第61話 一週間後。
「全部思い出したら、トッピング全部乗せカレー、ご馳走するよ」
ゆらゆら揺れるキャンドルの赤い炎。
テーブルの向こう側で、ヒマル屋夏期の限定メニュー、夏野菜と牛頬肉の甘口カレーを頬張っていた亀井戸さんが、こんにゃくの弾力を堪能していた私にそう言った。
「私はこの、こんにゃくのカレーで充分満足してますよ」
「そう? でもお祝いなんだからパーっとさあ」
「全部乗せって……かなり高くつくじゃないですか。こんなの奢られたらなんか申し訳ないですよ」
「ミツルは相変わらず謙虚だね」
「もっとワガママ言った方がいいですか?」
「ううん。そういうミツルがおれは好き」
はっ。好きとかいきなり変化球投げてくるなよ……! わざとなの?
「ミツル可愛い。照れてる」
「か。可愛いとかいきなり言うな」
言われ慣れてないんだから。なんかいちいちどう反応していいのか困る。
「なんか本当に最初の頃のミツルだね。からかいがいある」
「楽しまないでくださいよ」
あれから一週間。
私たちはこんな感じで、週末の夜には会って一緒に食事をしている。
関係は至って良好。ウサのバックアップもあって、それなりに上手くやれていると思う。
「ミツル、ついてるよ」
「むっ――」
呼ばれてハッとすると、亀井戸さんが腕を伸ばして、私の口元をナプキンでそっと拭った。
にっこり、満足気な顔をされる。お母さんか。
「これぐらい、言ってくれれば自分で拭きますよ。赤ちゃんじゃないんですから」
「いつもこうしてたから、ついつい癖で」
「いつもこうしてたんですか!?」
「うん、でも。嫌なら嫌って言ってね」
その言い方は反則だ……。嫌って言われたら、別に嫌じゃないし。いつもしていたことなら仕方ないと思ってしまう。
私は食後に飲む薬をパキパキ取り出して、グラスに残ったちょびっとのオレンジジュースで飲み下そうとすると。
「こらこら、ジュースで飲まないの。すいませーん、お水一つ下さい!」
すかさず亀井戸さんが私の分の水をオーダーしてくれた。
「まじ、お母さんか」
仲直りをして、こうして一緒にいることで度々思う。この人は基本的に優しくて、ひたすらに穏やかだ。こんなことになってしまった私を少しも急かそうとすることなく。優しい眼差しで見守ってくれているのがとてもよくわかる。
まだ気持ちはこの人に追いつけていないかもしれないけど、嫌いじゃない。こうして時間を共有することに対して険悪感を自分が抱いていないことに心底安心する。手探りの状態で接しているのはあちらにはバレバレだろうけれど、それでも嫌な顔一つされない。そこに救われる。
きっと今までも気分にムラが出やすい私を彼がうまくコントロールしてくれていたのかもしれない。この人は大抵いつも笑っている。にこにこして、細かいところに気がついて、気遣ってくれる。
威圧感丸出しのうちの父親とは正反対。だから、安心する。
「亀井戸さんって、どこで怒るんですか」
「ミツルがおれに黙って浮気した時かな」
「他は?」
「大抵のことは喧嘩になる前に話し合う。今まではずっとそうしてきたよ」
店を出て、手を繋いで歩く。
これもいつものことらしいのだが、なんだか下校中の学生みたいで、私は恥ずかしくて若干俯きがちに手を引かれてのろのろ歩く。ぎゅっと私の手を強く握る彼の手は湿っていた。
だけど、亀井戸さんが左、私が右の位置。これに違和感がないのは体が覚えている、ということなんだろう。
「そういえば、あの人だけど」
亀井戸さんの顔から笑顔が消える。なんとなくわかった。
「鵺ヶ原さんですか? あれからは特になにも言われてないですよ、ただ、最近調子悪いみたいでよく休んだりとかしてますけど……」
「そうなんだ。うん、でも気をつけてね、ミツル」
「なにをですか」
「あの鵺ヶ原さんって人、おれとミツルが付き合い始めた頃から、やたらミツルに話しかけたり誘ったりしてたから。相当気があるんだと思って。だから少し、警戒してほしい」
「しっかり話つけましたから、きっともう大丈夫ですよ」
「だといいけど、なんていうかね……」
「私はそんなにモテないから、心配しなくていいですよ」
そりゃあ。あの鵺ヶ原さんにあんなことを言われて驚きはしたけど、鵺ヶ原さんのことだ、もしかしたら余所でもああいうふうに言っていることが多いのかもしれない。
それに本人も受け入れてくれたみたいだし、これ以上の後腐れはないはずだ。
「おやすみ、ミツル。明日も仕事頑張って」
「あ――あの、ウチ、よって行きますか」
マンションの下まできっちり送られて、帰ろうとする亀井戸さんを呼び止める。
「なんなら、泊まっても……明日休みでしょう」
言って。私は即座に自分はなにを言っているんだと後悔した。そんな度胸まだないくせに。
二人っきりになりたいと思っているだろう相手にぬか喜びさせるなんて失礼だ。
でも、ここで私がそうすれば、彼はきっと喜ぶ。今でも色々と我慢していることを知っていたからつい、突拍子もないことを言ってしまった。
「ミツル」
なんてことは、全部読まれていた。
「なんか焦ってない? 大丈夫だよ、気使わなくても」
「いや、別に……」
「まだそんなに仲良くなっていない男と同じ部屋で寝るの、不安じゃない?」
「そんなこと――」
思っていないと言いたかったが。本心では否定しきれなかった。
わかっている。わかっているのだもう。この人とそういう関係だということは、なのに、気持ちが伴わないというのは……とても悔しい。
この人に、自ら言わさせてしまう自分が、嫌になる。
「じゃあ、ご飯今度作ってよ。久しぶりにミツルの作るご飯が食べたいな」
ぽんぽんと頭を叩かれ私をフォローする亀井戸さん。
「なにがいいですか」
「トマトのスープ。おれの大好物」
「わかりました、美味しいの作ります」
こんな時。いつもの私だったら、「じゃあ、カメさんの大好物作りますね」って、サッと言えたはず。
前はこうだったかも、とかいうのはこれから先も思い出すまで多々あること。いちいち気にしていたらこんなのキリがない。この人はちゃんと私を待ってくれる。それをわかっているのに私は、贅沢にも今この現状に微かな居心地の悪さも感じていた。
昔の私に、まだ当分追いつけそうにないことが、もどかしい。優しく接してくれるからこそ、そう思ってしまう。
なんて葛藤していたことも見抜かれたようで。
「おいで」
そんな私を彼は小さく抱擁する。
人通りも少なくなっていたので、私は騒がずに眼前の胸に頭を預けた。
この人、奥手そうな草食系に見えて意外と大胆だってことが最近わかってきた。
「難しいこと考えてるね」
「なんでわかるんですか」
「君は顔に出るからね。もう食べたくないのに無理して食べてる時とか、ほんとすぐわかる」
「結構、見てくれてるんですね」
「当たり前だよ、ミツルだからね」
「……少女漫画みたいな台詞吐きやがってよう……」
恥ずかしいだろが。
「そうやってとんがった言葉吐くのは凄く恥ずかしい時の証拠……ぉごふッ」
思わず下腹部に拳をめり込ませてしまった。
すいません、つい。
「少し元気出た?」
「ええ」
「じゃあ、ほんとうに今度こそおやすみ。あんまり夜更かししないで、お腹出して寝ちゃだめだからね」
だからお母さんかよ。なんて内心鋭く突っ込むが、心は確かに軽くなった。
この人の、時間に追われていないのんびりとしたオーラが、今一番よく効く鎮静剤な気がする。
「おやすみなさい」
「うん。じゃあねミツル。なにかあったら、すぐ連絡して」
角を曲がるまで私に手を振るマメな彼、客観的だけど、余程私のことを好きでいてくれているのがわかる。
そんな彼に、同じように愛情を返せる日はいつになったら来るのだろう。
この人をどれだけ好きだったか。
やはり私は取り戻したいのだ。
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