第22話 最悪だ。

 私は強張った笑顔で「続きはパパかママがきたらねー」と言って、仔犬を早々とケージに戻そうとした。だが。そこでまた男の子は不機嫌そうな顔で私に近づき、仔犬をまるでぬいぐるみをそうするようにひったくったのだ。

 しかも。それだけじゃない。予想通りだった。というか、最悪だった。

 そのまま頭の先まで高々と掲げたかと思ったら。男の子は床に向かって無抵抗のチワワを投げつけたのだ。


 やば、い――。

 その時、全てがスローに見えた。

 受け身も取れぬまま落とされていく仔犬。まだ骨も筋肉も発達していない。絶対に怪我する。悪ければ――。

 私はその時、もうポーズも恥も、なりふり構わずに床に向かって突っ込んだ。それはもう最高に無様な光景だったかもしれない。大勢の人の前で、店員が床に顔面からスライディングしたのだから。

 しかしそのお陰で、なんとかチワワは床に激突せずに救出することができた。ほっと、一安心。

 だけど。もう我慢がならなかった。やばいかも。というような顔で後退りする男の子に私は睨みをきかせ。


「なんでこんなことするの……死んじゃったらどうするのよ!!」


 そう、思い切り言ってしまった。

 数秒の沈黙。そして。男の子の見開かれた瞳がぶるっと、震えて。


「ふえっ」


 一気に顔がくしゃくしゃになる。


「ええっ、――っ、うああああん!!」


 あーあー、あー……。

 集まる視線。打ち上がる大きな泣き声。男の子の両目から流れる大粒の涙。脳天からさあっと冷めていく私の熱。


「――カムト……! どうしたの!? ちょっとあんたなにやってんのよッ!!」


 冷や汗をたらりと零していたら。悲鳴みたいな声を出して、どこからか男の子の母親がやってきた。

 うっわあ……、ショートパンツに素足にヒールのサンダル、胸元が大胆に開いた薄手のチュニック、金髪、赤メッシュ。絵に描いたような二十代ヤンママ降臨。


「なにうちの子泣かしてんの! なにやってんのマジ!?」


 威圧と怒りを混ぜた甲高い声で余計に視線が殺到する。男の子はギャン泣き状態。全身の力が抜けかける。


「申し訳ありません。お子様がガラス扉を叩かれていて、お怪我をされてしまってはいけないと思って、伝えさせて頂いていたのですけれど」

「ハア!? なにそれ、うちの子がそんなことするわけないじゃん! つかお前今メッチャ怒鳴ってたじゃん! なにここの店ってこんな小さい子にも平気で怒鳴るの!? まじありえないんですけど!」

「それは……大変申し訳ありませんでした」


 口元がぶるぶると震える。違う、そうじゃない。言いたいけどここでそれを言ったらさらなる燃料投下に繋がる。


「大人のくせに乱暴すぎ! 頭おかしいんじゃねえのッ! マジ教育に悪い! おい、お前名前教えろよ! 本社に電話するから! なにバイト……? 店長呼べよ店長!」


 まくし立てるヤンママは止まらない。そのうち真っ青になって飛んできた店長が私の隣に並んで汗をかいた顔を強張らせて、頭を何度もぺこぺこ下げる。私も、半分わけがわからないまま何度も謝罪の言葉を吐いて、頭を下げた。


「子供にいきなり怒鳴るなんて、どういうスタッフの教育してんだよ」、「仮にそうしたとしても、子供なんだから興味を持って扉を叩くのは当たり前」、「うちの子は繊細だからお前に怒鳴られてとても傷ついた、慰謝料寄越せ」。子供がそのうち泣き止んで鼻をほじり出しても、ヤンママは怒り絶頂で支離滅裂なことを繰り返す。

 遠くの方で猫村さんと小鹿さんが私を気の毒そうに見ている。ヤンママが叫びまくるせいで、いつの間にか人だかりもできてきた。緊張し過ぎて頭の先から痺れてくるようだった。

 ああもうやだ――こんなの早く過ぎ去って欲しい。


「誠意が伝わんない。土下座しろよちょっと」


 遂にはそんな言葉を浴びせられ、なんでこんな些細なことでと、私は店長と顔を見合わせる。


「あの、お客様――」

「もう充分じゃないですか。お客様」


 ハンカチで額を拭いた店長のか細い声をそこで遮ったのは――にこにことした表情の鵺ヶ原さんだった。

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