第14話 ちょ、待って。
人違い……。でも、私の名前呼んでたし。なんなんだろう。謎だ、謎過ぎる。
その後、こっそりと別のスタッフさんにもそれとなく聞いてみたが、やはりみんな、「あれ、彼氏さんいたんですか?」、「こう言っちゃなんだけど剣木さんはここでは仕事一筋の人だったから、そういう話題は耳にしたことないですね」と。同じようなことを言われて。
一通り聞き終えた後、私は店内の清掃をしながら若干ぐったりしていた。
これじゃあ自ら墓穴を掘ってるみたいじゃん。いるはずないのに、私って誰かと付き合ってたっけ? って聞いてるのとか……だめだ、イタすぎ。
記憶って面倒なものだったんだなあと、ひしひしと実感する。
以前は嫌なことがあったら、あああ! もう嫌だ忘れたい! とかってよく言ってた気がするけど、なくなったらなくなったで、こんなにも不安な気持ちになるなんて。
時計は夜の八時を過ぎた。ようやくかあ。一日が凄く長く感じた。
思い出せないスタッフさんたち、店長。変更されたお店の決まり。一からまた積み重ねていかなきゃならない、三年分の経験。
モップを持ち替えて、暖色系のカラーで彩られた壁紙を触る私。
この前まで、ちょっと地味目なベージュの壁だった。
床もこんなにワックスかかってなかったし。天井の装飾も、所々に描かれた可愛らしい犬猫のイラストもなかった。
トリミング室も全面ガラス張りで見えやすくなってるし、売り場の配置も殆ど変わってる。
全然違う。まるで別世界。私が今までいた世界と、違う。
その時ふと思ってしまった。
昔話の浦島太郎って、こんな気持ちだったのかなあ。と。
竜宮城から帰ってきたら自分のいた世界は途方もない年月が経っていて、家も、お母さんもいなくなってたんだっけ、あれ。
ちょっと私のは違うかもしれないけど。多分、気持ちとしてはこんな感じだったのかも。
私の場合はあれだな。竜宮城に行く以前に盗みを働いた亀を捕まえようとして、背負い投げされたんだ。
浦島太郎が、亀に背負い投げ……。
マヌケな絵面を想像したらなんか少し笑えた。まあ、そんなこと思えるくらいだから、まだ切羽詰まってはいないってことかな。
くだらない考えを振り払って、モップを再度滑らそうとすると。
客がまばらとなった店内の、仔犬たちがまだまだ元気に跳ね回っているショーケースの真ん前に座って、こちらに背を向ける不自然な客を私はそこで見つけた。
一番下の段の、チワワとプードルのあいの子、チワプーの前にしゃがみ込んで。ガラスの前で人差し指をゆっくり移動させて気を引いてる。
チワプーも尻尾をぷりぷり振りながら、じゃれつこうとガラス扉の前を行ったり来たり。
ああいうお客さんよくいる。ガラスを叩くより全然マシだからいいけど。
でもさ、子連れのお父さんとかならまだわかるけど、あの後ろ姿。
ワイシャツに黒のスラックス。隣に置いた通勤鞄。仕事帰りかなあ。
近くに人もいなことだし。一人で来たのかな。
仕事終わりに癒されに来る人は割といるけど、遠目から見てても、いい歳した男が閉店前のペットショップでしゃがみ込んで一人仔犬とじゃれてるって、なんか。
悪くはないけど。後ろ姿が哀愁漂うっていうか。
いや、決めつけるのはよくない。もしかしたら購入希望なのかも。
私はその人を見ながらそろそろと回り込むように近づいていく。
ええと……こういう場合、あまり販売意識した言葉は逆に客を遠ざけるので、まずは――。
「チワプー可愛いですよねえ。今人気なんですよー。おうちで、わんちゃん飼われてるんですか?」
笑顔とセットでこれが無難かな。
モップを両手で持ち、接客用の高い声を出して腰を屈め、お客さんを覗き込むと。
「ああ、いえ……。今は飼っていないんですけど、そのうち飼いたいなーって思ってて」
その人は立ち上がって、優しい声で答えながらこちらに振り向いた。
にっこりとした男の人の顔を見て。
私は、その場で数秒固まってしまった。
「ああ、ここパグはいないんですね」
え。あっ……。
「あ、」
でっ。
「あなた――は」
出た。
間違いない。
あの時のあの人だ。
童顔眼鏡の、いきなりハグ男……!!
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