(2)エリス。争い、或いはそれを呼ぶもの。

 獣が、息づいている。



 夜に沈んだ煉瓦の街並みを、下弦の月が照らしている。

 アレハンドロ市は、森のただ中に拓かれた都市だ。市壁の外はちらほらと農村が点在しているにせよ、ほとんどが森に囲われている。

 すっかり日が沈んだ時分に、西の森の奥、馬車道からも離れた木々の間を、一人歩く影があった。

 マチアス・トー。街で計算を教えている男だ。皺の刻まれた顔は緊張で強ばり、神経質な目つきで周囲を見回している。

 右手にランプを下げていたが、夜の森を歩きつけないのか歩みは覚束なかった。ときおり木の根に足を取られて、その度に小さな火が大きく揺れる。

 ふらふらと危うい足取りで、けれど何かに追い立てられるように男はせかせかと歩みを進めていた。よろめきそうになっても、無理に次の足を出す。

 追い立てられるように、もしくは何かから逃げてでもいるかのように。

 何度か、何かを確認するように後ろを振り返る。誰もいないと判ればほうと安堵して、また歩き出す。

 木々の梢の間から、僅かばかりの月明かりが差し込んでいる。風が梢を揺らすたびに、地に落ちた影が揺らぐ。

その影に怖じ気づいたようにたじろいで、マチアスは自分の足下を睨むようにして足を動かした。男の後ろを、ランプの炎によって生み出された彼の影がひたひたと追いかける。

 獣道を強引に突き進んでいたマチアスの視界が、急に開けた。それまで木々に遮られていた月の光が開けた空間を照らし出し、しかし表れた光景の不気味さにこくりと息を飲む。

 眼前に聳えているのは、大きな、けれど造りだけならば市内にあるものとそう変わらない木組みの建物だった。木と木の間を塗り壁が繋いで、その中に窓がはめ込まれている。造りだけならば何らおかしなところのない建物は、けれど一目見れば異様であることがすぐに判った。

 随分と古い、建物だった。

 元は白かったのだろう壁は黒ずんであちこちがひび割れ、そこを補強するように、もしくは更に浸食するように、表面を蔦が覆っている。冬の冷たい風を受けて、枯れた葉がはらりと落ちる。

 かさかさ、と蔦と葉が擦れ合って、乾いた音を立てた。

 建物は二階建てで、横に長い形をしていた。外から窓を数える限り部屋数は多く、環境はともかく何人も同時に住むこともできなくはないだろう。

 窓のほとんどは破られ、あるいは木の板や石灰で塞がれていた。まともに窓の機能を保っていそうなのは、上階の端にある一室だけだ。

 あまりの異様さに、マチアスの足が止まった。踏み出そうとした足は、躊躇ったように動かない。

 人影はない。鳥の影も、他の獣の影も。

 風が木々を、蔦を、梢を揺らす音ばかりする中で、何故か獣めいた気配だけが奇妙に色濃く満ち満ちていた。

 すん、と鼻から息を吸った。

 獣の姿などどこにもない。けれど気のせいか、風の中に獣臭さが混ざる。

 しばらく、躊躇った。足を踏み出そうとして止め、諦めて踵を返そうとしてそれも踏み止まる。

 そうやって随分と長い間悩んでから、マチアスはようやく建物に向き直った。そろり、と近づく。一歩間違えば奈落の底に落ちるとでもいうかのように、爪先で地面を擦りながら。

 やはりどこか尻込みしながら、玄関らしき扉を開ける。扉は古びて、マチアスの手にざらりとした感触を伝えてきた。

 いよいよ、この建物に本当にひとがいるのか不安になってくる。マチアスは、この建物の住人に用があるのだ。

 かさり、とマチアスの後ろで何かが音を立てた。その音に背中を突き飛ばされたように中に滑り込む。

 建物の中にランプはなく、破れた窓から差し込む月の光が辛うじて廊下を照らしていた。

 自分の前に手持ちのランプを掲げて、足先で探るように進む。玄関から上がって、廊下は左側に長く伸びているようだった。

 右側はすぐ壁になっている。先ほどの外観を思い出して、奥に踏み込んだ。

 外から見たとき、一か所だけ窓が無事な部屋があった。二階の、一番端の部屋。位置でいえばちょうど今いるほぼ真上。

 誰かがいるとすれば、恐らくあの部屋だろう。

 廊下の右手には窓、左手には部屋が並んでいる。足を進めるたびに、じゃり、と何かを踏んだ音がする。さっとランプの光を当てれば、土や落ち葉が板張りの廊下に溜まっているようだ。破れた窓から入り込んだのだろう。

 扉が開け放たれたままの部屋もあって、ちらと横目で確認すればその中も荒れ果てているようだった。ふらとランプを持ち上げても、土と落ち葉と廃材ばかりが転がっているのが確認できるだけだ。

 こんな場所に、本当に誰かが住んでいるのだろうか。

 ふと疑念がよぎって、マチアスは慌てて首を振った。もしも聞いた話が嘘であれば、わざわざこんな、夜も更けた時間に森の奥まで足を運んだ意味がなくなってしまう。

 マチアスがここを訪れたのは、ある噂を聞きつけてのことだった。拭えぬ不安に、藁にも縋る思いで噂を頼った。

 アレハンドロの中央街、とある酒場で一人飲んでいたマチアスの耳に、するりと滑り込んできた噂。

 ――西の森の奥深くに、とびきり腕の良い占い師がいるのだという。

 請われて詳しいことを教えてくれた男の顔も、声も、すっかり忘れてしまった。けれど占い師の居場所と、夜に訪うべしという言葉だけははっきりと覚えている。それも、下弦の夜が好ましい。下弦の夜は、占い師の機嫌が良いから。

 廊下の端まで渡りきって、階段をのぼる。ぎしり、と足元から、今にも床が抜けそうな音がする。木が腐っているのだ。

 祈るような思いで木板を踏みしめた。駆け上がりたいのを堪えて、震える足で、一段ずつ。

 上がった先の二階も、階下と同じような状況だった。

 恐る恐る、けれど足早に進む。多少足に何かが当たっても、無理矢理に意識の外から追い出した。

 ふらり、ふらりとランプが揺れる。ふと、油の残量が気になった。用件を終えて森を抜けるまで、もってくれるだろうか。

 一番奥の部屋にたどり着いて、ようやくマチアスは体中に不自然に入っていた力を少しだけ抜いた。木製の扉はここだけ新しく、少なくとも他の部屋と違うことは確信できた。汗まみれの手で取っ手を掴む。

 強く、獣が香った。

「――!」

 一思いに扉を開けた。開けてから、ノックも何もしていないことを思い出す。噂では占い師は女性だという。慌てて謝罪しようと顔を上げて、マチアスは言葉を失った。

 扉の向こうは、生活空間になっていた。天井と壁に複数のランプが置かれて、部屋全体を照らしている。

 天蓋つきのベッドと、建物の外観からでは想像すらできない豪奢なカーテン。板張りの床は綺麗に磨かれている。そして完璧に整えられた寝具の、真っ白なシーツの上で――。

 ぞろり、と赤がうごめく。

 赤はずるずると移動し、マチアスが呆然と見守る中で寝具の中に収まった。そのまま沈黙するかに思われたが、しばしして掛布の山がもぞりと動く。

「……ちょっと、煩いわ……」

 言葉を発するもののいない空間に、女の声だけがぽとりと落ちる。低く、嗄れた声だった。

「……仕方ないわね……」

 それからしばらくして、諦めたように掛布が持ち上がった。気だるげに女が身を起こす。

 片足どころか、腰まで棺桶に浸かっているような女だった。

 年は二十代の後半か、三十代の前半といったところか。どろりとした血溜まりめいた赤い髪に、闇を閉じ込めたような夜の色の瞳。肌の色は青白いを通り越して、土の色に似ている。

 マチアスは唾を飲み込んだ。彼女こそ、マチアスの会いたかった占い師だった。

 名を、エリス。占い師エリス。彼女はこうあだ名されている。

 《女皇》エリス。

 エリスは、黒のワンピースから伸びた枯れ木のような腕を持ち上げた。鬱陶しげに掻き上げた長すぎる髪が指に絡む。それに彼女は、顔を顰めたようだった。

 そこでようやく、何かに気づいたように。

「……あら、お客人ね」

 ぐるりと、人形か、もしくは鳥のような動きでエリスが首を回した。夜色がマチアスを捕らえる。

 油断すればあっさりと深みに引きずり込まれそうな瞳だった。

「――すまない、突然の訪問をお許し頂きたい。実は、折り入って相談があるのだ」

 上がりかけた悲鳴をなんとか喉の奥に殺して、マチアスはそう言った。ぱちりとエリスが瞬く。言葉は返らない。

 聞こえなかったのだろうか。マチアスが再度口を開いたと同時、エリスが首を傾げる。

 ことり、とやはり作り物めいた動きだった。

「いいえ、アタクシは知っていたわ。そこに――」

 つい、と細い指がテーブルの上を示す。化粧気などなさそうな風体なのに、爪は全て綺麗な赤で塗られている。

 示されるまま視線を動かせば、部屋の中央に置かれたテーブルにワインが用意されていた。グラスは二つ。どちらにも均等にワインが注がれ、口がつけられた様子はない。

「飲み物を用意したのよ。けれど貴方が来るのがあんまりにも遅いから、うっかりうたた寝をしてしまったわ」

 うふふ、と陰気に笑う。ひとの笑う顔とは、こんなに寒々しい、怖気の走るものだっただろうか。

「棺桶を買いに来たのね。色は何色が良いかしら。赤? 黒? 革張りも素敵ね。せっかくの晴れ舞台ですもの、とびきりの装飾を施さなければいけないわ」

 歌でも唄うようにそう言って、エリスはぞろりとベッドから降り立った。

 長い髪が流れる。

 赤く、赤い。

 冗談じみた赤い髪。

 赤い髪の下で、喪服めいた黒がそこだけは空気を孕んだようにひらりと揺れる。

「……だから、良いワインを開けたのよ」

 うふふ、と笑う。陰気に笑う。ぬらりと笑う。

 生気というものをごっそりと、どこかに取り落としたような表情で。

 マチアスには、エリスの言葉がほとんど理解出来なかった。気づいたときには、エリスは椅子に座っている。

 向かいの椅子を手で示されて、彼は真っ白な頭のままワインが用意されたテーブルの前に腰を下ろした。ほとんど無意識のうちに、かた、とランプを足元に置く。

 改めて向かい合えば、そこでようやくマチアスは自分の目的を思い出した。粘つく唾液を無理に飲み込んで、口を開く。

「相談がある。聞いて貰えるだろうか」

「もちろん。ここは貴方のための席よ、マチアス・トー」

 名を言い当てられて、びくりと肩が跳ねる。仕切り直すように咳払いし、彼は本題を切り出した。

「……妻が、私の不貞を疑っている。妻が思い込みの激しい女でな、この前などナイフを向けられたのだ」

 このままではいつか殺される気がする、と。

 言葉少なに語る男の言葉に、エリスが笑い出した。

「あら」

「……何が可笑しい」

「ごめんなさい」

 ふふ、と未だに笑いの余韻の残る表情で。

「疑うも何も、本当のことじゃありませんの。それに少し、遅かったようだわ」

「なんだと――」

 立ち上がりかけたマチアスの視界が、ぐらりと揺れる。

 ぞわ、と全身の毛が総毛立った。判らない。判らないが、――何かがもう、手遅れなのだと感じた。

 もう、どうにもならないと。

 何か、取り返しのつかないことが起きた。それも、致命的な。

 言葉を途中で止めた客人を、向かいに座る占い師が斟酌する様子はない。

「夕方に食べたパイは美味しかった? 兎のパイだわ。丸くて、よく焼けている。四つに割って食べたのね」

 つい、とエリスが手を伸ばす。

 ワインの入ったグラスをすくい取って、エリスはゆらと揺らした。その液体の動きを見ているだけで、猛烈な吐き気がこみ上げる。

 マチアスの視界が明滅する。ぐらりと揺らぐ。世界ではなく自分が傾いているのだと気づくと同時、完全に視界が黒に染まった。

 意識が落ちる寸前、ざらりとした声が耳の奥に響いて、消えた。

「ねえ、奥様お手製の毒入りパイは美味しかったかしら?」




 がたんっ、と。

 揺れた体が、椅子ごと床の上に倒れ込む。ごろりと転がった男は、既に息をしていない。

 強く、獣が香る。

 エリス以外に生きるもののいなくなった部屋の中で一人、囁くような声で彼女は言った。

「――番犬、アタクシの可愛い番犬」

 ふら、と椅子から立ち上がる。

「このままでは悪くなってしまうわ、ご家族にお返ししてくださる? 殺してしまうほど愛していたのだもの、きっといなくなって心配しているわ」

 覚束ない足取りで部屋を横切る。壁際に立てかけられた等身大の鏡の前で立ち止まって、エリスは微笑んだ。

 屍肉が緩んだような笑みだった。

 鏡の中では、全身を血に染めた女が微笑んでいる。この鏡は、未来に起こることも起こらないことも過去に起こったことも起こらなかったことも、何もかもを一緒くたにして映し出す。エリスの世界と同様に。

 その奥に見覚えのある誰かの背中が映ったような気がして、エリスは瞬いた。視界に映ったのは一瞬だったけれど、知っている背中だった。遠い昔、まだ幼かった頃に見た背中。ほんの短い間を、ともに過ごした男。

 ぞろ、と後ろで気配が蠢いた。ずるりと重いものを引きずる音がする。そちらには興味を惹かれた様子もなく、エリスは鏡の中を追った。

 既にどこかに紛れ込んだ背中を探しながら、一人の女を思い出す。

 ルネ・プリンセッセ。美しく、美しく、美しい《月》。《弓張り姫》と呼ばれた女。

 男はいつも、かの魔女を追いかけていた。

 随分と昔のことで、もう男の顔も、声も、どんな人間だったかも覚えていない。けれど確かに、彼とエリスは似ているのだ。まるで双子のように。

 《月》に魅入られて、《月》に囚われて、逃げ出す気もない。

 《月》。《弓張り姫》。ルネ・プリンセッセ。エリスの絶対にして唯一。エリスの全て。エリスの世界。

 彼女にとって、美しいものはただの一つだ。美しいひとはただの一人だ。

「そして美しいことは、恐ろしいことよ」

 ぽつり、呟く。それはエリスにとって、あやふやな世界の中で数少ない、疑いようのない確信だった。

 ぴしり、と音がして、彼女は視線を鏡の表面に戻した。鏡に、つい先ほどまではなかったはずのひびが入っている。鏡の真ん中。ちょうどエリスの胸の上。

「――あぁ、」

 浮かんだ名を呼ぶよりも早く、背後でどさりと何かが落ちる音がした。ざわり、森が鳴く。棺桶の蓋が開く。

 《女皇》。気高くあれ、とルネ・プリンセッセがエリスをそう呼んだ。だからエリスは、その名を己に課している。

 死を運ぶ《女皇》。

 エリス。争い、或いはそれを呼ぶもの。


 ふわ、と残り香のように、パイの匂いが香って、獣の匂いに混じって、消えた。

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