猛スピードで母は
薫子は陸上部だったときの健脚を活かし、現役時代さながらの速さで3丁目公園の隣りの家へ向かった。
「ここね」
家の玄関の表札に「透」と書かれているのを確認すると、薫子はつかつかと中へ入り、息を整えて玄関横のインターホンを押した。
ピンポーン
『はい』
トオルおじさんの声がインターホンを通した機械的な音声で返ってきた。
「森下と申しますが」
少し気持ちを落ち着けた薫子は、よそ行きの声で、しかしかすかに怒気を含ませた声で言った。
『何用ですかな?』
「あの、今日、息子がご迷惑をかけたようで」
「……いま行きます」
少しして玄関の明かりがぱっと点き、トオルおじさんがガラスの戸をがらがらと開けた。
「透です」
トオルおじさんは恭しく頭を下げた。ミノルと同じように、もっと荒々しく傲慢で話の通じなさそうなおやじをイメージしていた薫子は少し気後れしたが、同じように頭を下げて、
「森下です」
ともう一度挨拶をした。
顔を上げたふたりはどちらかが話を切り出すだろうと思いながらしばらく黙っていた。トオルおじさんは自分より少し背の高い薫子を見上げていた。
「あの」
薫子がようやく口を開いた。
「今日は息子がご迷惑をかけたそうで」
先ほどインターホン越しに言った言葉を、薫子は頭を下げて繰り返した。
「いや、たいしたことではない」
「割ったのはガラスですか?弁償します」
「いや、まあ、盆栽なんだが、いや、しかし、結構」
トオルおじさんは手を前に出して薫子の申し出を断った。
「そういうわけにはいきません。弁償します」
「いや、本当に結構」
「そういうわけにはいきません」
薫子はきっとトオルおじさんの顔を見つめた。
「だって……弁償しないと、返してくれないんでしょう?」
「ん?」
トオルおじさんは首を傾げた。
「息子から取り上げたサッカーボールですよ。ちゃんとお金は払いますから、返してください」
薫子の言葉を聞いてトオルおじさんはしばらく顎をなでていたが、やがて口を開いた。
「なにか勘違いをしとりゃあせんかね?わしは何も金を払ってもらいたいわけではない」
トオルおじさんはゆっくりと薫子を諭すように言った。だが薫子は表情をますます厳しくした。
「じゃあどうして、サッカーボールを取り上げたりしたんですか?息子を2時間も拘束して」
「拘束などしとらん。ただ叱っただけじゃ」
「2時間ですよ!?息子がなかなか帰ってこないから、通り魔に刺されたんじゃないかとか、誘拐されたんじゃないかとか、川に落ちたんじゃないかとか、本当に心配で心配で、死にそうだったんです!」
薫子は少しずつ感情を高ぶらせていたが、一方のおじさんは冷静だった。
「しかしね、あの子は家へボールを蹴り入れておいて、一言も謝らんかったんじゃよ。それどころかわざとじゃないからボールを早く返してくれなどと言う」
「だって、本当にわざとじゃないんでしょう!?」
「わざとじゃなければ、したことのすべてに謝らなくていい、ということにはならんじゃろ」
「だから!私がこうして謝りに来ているじゃないですか!盆栽も弁償すると言っているのに!」
薫子は実際めちゃくちゃなことを言っているのだが、これほどまでにミノルを庇うことには理由がある。
ミノルはかつて小児喘息を患っていて、夜中に呼吸困難になるほどの咳をしては飛び起き、これまでに入院を何度もしていた。
小学校に上がってようやく喘息の発作は治ってきたものの、そこまで無事に育てるまでに薫子は色々な病院を探したり、様々な治療法を試したりして、随分と苦労をしてきた。大事に大事に育ててきたからこそ、必要以上に守り過ぎてしまうようになっていた。
ふぅ、とトオルおじさんは溜め息をついた。
「あんたが謝りに来てもしょうがないんじゃ。ちゃんと本人が来ないとな。自分のしたことには自分で責任を持たなければならん」
「だって、まだ子どもですよ!」
「早すぎることなどないわい。『責任を持つ』というのは言うは易いが、行うのは難い。大人になってからでは遅いんじゃ」
「だからって……」
「とにかく」
興奮する薫子の言葉を、トオルおじさんは遮った。
「息子にちゃんと謝りに来させなさい。そうしたら、ボールは返す」
そう言ってトオルおじさんは家の中へ戻って行こうとした。
「ちょっと!いま返さない気!?泥棒じゃないの!出るところへ出るわよ!」
「勝手にしなさい」
トオルおじさんは後ろ手で玄関のドアをがらがらぴしゃんと閉めた。
「ちょっと待ちなさいよ!ちょっと!」
薫子はガラス戸をがしゃがしゃ叩いたが、トオルおじさんは一切出てくることはなかった。
頂点に達した怒りを抑えきれず、薫子は玄関を出ると、再び猛スピードで別の場所へ向かって駈け出した。
(続)
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