一章

(1)殺し屋ルネ・プリンセッセ。

 ぱ、っと。

 赤い花が散った。赤くて、生温くて、芳しくて、錆びついている。赤くて、赤い花だ。

 あの日と同じように。あるいは、いつもと同じように。

 夢の名残に似た赤い花。

 脳裏に浮かびそうになった光景を、アーメは首を振って追い払った。纏わりつこうとする幻から眼を逸らし、外界に意識を向ける。

 途端に、風の冷たさを思い出す。は、と吐き出した息が白く凍った。冬も随分と深まった季節、当然ながら夜は凍えるほど寒い。

 気休めと知りつつ、冷え切った自分の手に息を吹きかける。成長途中の、まだ頼りない少年の手だ。

 こんないかにも物騒な場所からはさっさとお暇して、暖かい暖炉にあたりたい。そう思いながら、アーメは眼の前の光景に視線を向けた。

 薄暗い、路地裏――だった。両脇の白壁は薄汚れ、足下の煉瓦はひび割れている。

 月の光は煉瓦までは届かず、僅かばかりの残光の中では互いの顔もろくに判らないだろう。アーメが周囲を見通せているのは、ルネにかけられた魔術があるからだ。

 かつては他と変わらない街だったのだろうが、自警団の眼を盗むように少しずつ少しずつ治安が悪化していき、今ではすっかりまともな人間は近寄らなくなった地域だった。まともな人間が近寄らないということは、逆に言えばまともではない人間にとっては絶好の環境ということだ。

 例えば、彼らのように。

「……、」

 ちら、と薄汚れた壁に眼を向けた。

 先ほど飛び散った血が壁をまだらに染め上げている。そのまま壁に視線を這わせれば、ちょうどずるずると事切れた男がずり下がっていくところだった。

 ラザール・コロワ。貧しい人間に高利で金を貸し付け、代わりにと巻き上げた品を金持ちに売りつけていた。彼のせいで人生を壊された人間から入った殺しの依頼は、仲介を通してルネに届いた。

 殺し屋ルネ・プリンセッセ。

 アーメの養い親である女に。

「………、」

 頬に散った赤を、アーメ・サバンツは苦い顔で拭った。その様子を見ていたように、後ろからからかうような言葉がかかる。

 呆れるほど耳に馴染んだ声。彼女に拾われてから十年、聞き続けた音色。

「危ないなあ、アーメ。油断大敵だよ」

「――ルネ」

 振り返って、その名を呼んだ。何を言われたのか判らず、一瞬混乱する。

 ふふ、とルネが笑う。たった今、アーメの肩越しに人の命を奪ったとは思えないほど、邪気のない笑顔だった。

 出会ってから寸分も違わぬ美貌に、人里離れた森を湖に映したような瞳。黒檀に似た長い髪に、降り積もったばかりの雪のような肌。

 酷く、美しい女だった。

 無防備に突っ立っていたアーメに襲いかかってきたラザールから守られたのだというのは、遅れて理解した。礼を言うべきか迷って、口を噤む。

 ふるり、と背が震える。ラザールに対してというより寧ろ、ルネに対する畏怖であり恐怖だった。

 彼女は、仔猫に餌を投げ与えるのと同じ表情でひとの命を奪う。

 ルネ・プリンセッセ。

 死を纏う女。

 あまりに美しい不吉。

 すっと背筋を伸ばしてただそこに佇んでいるだけで、どうしようもなく視線を奪われる。どうしようもなく、逆らいようもなく。

 ひとが、夜に月を見上げずにはいられないように。

 右手には透明な剣を握っている。彼にとっても見たことのある得物だった。透明な、氷で作られた剣。

 ルネが血のこびりついた剣を軽く振ると、一瞬で血が消え去る。汚れた刀身を一度消して、再度氷の刃を生成しているのだ。アーメの知る限り、ルネは最も優れた魔術の使い手だった。

 ととん、とルネが踊るようにステップを踏んだ。今日は随分と機嫌が良いらしい。

 否、本当はこれ以上なく不機嫌なのかも知れない。ルネの機嫌など、アーメには推し量りようがない。

 地獄のように美しい女だった。

 紺のドレスに、エメラルドグリーンのヒールが映える。薄暗い路地裏が、一瞬で満員の舞台上に変わる。ルネのいる場所だけ、照明でも浴びているかのようだ。

 無意識に首筋をなぞった。微かな痛みが走る。眼の前で崩れ落ちた男につけられた傷だ。

 ルネが動くのがあと少しでも遅ければ、男のナイフがアーメの首筋を深く切り裂いていたかも知れない――。考えて、アーメは嘆息した。楽しくない想像だった。

 首から手を離して、ざっと辺りを見回す。本日の標的は、今の男が最後だったはずだ。

 ルネとアーメの周りには、四人の男女が倒れ伏していた。頭と胴体が泣き別れしている女が一人、胸をばっさりと切り裂かれた男が一人、腹から臓物をはみ出させている男が一人。そして最後に、心臓を正確に貫かれた男が一人。

 オドレイ・バロー。男を籠絡し、何の価値もない石ころを高値で買わせることに長けた女。

 ロイク・ジッド。オドレイと共謀し、安い石をさも高価であるかのように喧伝していた男。

 シザール・コロワ。ラザールの弟であり、獲物になりそうな男を見つけてはオドレイと引き合わせていた。

 ラザール・コロワ。前述した通りの高利貸し。

 一人一人、渡された情報と眼の前の光景を頭の中で照合した。そんなことをしなくても、ルネの仕事に抜かりはないのだろうが。

 もはや死んでいることは疑いようもなかったが、それでもアーメは一人一人、口元に手をかざして呼吸が止まっていることを確かめた。最後の一人の瞼を下ろして立ち上がったアーメに、楽しげな声がかかる。

「やっぱり躊躇うねえ、アーメ」

 とろりとした声だ、と思った。沼のように甘く、蜜のように底がない。

 ルネの美貌は変わらず笑みを作っていたが、やはり彼女が何を考えているのかアーメには判断出来なかった。

「……何をだよ」

 答えは判っていたが、それでもアーメはそう問うた。叱られて無意味に反抗する子どものようだ、と自分で思う。

「殺すことを躊躇っただろう? ダメだよ、そんなことじゃあ。殺されそうになれば――」

 剣を消した手で口元を隠して、秘密を囁くように。

「誰だって反撃するし、殺される前に殺そうとする。君に幾らか心得があると言ったって、怪我をしてしまうよ」

 ふわりと夜の風に攫われるドレスには、もはや血の名残もない。先ほどまで確かに、返り血に濡れていたはずなのに。

 辺りにはどろりとした血の臭いがそこかしこにこびりついている。薄汚れた路地裏で、ルネの姿はうっかり迷い込んだ娘のように場違いに見えた。

 足下に転がる四つの死体は、明日の朝か、早ければ今夜中にでも誰かが見つけるだろう。自警団に出くわす前にこの場を離れなければならない。

 内心少しばかり焦っているアーメに反して、ルネはのんきなものだ。急いだ様子もなく、ふらりと大通りに向かって歩き出す。

「あぁ、見なよ。良い月だ」

 そう、《月》が嘯く。

 気づけば、ちょうど建物と建物の間を縫って月の光が路地裏を照らし出していた。やや距離を置いてルネの後を追うアーメの前に、影が伸びている。

 ルネの影だ。

 一瞬その影が笑ったように見えて、アーメは眼を逸らした。本当に笑ったのかも知れないし、勘違いかも知れない。どちらにせよ、大した意味はない。

 意識を前に戻した瞬間、アーメは驚いて動きを止めた。いつの間に立ち止まったのか、触れそうな位置でルネが佇んでいる。

「ルネ?」

「怪我をしたの? 気づかなくて悪いね、痛そうだ」

 するり、と細い指が首筋を撫でた。他人に急所を触られたことに驚いてか、それとも単純にその指の冷たさにか、アーメの肩が跳ねる。

 慌てて距離をとったが、動揺が落ち着けばすぐに気づいた。先ほどまでじわじわと感じていた痛みが消えている。

 ほんの一瞬前まで傷があったはずの場所をなぞれば、そこにはただ滑らかな肌の感触があった。

 アーメが反応に迷っている間に、ルネはまたさっさと歩き出してしまう。諦めて、彼は女の背を追いかけた。アーメが礼を言おうと、言わなかろうと、あるいは余計なことを文句を言ったところで、ルネは何も気にしないだろう。

 彼女は、仔猫の首を踏みつぶすのと同じ表情でひとの傷を癒やす。少なくとも、アーメにとってルネ・プリンセッセとはそういう女だった。

「人を殺すことは恐い? 迷うのは悪いことではないけれど、結論を出すのなら早めに出してしまいなさい」

 アーメに背を向けたまま、ルネが言う。優しさと、慈しみと、気遣いだけで構成された声音で。

「ひとを、ころすことを――」

 そこで、彼女は言葉を切った。路地裏を抜けて人気のない通りに出る。追いついて横に並んだアーメを、ルネが見上げてくる。

 ――この十年で、アーメはルネの背を追い越した。かつて見上げていた翡翠が、今は見下ろす位置にある。

 ルネと出会ったのは、アーメがまだほんの幼かった頃。

「学びたいと言い出したのは、君なのだから」

 歌うようにそう言って、ルネは前触れもなく駆けだした。

 ととん、とまた数歩ステップを踏んで、くるりと回る。ふわりとスカートが広がる。紺に僅かに混ざる金が、きらきらと光を反射する。

 夜風にぬばたまの長髪が靡く。同じように風を受けて、褪せた金の髪が少年の頬を叩いた。

「ねえ、アーメ」


 魔女が微笑む。《月》が嗤う。《月》の後ろに、月が浮かぶ。

 《弓張り姫》が、嗤う。


 半円の月。

 下弦の月。

 《月》が口を開く。

 次に続く言葉を、アーメは知っていた。

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