弓張り姫

伽藍 @garanran

弓張り姫

序章

(1)それは、あまりに美しい不吉だった。

 それは、あまりに美しい不吉だった。



 アルノーは鬱蒼とした森が急に開けたのを感じて、足下に落としていた視線を上げた。

 目的地の市門を見つけて、ほうと安堵の息を吐く。冷たい空気に、息が凍った。

 小都市アレハンドロ。市壁の向こうでは赤茶の煉瓦道の横に木組みの家が並ぶ、近隣では最も大きな街だ。

 森の中を歩き続けて数時間、なんとか野宿にはならずに済みそうだ。旅慣れた男であるとはいえ、森がひとにとって危険な場所であることには変わりがない。

 辿ってきた道を振り返る。まだ明るい時分なのに、森の奥に行けば行くほど暗く、ひとを丸呑みにするべく口を開けてでもいるようだ。

 森は根本的に魔物の領域であって、ひとは油断をすれば簡単に惑わされてしまう。子どものころ、父母や祖父母に聞いた話を思い出して、アルノーは慌てて前に向き直った。

 空を見上げれば、片側が薄らと赤く染まり始めたところだった。この分ならば完全に日が暮れる前に寝床を探して、酒場にでも繰り出せるだろう。

 残り僅かの道を抜けてしまおうと荷物を背負い直したところで、アルノーはふと眉を寄せた。

「……ん?」

 有事の際には固く閉じられるのだという市門は、このところは騒ぎも諍いもないからか見張りもなく開け放たれている。やや青みがかった鉄の門から、ふらりと出てくる影があった。

 市壁の外には全く人がいないという訳ではなく、壁にへばりつくようにして生きている乞食のたぐいや、薪を売る農村の人びと、道行く者たちに薬を作ってやっている賢い女性たちの姿も見える。門から出てきた人物はそれらには眼もくれず、真っ直ぐにアルノーの方に向かってきた。

 つまり、森の入り口へと。

「おいおい……」

 さらりと長い髪に、細い体。遠目にも女性だとはっきり判る。

 こちらに興味を抱いた様子はないから、アルノーに用がある訳ではないだろう。女一人で、森に何の用だろうか。それも、もう日が暮れるという時分だ。

 男が思案している間にも、女は迷いのない足取りで近づいてくる。何気なく彼女の顔に視線を向けて、彼は息を飲んだ。


 恐ろしく、美しい女だった。


 研磨した翡翠をそのまま嵌め込んだような瞳に、白魚めいた肌。唇は濡れたように赤く、朝露を受けた薔薇の花を思わせる。腰まで長いぬばたまの髪が、風を受けてさらりと揺れた。

 ひとたび舞台に上がれば瞬く間に金塊が積まれ、何人もの芸術家がモデルになって欲しいと足下に跪くだろう。けれど、どんなに腕の良い画家であっても、彫刻家であっても、彼女の美しさを表現することはできないに違いない。

 それほど、人外じみた美貌の女だった。

 思わず、足が止まる。あれほど際だって美しい女なのに、近くを横切った人びとが何の反応もしていないのが不思議だった。

 女はアルノーには気づいてもいないように、一切歩みを変えないまま森の入り口にさしかかる。

 ざわ、と森が鳴いた。まるで女を迎え入れるように。

 ぞわ、とアルノーの肌が粟だった。

 美しく、美しく、美しいはずなのに背筋が凍える心地がするのは、彼女が人間かどうかも怪しいほど、あまりに美しいからだろうか。

 近づけば近づいただけ、ますます整った顔立ちの女だというのが判るばかりだった。頬に散る紅はごく薄く、神か悪魔が造形したような鼻筋と目元に、秀でた額。瞬くたびに翡翠が隠れて、再び瞳が見えればそれだけで心が震えた。

 呼吸がどうにも苦しく、そこでようやくアルノーは自分が息を止めていることに気づく。はっ、はっ、と思い出した呼吸の音が、どうにも煩わしかった。

 年の頃は、二十代の半ばだろうか。それでいて、もう十も若い少女と言われても、老婆と言われても納得してしまいそうだった。彼女の美しさの前に、年齢など些細な問題ですらない。

 夜の闇を思わせる黒のワンピースに、毒々しいほど鮮やかで、それでいて染みこむように赤いピンヒール。冬も深まった季節に、信じられないような軽装だ。派手な装飾はしていなかったが、しなやかな腕に絡む細い金の鎖がやけに眼を惹いた。

 女が、――近づく。

 ひとの姿をしていたが、アルノーには彼女がひとかどうか判別できなかった。魔物はひとを模るとき、物事を思い通りに運びやすくするために美しい形を取ることを好むのだと聞いたことがある。

 女が、――近づく。

 ひとか、神か、悪魔か、――それ以外の魔性か。男の足は動かなかった。

 浅い呼吸を繰り返す男の横を、女が通り過ぎる。何事もなく、一瞥すら向けないまま。ふわり、と冷えた空気がアルノーの頬を撫でた。

 彼女の姿が完全に見えなくなってから、ようやく彼は我に返った。今から森に入るのでは、日が暮れる前に戻ってこられるか判らない。

 女がひとであるかどうかはひとまず置くとして、若い女が一人歩くには、夜の森は危険すぎる。魔物が息を潜めているし、物騒な輩だってうろついている。

 何より、光のない森の中はただ歩くことすら容易ではないのだ。

 そこまで考えてとにかく女を呼び止めようとアルノーは振り返り、動きを止めた。まだ暗くなるには幾らか時間があるというのに、ほんの数秒前にすれ違ったはずの女の背中がどこにも見当たらない。

 木々の間に細い背中を探そうとして、アルノーは首を振った。何の根拠もなく、もう見つからないだろうと思ったのだ。

 どっと全身が重くなった気がする。

 ――本当に、魔物のたぐいとでも出くわしたのかも知れない。

 考えてひとつ身震いし、足早に市門に向かって歩き出す。今日は宿を探して、すぐに寝てしまおう。

 いつの間に時間が経っていたのか、空の赤は随分と深まって日が暮れようとしている。いよいよ日が傾き始めれば、夜が訪れるまではあっという間だ。

 日が沈んでしばらくすれば、そろりと弓張りの月が顔を出すだろう。残照を慕って、縋るように。

 思い浮かべた下弦の月に重なるように、名も知らぬ女の美貌が脳裏に焼きついていつまでも消えなかった。




 ルネ・プリンセッセは、一人、すっかり日の沈んだ森の道を歩いていた。

 森に入る前はまだ明るかったが、日が沈んでからは一気に闇が深さを増した。月が昇るにはまだ少し時間がかかる。

 僅かな星の光もろくに届かない森の中で、ルネの足取りは軽く、迷いはなかった。馬車で通るにしても随分と乗り心地が悪いだろう道を、高いヒールで煉瓦道でも歩くように渡っていく。歩みに合わせて、暗色のワンピースがひらりと揺れる。

 肌が切れそうなほど冷えた風の中、女が纏う空気はそれよりもなお澄んでいる。苦労する様子もなく足場の悪い森を進みながら、ルネは不意に薄い唇を開いた。

 ぽつりとアルトが言葉を紡ぐ。

「……寒い」

 三日月の眉がきゅっと寄る。気候と服装を思えば当たり前の言葉を吐き出した彼女は、それまで堪えていたものが噴き出したように次々と文句を口にした。

「暗いし、寒いし、何より遠い。何だって、こんな森の中に建てたのだか。生きるっていうのはそれだけで不便だよね。どうしたってお金を稼がなくちゃいけない。こんな因果な商売からはさっさと足を洗って、何かの店でも始めるべきかな。どう思う、ハーゼ?」

 ルネはくるりと後ろを振り返ると、誰もいない空間を見てぱちりと瞬き、また前に向き直った。

「あぁ、そうだった。私のかわいい野兎はもういないのだったね」

 自分が一人であることを思い出したように口を閉ざし、ルネは右手で髪を流した。顔を上げた視線の先には、一件の建物がある。彼女の目的地だ。

 ここらの街では珍しい石灰の建物は、人が住むにしては随分と無骨で、愛想がなかった。近くには移動で使っているのだろう、馬が繋がれている。

 周囲に他の建物は見当たらない。それに満足したように、ルネは少しだけ笑った。

「うんうん、良い心がけだ。少しは『らしく』してくれなくちゃね」

 扉のベルを鳴らしてしばらく待つと、低い応えがある。

「なにか」

「ご機嫌よう、夜分に申し訳ないね。サバンツ博士と約束をしているのだけれど、入っても良いかな?」

 ちらりと扉を開けて顔を覗かせたのは、何人もの大人を一度に投げ飛ばしてしまえそうなほど屈強な男性だった。

 さりげなく視線を下ろせば、腰に粗悪な剣を佩いているのが判った。恐らく、建物の主が個人的に雇っている用心棒だろう。

 夜も深まった時間帯の客人に警戒した様子を見せていた男は、ルネの姿を見るなり驚き、それから少しばかり蔑むような顔をする。

「博士の客人だな。入れ」

「やあ、ありがとう」

 夜に主人を訪れた若い女を見下ろす視線は、随分と下卑ている。男の思い込みも勘違いも承知の上で、ルネは機嫌良く礼を言った。

 招かれて入り込む。外と同じように、建物の中も石灰をそのまま塗り固めたような造りをしている。

 天井から吊り下げられたランプの炎がゆらゆらと揺れて、それに合わせて男とルネの影も揺らめいた。

 カツン、と赤のヒールが固い床を叩く。ふわりとワンピースの裾が広がる。

 闇にでも溶けそうな黒い服。

 先導する男は博士の居場所を知らされているのだろう。薄暗い建物の中を躊躇なく歩いていく。廊下の途中にところどころ存在する木製の扉を、ルネは興味深く眺めやった。

「いま、この建物の中にいるのは博士と君だけ?」

「そうだ」

「助手はいないってことかな。こんな市外の森の中じゃ通うのも大変だし、いるならこの建物の中に部屋があるはずだものね。奥様はいらっしゃらないのかな」

「……お喋りな女だな」

「これは失礼」

 じろりと睨まれて、ルネは首を竦めて質問を止めた。

 廊下の奥の階段を降りると、階下はぶち抜きの広い空間になっている。壁際に並んだ檻は大半が空だったが、幾つかの檻の中には何かが転がっているようだ。もぞりと蠢くものを見て、ルネは酷く優しく眼を細めた。

 部屋の中央には巨大な水槽が幾つか置かれている。中には何も入っていない。水槽から繋がった管が床にのたくって、蛇の群れを思わせた。

「博士」

 ルネを案内した男の呼びかけに、部屋の奥にいた男が振り返る。暗がりの中でも、ルネの瞳には男の姿がはっきりと見て取れた。

 金の髪と、青に灰の混ざった瞳。彫りの深い顔立ちに長身、枯れ木のような痩躯。頭の中で持っている情報と照合する。年頃も、容貌も一致する。彼がサバンツ博士だろう。

「客人です」

「なに?」

 サバンツ博士が不可解げに眉を寄せた。覚えのない客人が夜中に訪れたからだろう。それも、顔も知らない女が。

 当たり前だ。

 ルネは、彼の客人などではない。

 否、ある意味では客人で間違いはなかったのだが。

 一歩、二歩、サバンツ博士が言葉を続けるよりも早く踏み出したルネは、自分を案内した男の太い首にするりと白い腕を回した。

 細く、白く、男の手にかかれば小枝のように簡単に折られてしまうだろう頼りない腕。その細さを強調するように、金の飾りが絡んでいる。

 そんな腕をいきなり首に回されても、男は危機感を抱かなかったらしい。女が何者かを勘違いしていればなおさらだ。

 大きな抵抗もなく、ルネは手の中のナイフで男の喉を掻き切った。

「……、……!」

 何が起きたのか、男は最期まで理解出来なかったかも知れない。それほど自然で、前触れもなかった。

 数度痙攣して事切れた男を見下ろして、ルネが嘆息する。

「……運が、なくて」

 腰を落とし、見開いたままの瞼を閉じさせる。

「そんな人生もあるよね」

 ゆら、とルネは立ち上がった。

 部下が死んでも、博士に動じた様子はなかった。ただ、ルネの動向を注意深く観察している。

 血に濡れたナイフではもう肉は切れない。ルネはあっさりとナイフを投げ出した。床に落ちたナイフは、高い音を立てて呆気なく砕け散る。

「汚れちゃったなあ」

 真っ赤になった両手を眺めて、彼女は少しだけ困ったように笑った。

 頬を掻こうとして諦め、相対する男に向き直る。

「ご機嫌よう、博士。――あぁ、念のため訊きたいのだけれど、貴方がサバンツ博士で間違いはない?」

 問いかけられて、男は居住まいを正した。

「――いかにも、私がサバンツだ。何の用かな、美しいお嬢さん」

「ありがとう。お嬢さんだなんてなかなか呼ばれないから、照れてしまうね」

 ふふ、と笑う。頼りないランプの光を受けて、黒いワンピースが足下により黒々とした影を作る。

 影が揺れる。

「貴方の命を貰いにお邪魔したよ。そこの彼は、ちょっと運が悪かったね」

「……同業者か、殺し屋か何かか? あいにく、大人しく殺される気はなくてな」

「殺し屋だなんて格好悪い言い方だけれど、そういうことになるのかな、うん。貴方には別に恨みも何もないのだけれど、お金がなくてはさすがに生きるのが難しくてね」

 ほんの数秒前に人を一人殺したことなど忘れたような、朗らかな顔でそう言って――。

 先ほど森を歩いていたときと変わらない、軽やかな足取りでルネは踏み出した。

 同時に、博士も動く。上着から取り出されたのは小さな拳銃だった。撃鉄を起こす。引き金に指をかける。

 ルネは動きを止めなかった。数歩で距離を詰め、右手を振り抜く。

 ぶち抜きになっているとはいえ、部屋はそこまで広くない。それでも博士が発砲するには、その数秒で十分だった。

 部屋の中に銃声がこだまする。

 勝利を確信した表情のまま、サバンツ博士の体がぐらりと揺らぐ。

 ルネの右手には、先ほどまでは存在しなかった長剣が握られていた。透明な剣身に、べったりと血がこびり付いている。

 胸元をばっさりと斬られた男性の体が崩れ落ちるのを、ルネは大した感慨もなく見下ろした。

 発射された銃弾が透明な何かで弾かれたのに、博士は気づいただろうか。

 しばし考え、念のためと倒れた男の体を跨いで、彼の心臓に正確に刃を突き立てた。既に事切れていた体が何の反応も返さないのを確認し、長剣から手を離す。

 手に馴染んだ冷たさを伝えてくる氷の長剣は、ルネの手から離れた瞬間にさらさらと崩れ去った。

「――まあ、こんなものかな」

 頷き、身を翻して、彼女はきょとりと瞬いた。眼の前に覚えのない子どもがいたからだ。

「……ぁ、」

 年の頃は十に届かないだろう、小さな男の子だった。

 子どもは呆然とルネを見上げ、へたりと座り込んでいる。ランプに照らされて、青灰の瞳がじわりと溶ける。

 彼が動けないでいる間に、ルネは眼の前の子どもが何であるのかを思い出していた。

 ルネが右手を広げれば、その中に長剣が現れる。色を持たない、透明な、氷の刃。

 子どもの眼には、ルネが死神にでも見えていたかも知れない。黒い喪服の、美しい死神。

 死神が刃を掲げる。大鎌ではなく長剣だ。子どもは動かない。


 ルネは、刃を振り下ろした。

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