いで帰る支度をした。
「ほほぅ。 それに目をつけたのか……悪く無い」
時正が自室としてあてがわれている助手室を出た後で、恭介がその部屋に入った。
もちろん、鍵がかかっていた。部外者にはもちろん入って欲しくないし、警備の人にさえも入って欲しくはない。
しかし、恭介はほぼマスターの鍵を持っている。
先ほどから鍵と言っているが、実際にはこの学校にいるというICカードのようなものの中に鍵を開けるシステムが組み込まれており、それを部屋のドアの壁にある読み取り機に当てることで扉が開くというシステムである。
中に入り、恭介は時正が調べたであろう資料を見ていた。
「悪くないアプローチだった。 でも、それでは到底真実にたどり着くことはできない……。さらなるアプローチを期待しているよ」
資料を元の場所に戻し、その部屋を後にした。
「僕は君に成長してもらいたいんだ。人間としても、研究者としてもね。そして僕に人間の素晴らしさを教えて欲しい……私をも超える想像力でね」
最後にそう言い残して……。
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