第2話

 朝の日差しに目が覚める。


 この季節の気候は好きじゃない。 とても寒いのだ。布団から出たくなくなる。


 毛布を肩まで被り、亀のように首から上だけ出したような状態になる。


 だが、いつまでものらりくらりとしていられるご身分ではない。俺はセレブではないのだから。


 何時いつぞやのテレビで見た知識を用いて、布団の中で少し両手足をモゾモゾして温まってから起き上がる。


 窓に近づいて風景を見渡す。


 時正の部屋がある二階からは綺麗に配置された住宅街ともう一つの窓からは隣の家の窓が見える。


 当然その隣の家の窓はモザイク状になっておりあちらから窓を開けることがない限り、中を覗くことは出来ない。無論それはこちらも同じだ。


 聞いたところによると、開発当初から外装に関してはここら一体の住宅は全て同じ形なのだそうだ。もちろん、出入りがあって今や様々な家が立ち並んでいるわけであるが、特にここ二つの家は当初から変わらなかったらしい。


 お隣さんとの接点といえば昔小さい頃によく親しくしていた『宮原 まとい』という女の子がいたのだが、二人が中学くらいになってからかお年頃になって自然消滅的に疎遠になってしまった。


 挨拶くらいは交わせる自身はあるけれどもそれ以上話が弾む仲にはならないだろうと思う。


 ふと、時計を見ると時間ギリギリになっていたのに気づいて急ぎ気味で着替えを済ませ、下の台所へ降りる。


「おそよだよ。時正」


「そうだよ。 おそよだよ」


「おはよう。 お兄さん」


 台所のドアを開けると早速挨拶してきてくれる。


 母親はともかくとして最近出来たばかりの妹に言われるのはなぜか嬉しく感じた。


 ちなみに母親と七香ちゃんが発した“おそよ”という言葉は遅いとおはようをくっつけた母親作の挨拶なのである。


 なぜか七香ちゃんは大いに気に入ったようで頻繁に使う。


 一方の舞香ちゃんは……まぁ、俺と同じ気持ちっぽかった。


 その言葉を使うのが恥ずいのだろう。


 その気持ちは分からんでもないが、使えなくもない。俺の場合は、どちらかというと遅く起きてくる方なので使う場面がないだけだったりする。


「おはよう」


 取り敢えず挨拶を交わし、ご飯をよそって席に着く。


 母が有無を言わさず、机の上に味噌汁を置いてくれる。


 というのが、いつもの朝食のスタイルだ。


 適当に親父のふりかけをパクって自分のご飯にかける。


 親父はそのことに関してわかっているはずだとおもうのだが、何も言ってこないので別に構わないと認識した。


「いただきます」


 の瞬間に、朝食を口の中にかきこむ。


 この光景に妹たちは呆れ顔だった。


「お兄さん、いつも言ってますけど、ご飯はもっとゆっくり食べて下さい。 胃がびっくりしてますよ」


 舞香に指摘される。


 そんなことは科学者の端くれとして当然既知の情報であった。


 しかし、時間には逆らえんのだ。


「そうだよお兄ちゃん。時間がないのならもっと早く起きればいいだけの事じゃん」


 腹の内を読んだかのように七香が追撃してくる。


 くっ、何も言えない………。


「この子に何を言っても無駄よ、舞香ちゃん、七香ちゃん」


 味方なのかは微妙であるが、母親が助け舟を出す。


「でもー」「ですが……」


 二人ともが不満顔で母親を見上げる。


 母親はため息をついて口を開く。


「この子はお父さんに似ちゃったの。 だから、直して欲しいならお父さんを矯正しなさい。 私は諦めたわ」


 妹たちは二人見合って驚きと戸惑いの表情を見せる。


 確かに、親父を矯正なんて出来ないもんな……。


 やはり、妹たちでは親父は威厳のある人(平たく言えば)というイメージがあるらしく、この子たちが親父と言い争っているところを見たことがない。


 この子たちには悪いが、仕方ないとしか言いようがない。


 そうこうしている間に朝食を食べ終えて席を立つ。


 うしろから「「速っ!」」という声が聞こえたが、勝手に褒め言葉として頭の中で変換しておいた。


 荷物を背負って部屋を出る。


「んじゃ、いってきます」


 と玄関を開ける。


「ちょっと待ってよお兄ちゃん!」


 という声が聞こえて立ち止まる。


 その場に振り向く。


「これ、忘れ物」


 七香が風呂敷に包まれた弁当箱を手渡してきた。


「ん? 弁当箱? 今日はどうしたんだ? 弁当は二人の分だけだろ?」


 と言いながらも受け取る。


「今日は私が作ってみたの! あとで感想聞かせてね! じゃ、いってらっしゃい!」


 ボンっと背中を押されて外へ出されてしまう。


(手作りか……)


 こんなことは予想してなかった。今の感想を述べよと言われたらまず真っ先に複雑ですと答えるだろう。


 正直、嬉しいのと(大丈夫か? 食えるのか?)という不安と期待と不安が入り混じってる。


 しかし、自然と頬が緩んでいたことに俺は気づかなかった。



「やぁ、時正くん。今日はギリギリだね?」


 慌てて、研究室に駆け込む俺にそう話しかけるうちの上司こと恭介さん。


 いいや、本心ではどうしても生理的にこいつが上司なのはいかがなものか。的な感情はいつも持ち合わせているが表には出さない。


 書面上は上司、なのだから少なからず尊敬はしなければならないとも思うからだ。


「すみません。 少し起きるのが遅かったんです」


 素直に頭を下げる。


「いや、別に遅刻というわけじゃないんだから構わないんだけど、そろそろ始まるから準備してくれ」


「はい」


 ということで本日も始まる……。


 やる内容は毎日変わることもあれば数ヶ月と同じ実験の繰り返しだったりする。


 その中に学会発表であったり、研究生指導が入ったりと何かといとまがない……。


 学生の頃は、のほほんと実験ばかり出来る気楽な職だと思っていたが現実はそうじゃなかったのだと気づいて先生達って忙しがったんだなぁとひしひしと感じた。


 そんなこんなで久々の実験だった。


 テーブルの上には、様々な瓶が置いてあり、そこに見分けのつかない白い粉末が入っている。


 もちろん、それぞれに何が入っているか記載させているが、いざ取り出してさぁこれは何?って言われても分からないだろう。


 おそらくそれでわかったら人間じゃない。目からビーム的なレベルだと思う。


 想像して少し吹いた。


 恭介はそんな粉末を手慣れたようにぱっぱと混ぜていく。料理でもするみたいに……。


 その横で俺はマウスと格闘していた。


 鼻をヒクヒクさせて何かを感じとるマウス。


 もちろん身体は白だ。真っ白。


 すると身の危険を感じたのか、恐怖を感じたように対角線上の俺から一番離れられる場所まで逃げる。


 それが壁だということは認識できるのか……。


 角の壁に激突することなく、怯えている。


 そりゃ怯えるだろうな。


 こんだけ電気ショック与えてるんだからな。


 ドMじゃない限り人間でも無理だろう。いや、ドMでも身体が持たないとは思うけど……。


 俺が行なっているのはざっくりいってヒトの記憶についての研究だ。


 詳しくは面白くない人がいるのでやめておくが、まぁ、なんで覚えられてなんで忘れられるのかっていう感じだ。


 それを見つけられれば認知症に対するアプローチになるかも知れないから俺がやっている事は結構メジャーな研究だと言えよう。


 それにしても………。


「ふふふふーーん♪」


 鼻声まで出して実験を行っている恭介。


 正直、鬱陶しくて仕方がなかった。


 つくづくどうしてあんなんでいけるんだ?と思う。


「お、いい感じ! まっだっかなーーふふふ」


 恭介は今にも踊り出しそうにその粉末の反応を観察していた。


 いいや、気にする俺が悪いんだ。


 俺は場所を移し、敢えて恭介が視界に入らない位置に移動した。


 さて、再会再開っと。


 とマウスが入っているゲージを見た瞬間。


 あれ? ん? ええと……?


 もぬけの殻だった。


「だだだだだだだだだだだだ脱走⁉︎」


 慌てて辺りを探す。


 どこだ、どこに逃げた……ッ⁉︎


 ネズミは身体が小さいが故に見つけづらいが、白だったことと、目が赤かったことが幸いして見つかる。


「さぁ、大人しく戻ろうね〜〜〜」


 手をワキワキさせながらゆっくり近づく。


 マウスにしてみれば恐怖の塊の何者でもなかったであろう。


 電気ショックと言う名の拷問に処される張本人の元へわざわざ戻る奴があるか?


 そんな奴はドM以外考えられない。


 故にマウスは逃げる。自慢の脚力を活かして上に下にと様々に。


「何くそ!!」


 負けじとマウスを追い回す。


 手だけではあのすばしっこいのを捕まえるのは無理だ。


 と俺はタモを取り出す。


「ふんっ!」


 タモを振り回すがそれでもマウスは逃げる。


「おっと、何やら楽しそうだね。時正くん」


 騒ぎに気づいた恭介がこちらに来る。


「てか、今まで気づかんほうがおかしいだろ⁉︎あんなに騒いでいたのに!」


 散々駆け回ったのにマウスはやはり同じ気配を感じる恭介にも多大に警戒していた。


「まぁまぁ心を落ち着かせて。はい、深呼吸」


 どうどうと言う感じでなだめてくる恭介。


「すぅーはぁーー………」


 言われた通り、深呼吸してみる。


「落ち着いた?」


「ええ、こんな茶番をしている場合ではないと冷静になれました」


 そう、俺は研究をする科学者。 さっきのは少しばかり自分らしくなかった。


 科学者なら科学者らしくここで考えないと。


「うん、その通りだよ。ましてやマウスがまだこの部屋に留まってくれているだけマシだと思う。 ということでどうするんだい? ガクガクブルブル……」


「何そんな結束を高めるみたいなキザなセリフ吐いといてガクガク震えてんですか⁉︎」


 どうやら、恭介はマウスが苦手なようだ。


 すっかり怯えてしまっている。


 まぁ、ハナからこんな奴をあてにする気皆無だったからいいけど!


 としゃがみこんで壁にもたれる恭介をスルーしておいて準備を始める。


 ガサゴソと棚をあさる。


 普段使わないので、奥に置いてあるのだ。


「あ、あった」


 取り出したのはネズミ取りだった。


 イメージで言えば、粘着物によってマウスがそれにはまって動けなくなるというとてもシンプルな道具だ。


 早速、罠を仕掛ける。


「先生、マウスの餌はありますか?」


「ああ、あるよ」


 恭介から餌を貰って例の道具の近くに置く。


 これでよし。


 あとは、意地とプライドの勝負だと思った。


 今日は無闇に捕まえるのを諦めて、明日どうなっているか見ることとした。


「そういえば、今日は何をしていたんですか? 何やら楽しそうに見えましたが……」


 俺は話題を変えてみる。


 あのマウスでなければ実験の続きが出来ないので本当に手持ち無沙汰になってしまったのだ。


 この実験に後二時間は使うつもりだったためにごっそり空いてしまう。


 ーじゃあ他の雑務をやってればいいじゃんーと思うかもしれないが、正直、ショックでやる気が起きない。


 ようは暇つぶしだ。


「ふふふ、よくぞ聞いてくれた!」


「ははは……」


 聞いておいてなんだが、今ものすごーーくすべきでなかったと後悔している。


 気づかれない程度に後ずさる俺の肩をガッチリと抑え込む恭介。


こいつ……意外と力強い……。


「これはな、昨日の改良版だ!」


 この言葉に俺は呆れるしか出来ない。というかどんだけ諦めが悪いんだよと思った。


「皆まで言うな。 昨日出した問題点をもちろん改善している。我に出来ない事はないのだ!!!」


 俺は心底、付き合ってられなかった。


 パンと軽く恭介の手を振り払い、距離を取る。


 理由はなんとなくだが、何を考えているのか分からないやつは自然とこうなるものだ。人間って。


「はいはい、でうちの妹に飲ませろっていうんですよね? 昨日も言いましたが、どんなにお願いされても無意味ですからね。それに妹も賛同しないと思いますよ」


 冷たい言い方かもしれないが、そんなものを−はい、飲みたいです−なんてやつはブラコンぐらいしかいない。


 それにはうちの妹たちには該当しないと分かり切ってる。


 昨日のこと曰く、まだ、妹たちと暮らし始めて一年しか経ってないのにブラコンになるわけがない。


「いや、私は直談判に行くつもりだ」


「は?」


 今なんと?


 時正の耳に聞き捨てならない単語の羅列が聞こえてきた。


 数秒ほど、その単語の意味を鑑みる。しかし、時正の表情に変化はない。


「そんなのしても無駄ですよ。 彼女たちが承諾する訳がない」


「そんなこと分からないじゃないか。 やってみてもないのに諦めるのは良くない癖だよ」


 恭介から注意される。


 そんなことはわかっているけれども明らかに結果が分かりきってしまう。そんなものにそんな台詞セリフは無意味だ。


 1%の奇跡など俺には採択できない。


 統計の世界が物語っていることだ。無論、俺たち科学者でもそのように採択していくのだ。


 前も言ったかもしれないが、平均でもなんでも五パーセントしか起きないと結果が出たものをわざわざ採択するのは実に非合理だ。残りの九十五パーセントを泥に捨てるなんて頭がおかしいに決まってる。


 せっかく、その大きな確率で助かると言われているのにもかかわらず、それをしないという選択をして死んでしまうのと同じことだ。心底勿体無いと思う。


 そんなこんなで、教授は教室を出て行ってしまった。


 よく見ると、時計は短針と長針が一番上で重なっていた。


 俺も自室へ戻りお昼にする。


 いつもなら母親特製のいつも通りの弁当なのだが、今日は七香ちゃんが作ったというお弁当。


 期待と不安が入り混じり過ぎだった。


 ゴクリと喉を鳴らす。


 開けたいけれど、開けられないそんな葛藤の末にまず包まれている風呂敷を解く。


「外見はいつもと変わらない弁当箱だ」


 と、安堵にも似た声を上げる。ここにいるのは基本俺だけなので、特に声を出すことを気にする必要はない。


 ゴクリと一度喉を鳴らし、爆発物でも処理するかのようにゆっくりと弁当の箱を開ける。


「…………見た目は普通だな」


 安心した。毒とか盛られてるんじゃないかって心配だったんだよ。


 俺は安堵のため息をつく。


 そして、箸を取り出し弁当にあるおかずをつまんで口に運ぶ。反射的に目をつぶっていた。


 そして目を見開く。


「う、うまい!」


 いつも食べている母親の味ではないことはすぐに分かる。母親が手伝えば似てくるのかなとも思ったが、全く違う。


 しかし、それであってもうまいのだ。 さっきまで怖がっていた自分に叱ってやりたいくらいであった。


 その後もモリモリとがっつくようにお弁当を平らげた。



 その頃、学校では………。


「ぼけー」


 七香は机に肩肘ひじをついて惚けていた。


「もしもし…いますかー?」


 仲の良い女子生徒が怪訝そうに七香を見ているけれども、それに全く気付かずに自分の弁当をつついている。


 考えてるのは他でもない。お兄ちゃんのことだ。 お兄ちゃんは多分、あたしが料理を覚えたくて実験台に使われていると思い込んでいるかもしれないが、それだけが理由だけではない。


 お兄ちゃんに美味しいと思ってくれることこそがあたしの励みになる。 というか、お兄ちゃん以外の異性にこんなもにも失敗して作るなんてあり得なかった。あたし自身でも驚いたくらいだ…。


 そわそわしてしまう。


「うわっ、なんかクネクネしだした。 ちょ、ちょっと大丈夫⁉︎ 」


 七香の友達が狼狽ろうばいしてしまっている。 その友人の慌てた様子に七香が注目を浴びる。


「うわっ!? クネクネし出したと思ったら、机にダイブぅ!?」


 そんなところで我に帰る。


「うわっ⁉︎ な、なに⁉︎ みんなこっちを見て……」


 周りからの注目を浴びることに友達よりも遅れて驚く。 とっさにあははと作り笑顔を見せておいた。


 周りからの注目が外れたところでホッと胸を撫で下ろした。


「ちょっとどうしたの七香。 お昼になって急にぼーっとしちゃって」


 友達が心配そうに尋ねてくる。 そんな大したことじゃないけどね。と思いながら、「なんでもないよ」と答えておく。


 いくら友達でもこんなことは相談できない。


「そんなわけないじゃん。表情見てたら、なにもないなんてあり得ない。 はい、言いにくいことなのね。 誰にも言わないから、相談してみ? ん?」


「………大丈夫だよ。 大したことないから」


 一瞬、迷った。 いっそのこと吐き出して仕舞えば楽になれるかも。なんて思ったからだ。 それに対して嫌われないか、白い目をされないかで天秤にかけた結果、言わないことを選択した。


 私自身、打ち明けた程度で何とかなるものではないと思ってるし、なんせあたしの友達とうちのお兄ちゃんは全く接点がない。


 つまり、自分でやるしかないという事は分かっている。


(まぁ、今すぐに。という事はなさそうだし……)


 そうして、想い人と同じ弁当を平らげたのだった。



「ちょっと、時正助手くん。 悪いけど、代わりに授業に行ってくれないか? 」


 恭介教授からそんな言葉を投げかけられる。 こういうことはよくある。


「いいですよ。 どこやれば良いですか?」


 同じ研究室にいるだけに学生に教えることは頭に入ってる。ただ、教えるといろいろと恭介とは違ってくるとは思うのだけど……。


 という感じで、恭介は非常勤ではあるけれども教鞭をも持っているという本当エリートと呼ぶのが相応ふさわしい人だった。


 恭介に範囲を教えてもらって、その場所へと向かうことにする。


 この場所からだと少し遠い大学へと向かうことにする。


 少しだが、その範囲について復習してどのように教えるのが一番飲み込みやすいのか考えながら、向かうことにする。


 余談ではあるが、その大学は基本的に車で行くことは禁止されている。基本的にといったのは、お偉い様だけは専用の駐車場が存在したからである。


 というわけで、学生と同じように電車で向かう。そのかわりと言っては何だけれども、今の服装は完全に私服だ。 研究室なら、白衣とかが絶対なのだけれども別にそんなことをする必要がないところがいい。


 大学に着き、門をくぐる。 最近の大学とは違って都会に配置することなく、とても田舎にある大学だ。


 それを不便だという人もいるだろうが、俺は田舎にあることにもメリットはあると思う。


 例えば、田舎にあるぶん広い土地を確保できることや何かあっても周りの迷惑にならないなどある。研究施設でもあるので、火事とかあった時に火が燃え広がらないのだ。


 そんなことを考えながら階段を登る。


「あれ? 時正………」


 不意に呼び捨てで自分の名が呼ばれた。


 声のする方へ顔を向ける。


「お、おう……」


 一瞬、返す言葉が見つからなかった。確かに知っていた顔だったのだけれども、それに気付くまでに時間を要したからだ。


 彼女は宮原まといであった。


 以前。 中学校の頃とは化粧もしているのか、比べ物にならないくらい綺麗になっていた。黒の髪の毛はすらっと背中まで伸びており、随分と大人びた女性になっている。


「久しぶりだね。 今は何してるの?」


「今は……研究員をちょっとね」


 昔はどんな喋り方をしていたのか分からず、他人行儀っぽくなってしまう。


 そんな俺のことなど御構い無しに「へぇー」と返してくるまといに少し、罪悪感が芽生えた。


「そっちはどうなんだ? 俺より頭良かったろ」


「そんな事ないよ。私も同じよ」


「そうなのか!?」


 こんな偶然もあるものだと思った。 まさか、お隣さんが俺と同じ職だったなんて……驚きと同時に親近感に近い運命的なもの湧いた。


 どちらも、研究員になりたいなんて聞いたこともなかったし、言ったこともなかったと思う。そういう意味でもこの確率はかなり低いんじゃないかと思った。


「それじゃ、本当に気づいてなかったのね……」


 まといが独り言のように呟く。いや、本当に独り言だった。


「え?」


 しかし、俺は反射的に何か言われたと思い、聞き返してしまった。


「いや、何でもないよ。 それより、もうそろそろ時間だけど…大丈夫?」


 まといは、腕時計を見てそう呟く。今度こそは、時正も耳をすませていたので聞き逃さなかった。


「あ!! いけねぇ。 そ、それじゃあ」


 時正は慌てて教室の方へと向かった。


「ふふ、律儀な人なんだから……先生になっても変わらないのね。あっ、研究員なんだっけ」


 講義を終えて、研究室に戻った時正は恭介を探して実験室へと向かった。


 すると………。


「何してるんですか?」


 マウス事件と同様に怯えて隅に体育座りでガタガタなっている恭介を発見。故に、先ほどのセリフはただその行動に興味が湧いて尋ねた何してるんですか、ではなくこの人は……という半分哀れみの目線で放った言葉であった。


「いや、だってね! 僕も会議が終わって実験の続きをしようと戻ってきたらマウスがグワグワネズミ捕りで動いてるんだよ!? もうそれで怖くて……」


「本当ですか!?」


 慌てて部屋の中へと入る。恭介の言う通り、ネズミ捕りに餌を食べようとして挟まっているマウスがその場で暴れていた。


 俺はネズミ捕りごと持ち上げてゲージの中に入れた後、マウスを掴みながらネズミ捕りを外してやる。掴みながらやったのは逃さないためだ。ただえさえ警戒心が高まっているマウスがさっきまで暴れていて体力が消耗されているとはいえ人間でも馬鹿力ばかぢからがあるようにマウスもそうしない事もなかったのだ。


 部屋を出て、恭介を迎え入れる。


「ありがとう、時正くん! 君は命の恩人だよ〜!」


 泣き顔で俺の手を包み込み上下に揺らす。ただ、何もなくそんなことをされたら、鬱陶しいと振り払っているところであったが、今回はそういう状況ではないのでしない。


 むしろ感謝される筋合いなど俺にはなかった。故にその言葉を否定した。


「いえ、もともと自分の問題ですから。感謝されるようなことではなく、むしろ自分の方こそ迷惑をかけて申し訳ありませんでした」


 頭を下げて、謝る。


 いくら、変人の恭介でさえ何度も言うが上司なので一定の礼儀はわきまえなければならない。


「頭を下げることではないよ。さぁ、じゃあマウスも早めに掴めたことだし、今日は帰ろうか」


 日はもうすでに傾いていた。


 俺は恭介に授業の進行を伝えて今日の業務を終えた。

































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