警官たち
3丁目交番では、夜勤に入ったばかりの諸田巡査長が暇なあまり椅子の背もたれに体重をあずけ、あくびをしていた。そこへものすごい形相の薫子が飛び込んできた。
「強盗です!!!!!」
諸田巡査長はのけ反り、椅子ごと後ろへ倒れた。
「お巡りさん!強盗です!!」
「ご、強盗?交番に強盗に来たのか!」
諸田巡査長は床にぶつけた後頭部をおさえつつとっさに警棒を握りしめた。彼はボケたのではなく本気だった。なにしろ薫子の表情は今にも「金を出せ」と言わんばかりの恐ろしいものだ。
「何言ってるんですか!うちの話ですよ」
「なんと、お宅に強盗が!?それは大変だ。案内してください。すぐに応援を呼んで……犯人は凶器を持っていますか!?」
「何を言っているんですか!犯人はうちにいるんじゃないですよ!」
「は?」
「今日、3丁目公園の隣りに住んでいる男に、うちの息子が脅されてサッカーボール盗られたんです。一刻も早く逮捕してください」
「お、奥さん、落ち着いてください。3丁目公園ですか?ということはもしかして透さんのことじゃないですかね?」
諸田巡査長が拍子抜けした顔で尋ねた。
「そうです!透さんですよ!私の大切な息子を!2時間も拘束して脅して!あげくにボールを取り上げたんです!逮捕してください!罰してください!」
「落ち着いてください。透さんなんですね?いや、脅したんではないでしょう。お子さんが何かしたんじゃないですか。お説教ですよ、いわゆる。透さんは筋の通った人で……」
「私の息子が悪いって言うんですか?私の息子が悪いって言うんですかぁ!?」
薫子はものすごい力で、ゴリラのようにでかい諸田巡査長の胸ぐらをつかんだ。
「お、奥さん、ちょっと……」
署の柔道大会で一度も負けたことがなく、持ち上げられる経験などほとんどない諸田巡査長は慌てた。
「危険人物を野放しにしておいて、うちの息子が悪いってどういうこと!?あんた公務員でしょ!?なんで善良な市民を助けないの!?税金泥棒!税金泥棒!!」
「は、離して……く、くるし……」
「あんたらはいつもそうよ!弱い者に寄り添うふりして!どうせ権力者とか金持ちの味方なんでしょ!あのおやじが土地持ちだから手を出せないんでしょ!国家の犬!ブルジョアの狗!!」
薫子は巡査長の首をますます強く締めた。
「し…し……死む……しむ……こ、こ、こ、ころ、ころさないで……」
あわや諸田巡査長の意識がどこか遠くへ飛んで行ってしまいそうになったその時、奥の部屋で休憩していた長身の若い警官が姿を現した。
「な、なんの騒ぎですか?どうしました?え、なに、この状況!?」
奥から出てきた灰谷巡査は、いかつい諸田巡査長がひとりの女性に首を締めあげられている光景を見てたじろいだ。
「は、は、はひたに……た、たひゅけて……」
諸田巡査長は手を伸ばして後輩に助けを求めた。
「せ、先輩!大丈夫ですか?奥さん、奥さん!?落ち着いて!落ち着いて!!」
「あぁん?」
薫子は八王子あたりを根城とするレディースの総長のような鋭い表情で灰谷の顔を睨みつけた。だが、
「ま」
彼女は灰谷の、仔犬のようにクリッとした瞳、高すぎず低すぎない鼻、ぽってりとした少し厚い唇によって構成された、斎藤工のようなフェロモン全開の整った顔立ちに気づくと、一瞬にして乙女の表情に戻った。
「ま、まあ、やだ、私ったら♡」
「な、何があったんですか?事件ですが」
「い、いえ、事件ってほどでは♡」
薫子は諸田巡査長の襟を離し、その場にどさりと落とした。床に尻もちをついた諸田巡査長はげほげほと咳をした。
「あ、でもぉ、聞いてくださぁい♡ひどいんですよぉ♡」
諸田巡査長は、薫子には聞こえないくらいの声で、あんたのがひどいよとつぶやいた。
「あのぉ、3丁目にある公園の隣りにぃ、変なおじさんがいるでしょおぉ?♡そのおじさんがぁ、うちの息子が2時間も拘束したんですよぉ♡」
「なるほど、それはひどい。あ、でも、3丁目公園ってことはもしかして透さんじゃないですか?」
「んー、そうなんですぅ♡私もさっき会ってきたんですけどぉ、全然話しにならなくってぇ♡なんであんなぁ、有名で危険な人を放置するんですかぁ♡」
「いや、透さんは危険な人ではないんですよ。いや、まあ変と言えば変ですけど。でも真っ直ぐな人で、悪いことした子どもは他人の子でも叱りつけるんです。僕もこの町で育ちましたからね、よく叱られましたよ」
「えぇ~?♡」
俺もさっき言ったじゃんと諸田巡査長がまたつぶやいた。
「それはそうと奥さん、お若い。とてもお子さんがいるようには見えないですね」
天然チャラ男性質の灰谷巡査はなんの裏もなくそんなことを平気で言う。
薫子は「ま♡」と顔を上気させて青年警官の左胸をぽんぽんと叩いた。
「ママ!」
「ママ!!」
交番にミノルと郁雄が駆け込んできた。
「あら、パパにミッちゃん、どうしてここがわかったの?」
「何言ってるの。ミノルといっしょにママを探してたら、声が聞こえたんだよ。だいぶ遠くまで。住民運動でも起こってるのかと思った」
郁雄が汗をびっしょりかきながら言った。
「あ、あらそうなの?やだ、ご近所迷惑だったかしら」
灰谷巡査がいるので、薫子は頬に両手をあてて恥じらうポーズをとった。
「あ、あの、大丈夫ですか?うちの妻が何かご迷惑を」
郁雄が床に座り込んでいる諸田巡査長と灰谷巡査を交互に見ながら言った。諸田巡査長は胸元を直しながら立ち上がり、郁雄をきっと見つめた。
「旦那さんですか。そりゃあ、あなた迷惑なんてもんじゃ……」
「いえ、全然問題ありません!」
灰谷巡査が先輩の言葉を遮った。
「奥様のお話はよくわかりました!3丁目の透さんですが、確かに少し今回はやりすぎのようです。明日、本官の方から注意しに行きます!」
「まぁ♡ホントぉ?♡ありがとう、お巡りさん♡」
「なに、なに?なんなの?トオルさんって誰?」
事情のまったくわからない郁雄に薫子は3丁目に変な人がいるのよぉとざっくり説明し、郁雄はそれだけでそうなんだぁと納得した。
「さ、ミッちゃん、ごめんね、ご飯途中だったわね、お腹空いたでしょ?帰ろうね」と薫子は、でも……と何か言いたそうなミノルの手を取った。
「じゃ、お巡りさん、明日よろしくねぇ♡」
薫子はミノルの手を引いて交番をさっさと出ていき、郁雄は慌てて2人の警官にお辞儀すると、妻の後を追った。交番は嵐が去った後のように、いっきに静かになった。
「さて、どうします?先輩?」
ニコニコと調子のいい笑顔を浮かべて、灰谷巡査は椅子を直している諸田巡査長に声をかけた。
「あ?」
椅子に座り直した諸田巡査長は不機嫌そうに後輩の顔を見た。
「いや、透さんの件ですよ。明日やっぱり行った方がいいすかね?」
さっきのはっきりした宣言はどこへやら。灰谷巡査は急に受け身になって先輩に指示を仰いだ。諸田巡査長は呆れた。
「いいすかねってお前、お前が自分から行くって言ったんだろうが」
「いやあ、さっきはついああ言いましたが、僕、実は透さん苦手で。子どもの頃けっこう叱られて……」
諸田巡査長はただでさえでかい口をさらにぐわっと開いた。
「透さんが得意なやつなんているか!それにお前が叱られるのももっともだ!適当なことばかり言いやがって!とにかくちゃんと行け!自分の発言に責任持て!もう一回トオルさんに叱ってもらえ!」
「そんなぁ」
「そんなぁ、じゃねえ!」
警官たちが言い争っていると、帰ったはずのミノルがおそるおそる交番に顔を出した。
「あの、お巡りさん」
「ん?ああ、さっきの坊主じゃないか。どうした。忘れもんか?」
諸田巡査長は灰谷巡査に向けていた怒りの顔を元に戻して、ミノルの方を向いた。
ミノルはふるふると首を振った。
「あのね、明日おじさんを怒りに行くの?」
諸田と灰谷は顔を見合わせた。
「おじさんて透さんのことか?」
ミノルはこくんとうなずいた。
「どうしてそんなことを聞くんだ?」
「えっと、あの、その、おじさんはね、悪くないんだ。悪いのは僕たちなの。サッカーやってたら、ボールをおじさん家に蹴り飛ばしちゃって……」
「そうか、すぐ謝りに行かなかったんだろう?」
ミノルは、なんでわかるの?と驚いた顔をしつつうなずいた。諸田巡査長は昔、野球ボールでトオルおじさん家のガラス窓を割って叱られたことを思い出した。
「それで?お前はどうしたいんだ?」
諸田巡査長がごつい顔に似合わない優しい目でミノルの顔を見ながら尋ねた。
「あ、あの、えっと」
「ん?」
「あ、謝りに行きたい」
「うんうん、そうかそうか」
諸田はゴツゴツした手で荒っぽくミノルの頭をわしわしとなでた。
「お前いい子だな。よしよし。謝りに行くのは明日か?土曜日だから学校は休みだな」
「うん」
「よし、安心しろ。このお兄さんがいっしょに行ってくれるから」
諸田巡査長は親指で後ろにいる灰谷巡査を指差した。
「ちょ、ちょっと先ぱ……」
灰谷巡査を無視して諸田巡査長は続けた。
「明日朝の9時にここへ来られるか?」
「うん」
「よし、決まりだ」
その時、ミッちゃーーーーーんと呼ぶ薫子の声が聞こえた。
「あ、ママが呼んでる」
「おう、じゃあ戻りな。また明日な。ちゃんと来いよ」
「うん!お巡りさん、ありがとう!」
ミノルは2人の警官に手を振って両親のもとへ駆けていった。両親の元についたミノルはもう一度振り返り、交番の前に出て見送る諸田巡査長に手を振った。そんな巡査長に灰谷巡査が不満そうな顔をして近づいた。
「先輩、ちょっと、なんで勝手に……」
「うるせー、ばかやろー!」
(続)
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