第62話 修羅場。

 一難去ったはずなのに落ち着けない私に、ウサは、まあ楽しみなさいよと呑気に言うけれど。


 正直、まだそんな余裕なんて持てる気がしない。その理由というのも。

 記憶のことも、体調不良でここ数日休みがちな鵺ヶ原さんのことも気がかりななか。彼とヨリ(になるのか?)を戻してから、悩みの種がもう一つ増えてしまっていたからである。



「ッ――てっ!」

「あ。すいません、先輩」


 どすんと私のつま先に落ちて来た在庫の猫缶の段ボール。

 小さな悲鳴をあげると、気のない謝罪が下から返ってきた。


「き、気をつけようよ猫村さん、結構痛かったよ」

「ごめんなさい。ミツル先輩そこにいるの気がつかなかったんで」


 いやいや。絶対わざとだろうよ。

 思いっきり足元狙って落としたじゃん。


「猫村さん……なんか怒ってる?」

「は? なに言ってるんですか?」


 絶対怒ってるだろ……その顔。

 最近。正確には一週間前から猫村さんの様子がおかしい。どこがおかしいって、明らかに態度が一変しているところだ。

 特に私への風当たりが凄い。朝もバックヤードで鞄をテーブルから落とされたし。ドアの前ですれ違った時は肘をぶつけられた。

 そして今、凡そ10キロの段ボールを足元に落とされた。これはもう、流石にさあ……。

 なんでこんなことになっているかは、猫村さんの行動や態度から大体予想がつく。


 普段こそ明るくテキパキ仕事をこなす猫村さんだが、確か専門の頃から、訓練や授業で気に入らないことがあると途端に不機嫌になってしばしば周囲を困惑させてしまう厄介な癖があった。

 それは今の職場でも健在のようで、たまに小鹿さんに社会人なんだからと注意されていた記憶がある。

 だが、今回のはそういう普通のレベルじゃない。自意識過剰じゃなければ、その不機嫌の矛先が明らかに私だけに向けられている。


「猫村さん、私になにか言いたいことない?」

「別に…………」


 一緒に仕事をしていて。ここまで険悪な雰囲気になったのは初めてで若干気圧されるも、流石にここ一週間、険悪感丸出しの遠回しな嫌がらせをされてそろそろ我慢の限界だった。


「あのさ、猫村さん、言いたいことあるなら――」

「おはようございまーす」


 言いかけた時。遅番の竜沢さんと小鹿さんが売り場にやって来た。


「あっ、おはようございます。竜沢さん、小鹿さん」

「お疲れ様、どう? 特に変わったことは?」

「ないです」


 入っていたはずの鵺ヶ原さんの姿は今日もない。


「鵺ヶ原君、結構風邪こじらせちゃってるみたいで」

「そうですか」

「あれ……。二人ともなんかありました?」


 竜沢さんはそこでなにを感じ取ったのか私に尋ねたが、それに小さく首を振って猫村さんは笑顔で返す。


「なんにもないですよぉ?」


 この……。イラッとしたけど黙っておく。


「じゃあ二人とも、休憩入っちゃっていいから」


 小鹿さんに促され、私たちは在庫の補充をある程度済ませてバックヤードに向かった。

 猫村さんは私が話しかけても無視してずんずん前に進んでいく。極めつけに、私が入ろうとする前にバックヤードの扉を乱暴に閉めたから、ちょっとこっちも黙っていられなかった。


「なんなの?」

「なんなのって、なにがですか?」


 閉められた扉を開けて言うと、彼女はロッカーを開けてペットボトルを手にし、キツい眼差しで私を睨んだ。

 ここで同じ土俵に立ってはいけない、冷静でいないと。私は携帯をテーブルに置いて、椅子に座って向かい側の席を指差す。


「ちょっと、ここに座って。少し話そう、ね」


 言うと、彼女はムッとした顔つきでテーブルに近づき、ペットボトルを置いた。

 かと思ったら。置いたそれをあからさまに倒して中身を零した。


「うわっ、ちょっ――」


 携帯が炭酸飲料でびしょ濡れになる寸前、私は溢れかけのそれを掴み、もう片方の手で携帯を救出した。

 せっ、セーフ。危なかった。


「ああ、すみません。手が滑りました」


 随分と都合よく手が滑るな……!


「猫村さん、良い加減にしようよ、口で言ってくれなきゃわかんないよ」

「うるさいんですよ! たまたまです!」

「いやわざとでしょうが!」

「違いますよ! 黙ってくれませんか! ブスのくせに!!」

「ブッ……はぁあああ!?」


 バンとテーブルに手を叩きつけて、苦し紛れと思われる暴言を吐いた猫村さんに私は唖然とする。

 いやでも、ブスは……ちょっと傷つく、精神的右フックを食らったみたいな感じで視界がぶるぶる震える。なにも言ってこないくせに、態度だけで示して、オマケにいきなりそんなふうに言われて。私はそこまで気が長い方ではない。


「そういえば猫村さん。あれから亀井戸さんとはどう? ご飯行ったんだっけ? うまくやってるの?」


 溢れた炭酸飲料をティッシュで拭いて、見上げると。彼女は顔を真っ赤にさせて震えていた。


「知ってるくせに……やっぱりミツル先輩は性格もブスですね、最低ッ」

「どっちが」


 今度は私がテーブルから身を乗り出した。

 見えないゴングが鳴り響く。

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