第49話 ほんとうのこと。

「うん。ストレスからくる眩暈めまいだね。顔色もあまり良くないし、最近眠れてる? 剣木さん」

「先生……」

「薬、出しておくからねえ」

「先生、そうじゃなくて」


 あれから、職場で眩暈を起こし、早引きさせてもらった私は先日世話になった病院に駆け込んだ。

 診察室で待っていたハゲ先生に、バケツをひっくり返すように、ここ最近のこと包み隠さず全て話し、すっきりなんて言葉もない、うなだれて意気消沈と椅子に座る私は、そのまま問診を続けようとする先生を恨めしそうに睨んだのだろう。


「知ってたんですか。亀井戸さんのこと……最初から」

「うん」


 あっさり答えられて、もうどんな反応をしていいか。


「なんで……なんでよ。そうならちゃんと、教えてくれれば良かったじゃないですかあっ」

「彼が君にそうであることを伏せておいて欲しいと望んだんだよ」

「……わけがわからないです」


 先生は笑わず、あの時のことを私に話す。

 私が目覚めて、彼が病室に現れて軽く騒ぎになった――あの後のこと。

 家族と面談し、その次に先生は廊下の隅で緊張した面持ちで立っていた亀井戸さんを呼び。私の状態を説明し、そして彼に証明してもらっていた。


「写真も見せてもらったし、事件が起きる直前の携帯でのやりとりも、ね」

「それだけの証拠があるのに、隠しておく理由がわからないです」

「理由ね……。うん。先に言っておくけど私はね、君をけして責めるつもりはないよ。あの時、君は酷く困惑していたのを覚えているかな」

「はい……」

「それは仕方のないことだったよ。誰にだって責められない。いきなり知らない人に抱きつかれたなんてことあったら、普通は誰でも拒絶したがるものだから」


 私は膝の上で拳を握る。

 本当は知らない人なんかじゃなかったのに、と。

 その様子を見てハゲ先生はリラックスするようハンドシグナルを送る。


「君の反応は正常だよ。ただ、タイミングがとても悪かったんだ」

「タイミングって問題ですか」

「君の状態をもう少し私が把握して、彼と接触する前にワンクッション置けていれば状況はいくらか変わったかもしれないね」


 先生は言った。人は記憶というものに依存している生き物なのだと。

 欠けた記憶をより正確に補う為に、私はここ数週間、記憶の中に存在しない人よりも、存在する人たちの言葉を優先的に信じてきたのだから。それには本当に、痛いくらい共感できた。


「頭の中にないことをいきなり信じろって言われたり、信じられない事実を押しつけられたりするのに抵抗を感じるよね? 人によっては、ああそうなんだってすんなり受け入れることもできるかもしれないけど、殆どは前者なんだよ。だから本来は周りがもっと気遣ってやるべきなんだ、こういう症状は。特に君の場合は一部の記憶を忘却してしまったわけだから、前と今との違いや周りと噛み合わないことで悩んだりしているでしょう? 仕事もしているからどうしたって自分本位にばかり動けない」


 精神的な負担が重なれば思い出せるものも思い出しづらくなる。先生はそれを懸念していたそうだ。


「これは当事者にしかわからない辛さだからね。だから私は彼に言ったんだよ、彼女に自分との関係を正直に告げてもいいけれど、その後、絶対に急かしたり焦らせたりしてはいけないって」

「……それで」

「うん。少し話しただけでわかったよ。彼はとても穏やかで、快くなにかを人に譲ることができる人だって。だから聞き入れてくれると思ったんだ。でもねえ」


 その話をされた後、亀井戸さんは暫く黙り込んで。そうはできないと言ったそうだ。


「なんで? って聞いたらね。彼は、そんなことしたら君が罪悪感を抱いて苦しむだろうって」

「私が……」

「ほんの些細なことでも気にしてしまう、それが自分の否であればなおさら。そんな繊細な性格である君にそのまま真実を告げたら、急かす前に亀井戸君にとても悪いことをしているって感じて、忘れてしまった上に思い出せない自分が許せなくなって、今以上に必死に必死に思い出そうとするだろうって」

「それ、本当に彼が」

「うん。そこまで分析できているんだから、本当に付き合いが長かったんだねえ」


 私は、直ぐになにも言えなかった。

 だって、今本当に言われたとおりの気持ちになっていたから。

 罪悪感と、大事なことに気がつかず、のうのうと今まで過ごしてきてしまった自分の鈍感さと馬鹿さ加減に自己嫌悪が最高潮にまで達している。


「先生は……それになんと」

「私も、剣木さんがそうなってしまう可能性があるなら、あえて告げない方がいいって伝えた。本人が思い出すまで待ってあげようって」

「なんで反対しなかったんですか。それじゃあ……亀井戸さんが……辛いじゃないですか」


 言って。思い出した。

 ハゲ先生が最初に言っていた言葉。


 ――私たち医者はねえどんな時でも患者さんの味方でいなくちゃならない、どんな時でもね――。


 あれは、そういう意味だったのか。


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