「この近くに、喫茶店があるんです。落ち着いた店で、この商店街の賑わいが嘘のように、静かなんですよ」女性は言うと、路地裏の更に裏通りの方を指差した。

「それは、興味深いな」

「行きますか?」

 女性の笑顔に、なぜか、不思議な感覚にとらわれた。

 見ず知らずの女性と、同い年という女性と、田舎出身という女性と、あまりにも出来すぎた偶然が重なって、それも、この賑わいから少し離れたいと思っていた矢先のことだったので、これは運命の悪戯かなんかだろうという意識がした。

 それでも、女性に誘われたという経験が初めてだったので、僕は間髪も入れずに、頷いていた。

 茶色い狭い建物に足を踏み入れると、珈琲の独特な香りが鼻についた。流れているジャズの音色に、暗い照明、はっきりいって、静かというより、地味な店内だった。

 彼女は、そのまま、奥のテーブル席へ向かい、座った。

 僕は目の前の椅子に腰かけ、店員が持って来たおしぼりと冷水を交互に見つめ、おしぼりで手を拭いた。

「この曲、ふたりでお茶をっていう曲なんですよ。私、音大に行っていたんです。ピアノ専攻で。何、食べますか」

 女性は、立てかけてあるメニュー表を見せて、指差した。

 手慣れた手つきでメニュー表を見つめている様子に、ただじっと、なぜここにいるのかといった疑問が湧いた。

「紅茶にしよう」

「じゃあ、私も」

「チーズケーキも、頼みますか?」

「いいですね」

 女性は手をあげて、店員を呼んだ。

 店員に注文を言い終えると、女性は、頭を下げた。

「飯島桃です。さっきは、ありがとうございました」

「いえいえ」

 こういう場合、男が代金を支払った方がいいのだろうかという気持ちになり、笑顔を作った。

「西城剛です」

 名乗ると、笑顔で、たけしさん、と呟いた。

「たけしさん、か。そんな風に呼ばれたことないな」

「女性にはいつも、なんと呼ばれてるんですか?」

 女性に名前を呼ばれるという経験がない僕にとって、その質問は新鮮だった。

「そうだな、いつもは名字で」

 仕事場で関わる女性とは、名字で呼ばれるくらいの接点しか無い。

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