第7話

 振り向いてはいけない。

 心の中で言葉を反復しながらこやけの背を見つめる。背後から艶気を含んだ声が聞こえる。声の主は俺のすぐ近くにいるようで、白檀の香りが風に乗ってくる。背後に誰かがいることはわかっているのだが、ここで振り向くとどうなるのだろうか。それこそ本当に帰ることができなくなってしまうのだろうか。

「振り向かないでそのまま僕の話を聞いてね。今からキミにイイモノを渡してあげる。きっとキミの役に立つはずだよ」

 左手を包み込むようにして、俺に小さな袋が渡された。御守りだろうか。白色の袋に紫の糸で蝙蝠の刺繍がされている。しばらく御守りを見つめていたのが悪かった。愛が後ろを振り向いてしまっていた。あまり人の話を聞かないやつなのは昔からだったが、このタイミングでこれはないだろう。愛は何かに見惚れているような顔をしていた。

「このバカ! 振り向くなって言われただろ」

「どうせ私はもう帰ることができないんだもん」

「まだ決まった訳じゃない」

「でも、こんな景色が見れるなら帰らなくて良いかも」

 愛の目に反射して夕焼けが見えた。今は夜だから夕焼けなんて見えるはずがない。愛は何を見ているんだ? どうして目に夕焼けが映っているんだ? 俺は振り向きたい気持ちを抑えながら、愛の腕を掴み、歩みを進めた。こやけの背が先程よりも遠ざかっているように見えたのだ。このまま逃げ出すこともできるではないだろうか。と考えた矢先、目的地に着いたのだろう。こやけが振り向いた。

「『振り向いてはいけない』と言ったはずなのですが、愛さんは既に振り向いてしまったようですね」

「愛はどうなるんだ?」

「さあ? とりあえず代価を支払って頂くまでは生かしておきますよ。別に殺そうとも思いませんけれど」

 こやけは不思議そうな表情をすると、井戸の蓋を開けた。そして、愛の背後に回ったかと思うと、彼女を突き落した。水の音も、破裂音も、何もしない。愛の叫び声だけが遠く、小さくなっていくだけだ。俺の顔を見ると、こやけは毒を含んだ笑みを浮かべる。

「引き返すならば今が絶好の機会ですよ」

「俺も行く」

「人間は本当に理解しがたい生き物ですね。それでは、どうぞ」

 こやけは井戸に手を向けて微笑む。俺は底を見つめる。どれだけ深いのだろうか。底が見えない。意を決して、井戸へと飛び込む。すぐにこやけもついてきたようだった。


 再び俺が目を開いた時、そこには夕焼け空が広がっていた。


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