第4話

 あれから二日たった……。


 もちろん、舞香の髪色が変わってしまったことには家族全員驚いた。


 おそらく、学校の友達にもさぞかし驚かれたことだろう。


 しかし、当の舞香は平然として学校に行っている様子であった。


 無論、裏の事務的作業は全てやった。学校への説明、かつ配慮などだ。そんなものはすんなり通った。別に髪を染めているわけではないのだから当然のことだった。


「妹さんの髪色はいまだ戻らないか…」


 俺は大事をとって恭介に相談していた。こんな事態で頼れるようなその辺に詳しくて親しい人間が他にいなかったとも言える。


「ええ、俺もどうしてこうなったかは舞香の持っている錠剤にあると思うのですが……」


「確かに……疑うべき部分はそこしかないな……こそっと調べれば? 持ち出して……」


 錠剤が怪しいのであれば調べれば白黒はっきりとつくだろう。


「でも、舞香が頑なに渡さなくて……それに本人がいいと言っているのでね……」


 今のところ二日ではあるけれども髪色がピンク色になったこと以外は特に舞香に変化は見られない。


 しかし、別に精密検査をしたわけではないのだからもしかしたら臓器が変性していたりとか見えない部分で何かゆっくりと異常をきたしているかもしれない。


「取り敢えず、精密検査だけしてみれば? 妹さん自身に何か異常がなければいいでしょ?」


 恭介はちょうど的を射た提案をしてくれた。


 俺はさっそく、舞香と父母を囲んで提案した。


 しかし、舞香がすぐに行くことに拒絶を見せた。


「まだ、学校があるもの……行けない」


「でも、それが命取りになるかもしれない。もしかしたら舞香の中で異常が起きてるかもしれない。それまでに見つけられれば舞香を早い段階で助け出せる、だから」


「舞香。 したいようにしなさい」


 俺の言葉を遮って親父が口を挟んだ。しかもその口から発せられた音は俺の予想を百八十度異なるものだった。


「私は初めからそうよ」


 母親もそれに賛成した。


 これによって多数決でも舞香のしたいようにするという方針になってしまった。しかし、たとえそうでなくても親父が賛成した時点で俺の敗北は決まっていた。それほどに親の一票というのはデカイのだ。


「でもな親父。万一ってのがあるんだ。そうなったらマズイだろ」


 俺が親父を説得しにかかる。


「………」


 親父は唸ったまま答えない。その表情から今何を考えているのか伺い知ることは出来ない。


 もともと無口な人なだけに余計分からなかった。


「なぁ、親父……」


 催促するように親父の名前を呼ぶと舞香に腕を掴まれた。


「私はいいの……」


「でも舞香!」


 腕を掴まれている手前余計な抵抗は出来なかった。無論、やろうと思えばできることであったが、そんな気持ちは微塵も浮かばなかった。


「いいの、私が望んだことだから……」


「………」


 俺は何も言えず、ただ立ち尽くした。


 今思えば、この時の舞香の言葉をもっと深く考えておけばよかったと後悔した。





 私は舞香の動きに注視していた。それは時正に頼まれたからというのもあったけど、それ以上に舞香が心配だったから、ということが大きなウェイトを占めていた。


 今思えば、やってよかったと思うのとやらなければよかったのと半々だと思う。


 まず舞香はあれ以降、薬を飲むことはなかった。


『いいか、あの薬に原因があることはほぼほぼあたりだと思う。だからこそ、今後舞香にはあの薬を飲ませないようにして欲しい……』


 という時正の助言通り、薬を飲む行為を見たら問答無用で止めに入るつもりだった。


 ベッドで漫画を読む振りをしながらも常に舞香を見る。


 改めて見ると本当にピンクの髪の毛以外には特に変化がない。結構一緒にいることが長いのだから間違いないと思う。


 でも、時正は見えないところに変化があるんじゃないかと言っていた。私でも胃の中とか臓器の変化はさすがに分からない。


 ある日のこと……。


 私は部活を休んで、舞香の学校へと向かう。


(いた……!)


 影から舞香を観察することが放課後のやるべきことになっていた。


 姉は真面目なので、友達とかと一緒に帰ることはあっても寄り道などはしない。というよりもそんな友達を作らないといった方がいいかもしれない。


 姉を見失わないように、けれども見つからないように上手く尾行する。


 周囲にももちろん疑いの目を向けられないようにあくまでも一般市民を装う。


 制服ではあるが、ここ一帯では別にここにいても大して珍しくない制服なので特に気にされることはない。


 不審なそぶりを見せなければ早々、尾行しているとは気づかれない状況下にあった。


 私はストーカー同然で舞香をつけた。


 ストーカーも彼女が心配だったとか、そういう意味不明な理由でつきまとう輩もいると聞く。


 まさに今私はそんな状況下にあるんだなとすこし笑えてしまった。


「っ!?」


 その瞬間、すぐさま建物の陰に隠れる。無論、舞香から身をひそめるためだ。


 舞香がふと後ろを振り返った。


 周辺をぐるぐると見渡し、首を傾げながらも再び前に進んだ。


 安堵のため息を漏らす。


 バレるかとヒヤヒヤした。これもまさにストーカーだなと思って苦笑いが浮かんだ。


 そして、特に変化もなく舞香が家に入るところを見送る。この後は情報を共有するためにファミレスで兄と会うことになっていた。


 それは、不自然にすぐ家に戻るのも不審がられるというのもあった。かといって、フラフラするのも逆に七香が危険だ(お兄がいって聞かなかった)ということでそういうことになったのだ。


 私はお兄がもういるというファミレスに足を向けた。


 ファミレスに入ると同時にウェイトレスが来てくれるが、待ち合わせだと軽く言ってお兄がいるという席を探して向かった。






「ああ、お疲れ様」


 お兄はそう言うと、ウェイトレスを呼んで何か頼んでくれた。


「何頼むか聞いてくれなかったの?」


「ええっと……悪い」


 七香がやんわりと俺に対して文句と言う…というほどでもないがお小言を言う。


 もちろん、七香が金を払うから自分で頼ませろなんて事はない。俺はもう働いているのだから、そんな事は逆に七香をいじめているようにも見えて我慢ならなかった。


 というのはほんの建前で要は見栄を張りたかった。たったそれだけの理由だ。やはり兄としてのさがでしかないのだ。


「それでどうだった? 何か変化とかなかったか?」


「ううん、いつもの通りだったよ。ほんと優等生だった」


「生徒会の役員なんだろ、舞香はそりゃあ優等生だろ」


「そうじゃない。お姉ちゃんは優等生の中の優等生。 ただ、頭がいいとか、所作が綺麗だとか、見た目がいいとかそんな優等生と呼ばれる条件を網羅している感じ」


「そうか、そりゃあすごいな。 ……逆に背筋が伸びちゃうよ」


 舞香の学校での事はあまり話したくないものであったのでよく知らなかった。だけど、舞香の俺に対する話し方とかから真面目さはとても伝わって来た。


「うん、そう。あれはお姉ちゃんじゃない……」


 俺の話をつなぐためだけに放った感想が、七香には重く響いたのか、興味深いことを口走った。


「というと? やっぱり優等生を演じて、肩がこるとかそういうこと?」


「そう。本当のお姉ちゃんはもっと……なんていうか、普通の女の子なんだよ」


 七香の言いたい事はなんとなく想像できた。要は学校の中で自分の印象を作っているのだ。優等生ゆえの過ちといえるかもしれない。


「でも、友達もいるんだろ? その子たち相手なら普通にしてるんじゃないか?」


「そんな事ない。もちろん、初対面の人よりかは砕けてるけどそれでも百パーセントじゃない」


 七香は断言してそう答える。七香は舞香の妹だ。血の繋がりに長い間一緒にいたのだから何かお互いに通じ合うところがあるのかもしれない。


「でも、お兄には普通なの。 ありのままの自分をある意味出してる……」


 この七香の言葉には俺は同意出来なかった。舞香には最近ほどあまりきつくないけれども、やんわりと拒絶されていたように思う。


「俺は嫌われてると思うんだけど……。明らかに拒絶されてるよね。絶対無理してるはずだよ」


 だから俺は七香の言葉を否定した。


 けれども俺の否定に首を振る七香。俺は首をかしげた。


「お兄はまだお姉ちゃんのことを全然分かってない。 お姉ちゃんは……」


 言いかけたところで口をつぐむ。


 俺は先の言葉が気になってしまっていた。はやる気持ちを抑えて待つ。


「お待たせしました。当店オススメパフェです」


 横からウェイトレスが注文したものを持って来てくれた。


「わぁ」


 七香はパフェに釘付けになっていた。俺はウェイトレスに七香の前に出すようにジェスチャーした。


 七香の前にパフェが置かれた。「ごゆっくり」という一言を残してウェイトレスが去っていった。


 そんな言葉に耳を傾けられなくなるほどに七香はパフェに見入っていた。


 俺が注文したのはフルーツがふんだんに乗ったパフェだった。アイスの周りに細かくフルーツが乗せられていた。


 見るだけで食欲をそそられるある意味悪魔の食べ物といえるかもしれないほど、美味しそうであった。


「喜んでくれて嬉しいよ。さぁ、俺のおごりだから食べてくれ」


「ホントに!? 食べちゃうよ!? 」


 もう既にスプーンを持っている中で聞かれて、頬が緩んでしまう。


「ああ、むしろ食べてくれ」


「ありがとうお兄! いただきまーす!」


 この時ばかりは七香はまだあどけなさが見られる中学生なんだなと思った。


 スプーンですくって一口一口噛み締めて食べていた。


 そして、一口ごとにほっぺたが落ちるような表情を見せた。


 そんな表情を見るとこっちまであったかい気持ちになって、さらに頬が緩む。


 喜んでくれると思ってはいたけれども、ここまでとはいい意味で予想外で嬉しいというのもあった。


「喜んでくれて嬉しいよ」


 夢中すぎて聞こえていない妹に向かって小さくそう言った。




 家に帰るとまだ七香は帰っていないみたいだった。七香の靴がないのでそれくらいはすぐに分かった。


(最近部活頑張ってるね)


 帰りが遅いという事はつまりそういう事であろう。これから夏に入るのだし、力が入るのも分かった。


 自分にはスポーツの才はないので素直に七香が羨ましく思えた。


 だからこそ、私は勉強に打ち込めたというのもあるのかもしれない。姉としての威厳を持っておきたかったのだろう。


 姉妹というのはそうなのかもしれない。他の姉妹を見聞きしていたわけではないので一概にしか言えないけれども少なくとも負けたくないという思いはどこかにはあると思う。


 しかし、それもお互いに認め合って仕舞えばいがみ合ったり、衝突しあったりという事はなかった。


 だからこそ、私たち姉妹は姉妹の中でも特に仲がいい方だと思っている。


 ついこのあいだまでは………。


 母親に挨拶して二階に上がって荷物を置く。


(ちょうどいいかもね……)


 スマホを取り出して電話をかける。


「もしもし。 万条さんですか? 来夢らいむです」


 電話をかけたのは万条だった。 今日に経過報告をしておこうと思ったからだった。


 私だって副作用が出てしまうのは怖かったからに他ならなかった。


『やぁ、来夢さん。 体の調子はどうだい? 時正くんから髪の毛の色が変わったとは聞いたけど、他には何かあるかな?』


 万条の口ぶりからも舞香を心配しているように感じられた。


「いえ、髪以外は何もなかったです」


『本当にかい? 見栄を張るのは君のためにも良くないと思うよ。 無茶なお願いをした僕がいうのもなんだけど、出来るだけ君に危害が加わらないようにしたい』


「ありがとうございます。でも、今のところ本当に痛いとかそういう事は全くないので、ご心配なさらないでください」


『そうかい? それなら安心だけど、何かあったらすぐに僕に相談してくれ。必ず力になるから』


「はい、よろしくお願いします」


 と言い残し、電話を切った。


 本当に髪の色以外何事もない。自分でも不思議なくらいだ。


 こんなヘンテコな薬だ。何か副作用があってしかるべきだと思っていた。


 舞香は隠してある引き出しから薬を取り出す。万条からはこれを飲むのは一週間に一度だけでいいと言われていた。


 最初は一週間で良いのかという疑問もあったけれども一日で髪の毛の色が変わったことから、かなり効果の強いものなのだと思った。その時に恐怖感さえ感じた。


 だからこそ、一日一日、自分の確認に特に気にするようになった。


 私は両手を広げて見る。とくに変わりない。


 鏡の前に立つ。やはり変わらない。髪の毛以外は……。


 というように暇を見つけては変化が起こってないか調べた。


 軽く脱いで見ても特に異常はない。


 私はベッドに横たわった。仰向けになって考えにふける。


(副作用のことも心配だけれど、本当に欲しい作用が出ているかどうかも気になるところ……万条さんはすぐには出ないだろうとおっしゃっていたから、まだなのだと思うのだけれど……)


 不意に胸のところへと手をやる。


 あの人のことを思うと少しばかり鼓動が速くなる。私は鈍感ではないのでこれがアレだということは気づいていた。


 兄さんは覚えていなかったが、私との最初の出会いはつい一年前の事ではない。


 母親はおらず、お爺さん同然のおじさんに育てられていた時、不意におじさんに尋ねたことがあった。


「なぜ、私のお母さんはいないの?」


「お星様になったんだよ」


 薄々、死んだと思っていた頃だ。さすがにお母さんはお星様になったので誤魔化せる年齢でもなかった。


「そう、死んだのね」


「死んでない!」


 そう言って、私が会話を終わらせ、部屋に戻ろうとするとその時ばかりはおじさんは怒鳴り声をあげてそう言い放った。


 初めて聞く怒鳴り声に恐怖さえ感じた。肩がビクッと震えてしまって動けなくなった。


 怯えた私に向かって話し始めた。


 ホントは私たちの親ではないこと、本当の親のこと、そして……。


「……君のお兄さんがそっちで住んでるんだ」


「私に……兄が……」


「そう。 もう七つも上だと思う。 今は大学生くらいか」


 私は最初に聞いた時は、本当の親への驚きもあったが、同時に兄に会ってみたいという興味があった。


 だからこそ、おじさんに居場所を聞いて、会いに行った。会いに行ったといってもどんな人物なのか知りたかったからだけなので話しかけるつもりはなかった。


 私自身、その時は兄に対してもいい印象は持っていなかった。いや、子供を離れ離れにする親だからという関連から兄もその中の一員に私の頭の中で形成されていたのだと思う。


 つまり、親に少なからず恨みがある……。それに伴って兄にも同じように感じてしまったのだ。


 地図を見るとすぐそばだったので、歩いてでも行くことが出来た。


 その場所に着く。


「なんだ、普通の一軒家じゃない……」


 この時の気持ちはよく覚えている。顔も知らぬ兄に少し、憎しみというかどこかいい生活をしているんじゃないかという妬みに似たものがあった。


 私は家の陰でその人物が出てくるのを待った。出てくるに関わらず、戻ってくるのも考えた。


 しかし、声がかけられたのは全くの逆だった。


「どうしたの? 迷子?」


「ひ!?」


 いきなり後ろから声をかけられて驚いた私は前に出てしまった。


「危ない!」


 鳴り響くクラクションの音、私は気が動転してしまって動けなかった。


(死ぬ!?)


 私はその場に目を瞑ってしまった。


 真っ暗闇の視界で衝撃という痛みが来るのを身構える。


 けれども、その衝撃は待っていてもなく、私が生きているということが分かった。


「大丈夫?」


 私は彼に抱かれて元の場所に戻っていた。


 目を瞑っていたために何が起こったか分からない。自分が生きているのかも今は曖昧だ。


 取り敢えず痛みもないので「大丈夫です……」と答えた。


「そう、それは良かった……」


 彼はとても安堵の表情を見せた。別に彼が悪いのではないのだから、そこまですることなんてないと思ったのでそれだけに彼のその表情には理解が追いつかなかった。


「君、名前は?」


「え!? え、ええと……」


 不意に名前を聞かれてしどろもどろになってしまう。彼に名前を言うわけにはいかないと思って咄嗟に偽名を考えていた。


(ええと、来夢……読み方を変えて……来夢クルムとか?)


「いいよ。 大丈夫、言いたくないことは言わなくていいんだ」


 優しく頭を撫でられてそんな言葉をささやかれる。


「ふぇ?」


 素っ頓狂な声が出てしまった。


 本当なら男の人になんて触らせるわけない。いつもなら拒否反応ではたいてしまう。


「俺は来夢時正。すぐそこが家なんだ。って、ちょっと擦りむいてるじゃない…」


「え!? あっ、だ、だ、だいじょぶぶ、です!!」


 その時の私は兄の言葉に反応が遅れた。それも返しまで上手くできないほどに慌てふためいて混乱してしまっていた。


 もうこの時には兄の持っていた印象はガラスを粉々に割るようにバラバラに消え失せてしまった。


「俺のうちに行こう。救急箱があるからそれで応急処置しよう」


 さも当たり前のように時正は舞香の手を握って歩き出した。私は自分でも分かるほどに赤くなってしまっていた。


 それでもその家だけは行ってはいけない事は沸騰しきった頭でも理解していた。


 もちろん本当の両親がそこにいる……。興味がないわけでもなかったが、両親は必ず自分の顔を分かっているはずだと思ったからだ。


 だからこそ、兄の手を振りほどいた。それはもう思い切り。


「ど、どうしたの?」


 それで私の拒絶の意思を読み取ったのかもしれない…。申し訳なさそうな視線を私に向かって向けてきていた。


 さっきとは打って変わって胸が締め付けられるような感情が沸き起こる。さっきまでの兄への感情であればこの後、何かしらにこじつけて罵声を浴びせたかもしれない……。


 しかし、今はそんな事は絶対に出来なかった。そんな選択肢さえ私には持ち合わせていなかった。


 この間でも私からの答えを待ってくれている。何か悪いことでもしたかのような不安そうな顔で私を見ていた。


 心で(そうじゃないんです!)と必死に言っても口には出てこなかった。


「ご……ごめんなさい!!」


「あっ! ちょ、ちょっと!?」


 出た答えはそれだけだった。


 それだけで相手に伝わるとは到底思えないほど短く言い放って一目散に逃げた。


 その時に涙を流してしまっていたことを今でも覚えている……。


「お兄………ちゃん………」


 意識の回路が切り替わったかのように景色が変わった。


 気づけばベッドに寝て、無意味に片手を天井に伸ばしていた。


 ふと、電子時計に目をやるともう日が沈むくらいの時間になっていた。そこで寝てしまっていたことに気づいた。


 もう、何を夢で見ていたのかは分からなかった……。


 伸ばしていた手を頬につけた。


 水に触れたような感覚がして涙を流していたことに気づいた。


「なんで、涙を流していたんだろう……?」


 答えのない質問をつぶやく。当然、返事などない。


 だからといって急に精霊的なものが現れて「それはねー」とかいうものを期待しての問いではなかった。


 長くため息をつく。このモヤモヤとする感覚をリセットしたかった。


 肩に入っていた余分な力を落とし、「よし!」と自分に気合を入れ、部屋の扉を開けた。






 結局、七香と時間差で帰宅するために夜遅になってしまっていた。


 今更ながら、この作戦は無謀なのかもしれないと思い始めていたところだった。


 今週の週末にも舞香には精密検査を受けてもらうことになっている。俺はただ、早く検査をさせたかっただけなのだ。


 結局のところやるのであれば、こんなことに気にかけるのは不毛なことなのではないかと考え始めていた。


(俺って、ほんとにバカだなぁ……)


 頭をかいて反省する。七香にも迷惑をかけている。本来ならば、七香は部活真っ盛りな時期であろう。それなのに「お姉ちゃんのためだから」と無理をさせている。


(やっぱ、これは今週末でやめよう……)


 そう決めて不意に顔を上げる。


「あ……」


「こんばんわ」


 そこには宮原が立っていた。


 俺もそこで立ち止まる。何か俺に用があるのだと思った。


「どうしたんだ?」


 純粋に尋ねる。珍しいものもあるものだと思っていた。こんなことは過去を振り返って見ても小学生くらいしか思いつかない。


「なんだと思う?」


「さぁ。 皆目見当もつかない…。ただ、珍しいなと思った」


「どのぐらい珍しいと思った?」


「それはもう、かなり」


 そんな質問ばかりしてくる宮原にも絶賛珍しいと思っている……が、口には出さなかった。


「あ、こんな質問ばかりも珍しいって顔してる」


「あー、お前も変わってないな……その超能力にも似た俺だけに使える考えてること読めちゃう能力」


「時正だって私に心が読まれちゃうってことは変わってない証拠なんじゃない?」


 宮原は……いや、まといは昔から俺の頭の中を読めちゃうもう能力といっても遜色ないものを持っていた。


 それは俺だけにしか発動しない。これが幼馴染かと思った。だとすれば、俺にもまといの考えてることが読み取れなきゃいけないけれど、それは分からなかった。


 というよりも俺は女子全般考えてることがさっぱりだけど……。


「でもさ…ホッとしたよ。 時正が変わってなくてあれからもう何年も音信不通だったのに、こうやって普通に接してくれて」


 まといは壁に背をつけて、ふとそんなことを吐き出した。


「逆に俺は嬉しかったよ。 てっきり避けられてるもんだとばかり思ってたからな……」


「それがそうもいかなくなっちゃったんだよ……私も勇気を出さないと……」


 まといがぼそっと言葉を話す。しかし、声が小さすぎて俺に言ったものなのかさえ分からなかった。


「え? もう一回言って……」


「大したことないからいいよ……」


「そ、そうか……? なんか、お前イライラしてるような気がするぞ。お前らしくもない…なんだ? 愚痴なら聞くぞ」


 うつむきながら答えたまといに時正が言い放つ。


「じゃあ、もう一つだけ……時正って、妹がいたの……?」


「あ、ああ……悪い。言ってなかったな……」


 俺はバツが悪くなって頭をかいた。別に意図して言ってなかったのではなく、音信不通だったのだからほぼ他人だと思っていたからこそ、いう必要はないとどこかで考えていたからこそ、今まで伝えてなかったんだと思う。


「それで? その子たちは?」


「そう、妹だよ。正確には妹がいるなんてつい一年前に知ったんだ」


 そして俺が舞香、七香がこの家に来ることとなった経緯をまといに大まかに説明した。


「大雑把だけど、そんな感じだ」


「ふーん。 どうりで、急に女性の出入りが多くなったわけだ……」


「え? ごめん、聞き取れなかった」


 時正には聞こえないほどの声でまといが呟いた。


 時正は当然、ボソボソという声しか聞こえず、聞き返した。


「ううん、なんでもないの気にしないで」


「そっか……」


 女性がそう言ったときはむやみに突っ込まない方がいいと学んでいる。嫌な想像しかできないけれど、努めて気にしないでいた。


 時正は他人からの評価にはとてつもなく敏感であった。それはぼっちだった頃があったからこそ、人の輪から外れてはいけないという危機感が生んだものであった。


 実際、学生時代はあまり積極的には人と関わらなかったけれども来てくれるぶんにはそれ相応の行動が出来ていたと自負していた。


 だからこそ、まといの呟きは聞き逃すわけにはいかなかったが、また少しまといの中の俺の評価が下がったと思った方が自分にとって安心できると思った。


(妙な期待はしない)


 このことは研究者の癖なのかもしれないが、常に最悪のことを考えてしまうのだ。


「なんなら、会っていくか? 隣なんだから、ばったりなんてこともあるから」


 と提案すると、


「ううん、いいの別に……」


 手を出して、やんわりと拒否された。


 俺も無理に合わせることないと思ったし、妹たちの都合もあるだろうから、今度でいいと思った。


「そっか、じゃあまた会った時にでも紹介するわ」


「う、うん。その時はよろしく……」


 なぜか、まといの声がそこだけ上ずっていた。


「それじゃ」


 俺はまといにそう言って、家に戻る。


「うん、また……」


 と言ったまといの声に手を挙げて答えておいた。








 いつも通りの帰宅。


 いつも通り、母親に帰宅したことを言って、荷物を置き、風呂場へと向かう。


(今度こそ……)


 前回の反省を活かして、俺は絶対に入るなという札を新たに作っていた。


 まず、再びドアの札を確認する。


「よし、札、おーけー」


 車掌風に指差し確認した。


 続いてドアをそおっと開ける。まずは数センチほど……。


(よし、悲鳴は聞こえない)


 ゆっくりゆっくりと扉を開けていく。それはもう過剰なほど慎重に……。


 そして、身体一つ分入れるくらいになったところで中へと入る。


「何してるの? 兄さん……」


「へ?」


 後ろから声がかかり、俺はそちらへと振り向いた。


 そこにはジト目の舞香が俺を蔑んだ目で見ていた。


 俺の脳内からは『うわっ、私たちの湯の残り香をクンカクンカするつもりだったからこんなに慎重に入ってるんだわ! 下劣ね……』と舞香に言われる想像が浮かんだ。


「ちちち、違うんだ! これは、前の失敗をもう二度としないために慎重になってただけなんだ」


 俺も慌てて弁解する。


 その言葉で舞香は前の出来事を思い出してしまったようだ。顔を赤らめていた。


「そのことは忘れたの……!」


「っ!? ご、ごめん……」


 そんなことを口走っている時点で覚えていると思うのだが、逆撫でしてしまうわけにはいかないので、謝った。


「うん、じゃあ少し待っててください。手を洗いますので……」


「あ、ああ……」


 俺は舞香が通れるように道を譲る。


 舞香は洗面台の方へと向かい、手を洗った。


 その時、俺は舞香を見ながら思うことがあった。前々から言おうと思ってたが、今、その時だと思った。


「なぁ、舞香……俺たち兄妹だよな?」


「え……!? と、と、突然何を言っているんですか!? 私とに、兄さんは正真正銘兄妹ですよ……!?」


「ああ……だよな……ならさ……」


「へ?」


 俺は洗面台の方へと向かって、舞香の頭の上に優しく手を置いた。


「敬語はやめよう。もっと俺の前では肩の力を楽にしてほしい……」


「兄さん……」


 舞香が俺の方を向いた。


「俺はそんなに頼りないか? 頼りないっていうならお前たちに相応しくなるように俺、頑張るから。お前たちがここを安心しきってもらえる場所にするから!」


 俺がそう強く言うと、舞香は少し迷った様子で頭を振って、


「では、お願いがあります」


 と言った。


「ああ、俺にできることならなんでもこい!」


 胸を広げて大げさに言った。


 舞香は自分から俺の胸に顔を当てて、俺を見上げてきた。


「では、私とずっと一緒にいてくれますか?」


「ああ!」


 俺は二つ返事でその言葉を受けた。


 その時の舞香の言葉を深く考えていなかった……。

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