第二ノ変『半歩崩拳』

 東京駅から西へ向かう特急列車の窓から外を眺めていると、山間に葡萄畑が続くのどかな風景が見えた。

「正義君は、櫻澤先生に会ったことがあるのかい?」

「いいえ。祖父から話は聞いていますが、お会いするのは初めてです」

 今泉洋は、駅弁を食べ終えてコーヒーを飲みながら、隣に座っている高田正義の、まだ幼さの残る横顔を見た。

 高校生にして天才空手家として騒がれる少年とは思えない物腰の柔らかさは、今泉が高校生の頃の空手部の同級生連中とは別世界のものに見えた。

 空手を学ぶ者には不良染みた者も多い。無論、そんな連中は長く続かないのだが、正義は全国大会で何度も優勝しており、同年配では稽古にならないので道場の成人部で稽古していた。それでも相手になるのは師範代しかいなかったのであるが、最近では師範代でも持て余す実力になっていた。スピードも速い上に、先を取る読みの能力がずば抜けていたので、相手が何の反応もできないまま顔面に突きを入れられてしまう。天性の才能としかいえなかった。

 今泉は、空手雑誌の取材で会ってから半年も経過していないが、道着を着ていないと、とても天才空手家には見えない。ちょっと長身の普通の高校生だった。

「正義君のお祖父さんは、日本武道界の影の顔役といわれる佐伯童玄先生。先祖は宝蔵院流高田派の高田又兵衛。空手界の風雲児になるのも当然なんだろうな〜」

「そんなことありませんよ。今泉さん」

 正義が大人びた顔で苦笑いする。

「あっ? 今泉さん。次の駅みたいですよ?」

 車内放送で次の駅の名が告げられると、正義が今泉をうながした。

 列車が止まり、駅のホームに降りる。駅の改札を出て、バス乗り場に向かう。

「何だ? 一日に二回しかバスが出てないのか? 嘘だろ〜」

「今泉さん、仕方ないです。後、二時間くらいありますから、喫茶店で時間潰しましょうか?」

 正義の提案を今泉も受け入れた。タクシーに乗れば、ウン万円になりそうな山奥に目的の櫻澤は住んでいるらしいのだ。貧乏ライターの今泉にタクシーを使う選択肢はない。

 今泉洋と高田正義は、日本武道界のドンと噂される正義の祖父、佐伯童玄の依頼で、伝説の武術家、櫻澤柳一朗を尋ねてきていた。童玄が九十歳を越していたから、自分が出向く代わりに今泉に仕事を依頼し、付き添いに孫の正義をあてたのだった。

 駅前の喫茶店でコーヒーを頼んだ今泉は、正義がビッグパフェを頼んで嬉しそうにパクついたのを見て、唖然とした顔をした。三月とはいえ、まだ肌寒い季節に山盛りのパフェを夢中でパクつく正義に驚いたのだった。

「正義君、甘党だったんだ?」

「いえ、それほどでもないです・・・」

 最初は、とっつきにくい少年か?と思ったが、じょじょに親しみがわいてきていた。

 バスがやって来た。

 バスが、駅から遠ざかるに従って、のどかな田園風景が広がり、やがて山間の曲がりくねった道を延々と進んでいった。一時間以上、バスに揺られて、終点の峠の小さな雑貨店前で降りた。店には、いかにも田舎のオバちゃんという感じの小太りの小母さんがいる。

「あの〜、すいませ〜ん? ちょっと、お尋ねしますけど、この辺りに櫻澤さんという方がいらっしゃると思うんですが・・・」

「櫻澤? え〜? そんな家はないですよ〜。この辺は、うちと、後、五軒くらいしかないからね〜? えっと、うちは田中で、後は鈴木と佐藤と斎藤と・・・」

「いや、確かに、この辺にお住まいのはずなんですけど・・・」

 押し問答をしていると、店の奥から主人らしき小父さんが出てきた。

「何いってんだ? 櫻澤って、茜ちゃんの名字だろうが?」

「あれ〜? 茜ちゃんって、櫻澤って名字なのけぇ? そうけぇ〜? 知らんかったわ」

「茜ちゃんって?」

「すんげえ可愛い娘だべ。この山の奥に祖父さんと一緒に住んでるんだけど、しっかりした娘でな〜? 毎日、学校の帰りにうちに寄ってくんだけど・・・あれっ? そういえば、ここんところ、来てねえな?」

「うん、来てねぇよ。あっ、そうだ。春休みだべ? 学校が休みなのさ・・・」

「あの、すいません! その櫻澤茜さんの家はどういけばいいですか?」

 夫婦漫才のように二人が延々としゃべっているのに痺れを切らした今泉が割って入る。

「ああ、簡単だ。そこの小道をずう〜っと登っていけば家があるよ。一軒屋だから間違わねぇよ」

「そうですか? 有り難うございました」

 今泉と正義は、獣道のような小さな山道を登っていった。

 一時間以上は歩いただろうか? 西の空が夕焼けに染まっている。これから暗くなるというのに、なかなか家が現れないので道を間違えているのか?と心配になった今泉が、前を歩いている正義に声をかけようとした。

 その時、突然、開けた土地が出現した。一件の家が建っている。

 野菜畑と田圃もある。古民家風の平屋だが、かなり大きい。

「これは・・・道場みたいですね?」

 正義の言葉に今泉がうなずく。古い木の表札に、「櫻澤」と書かれている。

「間違いない。ここだ・・・」

 二人は、薄暗くなってきたので、急いで玄関に向かった。

 呼び鈴を押すと、奥から人影が玄関のガラス戸に映り、扉を開いた。

「ごめ・・・ん・・・?」

 今泉も正義も、そのまま固まってしまった・・・。

 開いた玄関の扉の向こうには、こんな山の奥には似つかわしくない美少女が立っていたのである。白い道着に緋色の野袴を着ている。

 唖然としたまま二人とも声が出ない。

 少女は不思議そうに小首を傾げて見る。と、その様子が子猫のような愛らしさで、ますます二人は言葉が出なくなってしまった。

「あの〜、どちら様でしょうか?」

 少女の方から話しかけたので、ようやく、二人とも冷静さを取り戻した。

「あっ、すみません・・・あの・・・あなたが、茜さん・・・ですか?」

 今泉がつっかえながら尋ねると、正義が肘で軽く小突いた。今泉が小突き返すと、正義が用件を話した。

「すみません。私達は櫻澤柳一朗先生を訪ねてきた者です。先生は御在宅ですか?」

 さすがに正義はキモがすわっている。

「そうですか・・・では、お上がりください」

 茜が二人を招き入れた。

 居間に通されて、お茶を出された。二人の前に茜が正座する。

「あの・・・先生は?」

「そちらです・・・」

 茜が指した方には仏壇があった。白髪の老人と呼ぶには若々しい紳士の遺影が飾ってある。

「えっ?」

「まさか・・・亡くなられたんですか?」

「はい。一週間ほど前に、畑仕事から帰って日課の居合抜きをやった後、縁側に座ったまま亡くなっていました」

「死因は・・・?」

「さあ、見た目は若かったのですが、九十は越えていましたから、多分、老衰かと?」

「医者には見せていないんですか?」

「はい。自分にもしものことがあったら、私独りで葬儀まで済ませるように言われていましたから・・・」

 淡々と話す茜の表情は感情の動きが乏しい。肉親が亡くなったばかりなら、もっと動揺するのではないだろうか?と、今泉は疑問に思った。

「あの・・・失礼ですが、御両親は?」

「おりません。私が小さい頃に亡くなったそうです」

「そうですか・・・櫻澤先生をお連れするようにといわれて来たのですが・・・亡くなられていたのでは、どうにもなりませんね・・・」

 今泉が、がっくりと肩を落とした。

「今泉さん。それじゃあ、お線香をあげて帰りましょうか?」

 正義がそういった時、奥の方でガターンッ!と、大きな音がした。

「しばらく、お待ちください・・・」

 茜がさっと立ち上がると、二人に一礼して奥に向かった。

「今泉さん。僕らも行きましょう・・・」

 正義が鋭い目付きになって立ち上がった。

「でも、待ってるようにって・・・?」

 今泉の返事を待たずに、正義が茜の後を追った。今泉も、渋々、続いた・・・。

 居間の奥の廊下の突き当たりは、道場に続いていた。正義と今泉が駆けつけると、五十畳くらいの広い板敷きの道場に、異様な一団と、それに対峙する茜がいた。

 道場の一角の雨戸が割れており、暗くなった外の闇から抜け出してきたように、八つの人影がいた。

 一瞬、正義も今泉も道場に入るのを逡巡した。八つの人影から異様な妖気が放射されていたからだ。道場の照明は灯っているのに、八つの人影は、影そのものが人の形になっているように現実感が乏しい。この世の者ではないのだろうか?

「他流の道場へ土足で踏み込むというのは、どういった御用件でしょうか?」

 茜が、淡々と何の感情も込めずに質問した。恐れる感情はまったくない。

「娘。櫻澤柳一朗はどこだ?」

 先頭の老人?が質問してきた。

「祖父は死にました。御用件は私が承ります」

「娘。わしらが怖くはないのか?」

 後ろにひかえている影の一つが尋ねた。

「なぜ、怖がらねばなりませんか?」

 茜の返答が意識しないまま挑発になってしまっている。今泉が、小さく舌打ちし、小声で正義に耳打ちした。

「ヤバイぞ。こいつら普通じゃない。怒らせたらマズイ・・・」

 正義が、意を決して道場に入った。

「茜さんっ! 何です。こいつら? 今泉さん、すぐに警察を呼んでください!」

 ハッタリである。こんな山の中に警察を呼んでも到着まで一時間以上はかかるだろう。

 八人の侵入者はクックックッと含み笑いをした。動じる様子はない。

「徐雲殿。櫻澤とやらがおらぬのなら、武当派の秘宝とやらを貰って、さっさと帰ろうではないか?」

「待て待て、この小娘。なかなか美味そうじゃ。俺に食わせろ」

「俺は、そっちの若いのを食いたい」

「お前は、後ろのヒョロッとしたので我慢せよ」

 食わせろというのは、犯すという意味だろうか?と思ったが、どうも、違う様子だ。文字通りに「食う」という意味に聞こえる。

(こいつら、まともじゃないぞ・・・)

 今泉が戦慄を覚えた瞬間、ざわざわとしていた侵入者達が静まり返った。

 茜が笑っていたからだ。

「貴様・・・?」

 先頭の老人が、持っていた杖を構える。

「やはり・・・来たか?」

 笑っていた茜の声の調子が変わる。まるで男のような態度だ。

「随分、久しぶりじゃないか? なあ、徐雲?」

「貴様は・・・櫻澤柳一朗か?」

 茜の豹変に、正義も今泉もギョッとして固まっていた。まるで、中身が別人と入れ替わったようである。

「そうか?・・・張恩傑のヤツめ。武当派の秘宝ばかりでなく、帰神融魂之法まで貴様に伝授していたのか?」

 徐雲と呼ばれた老人が悔しそうな形相で茜を睨んだ。

「徐雲殿。それはどういうことだ?」

「この小娘の中に櫻澤柳一朗の魂魄が宿っているのだ」

「それはつまり・・・」

「こいつは櫻澤と同等の実力を持っているということだ」

 徐雲が忌ま忌ましそうに吐き捨てる。

「そうか? それは面白い! 是非、わしにやらせてくれ」

「待て、雲深。侮ってはならぬ」

「何の・・・この郭雲深。形意門第一の遣い手として、半歩崩拳、打遍天下(あまねく天下を打つ)と呼ばれた我が崩拳の一撃が効くか効かぬか、こやつで試してくれる・・・」

(郭雲深だって? 中段突き崩拳の一技だけで、どんな敵も倒したといわれる形意拳の遣い手として有名な中国の大武術家じゃないか? しかし、とっくの昔に死んでるはずだぞ? どうなってるんだ?)

 今泉が、呆然としていると、正義が茜の前にかばうように出た。

「女に手を出そうなんて、とんだ武術家だよな〜? 俺が相手してやるよ・・・」

 軽く半身に構えて、トントンとフットワークを遣う。上下ではなく前後にフットワークを遣って郭との間合を調整する。

「奇妙な動きよな・・・」

 郭が、形意拳特有の三体式に構えて、じっと正義の動きを観察する。

 普通なら、形意拳は先手先手と攻めていくのだが、郭はそうしなかった。見たこともない現代格闘技のフットワークを初めて見て、警戒したのである。

 郭以外の七人の侵入者も、郭と正義の対決を邪魔しないように手出ししない。

 しばらく、間が続いたが、どちらからともなく、前に出ていた。

 郭の崩拳と正義の刻み突きが交錯する。

 正義の突きが当たったか?と見えた瞬間、郭の上体が海老のように曲がって突きを呑み(背中を丸めて胸を凹まして突きの威力を殺す技術)、正義の突きが引き戻されるのに合わせて、崩拳の一撃がさらに伸びて二度打ちになった。

 身体がくの字に折れ曲がったまま、正義が道場の壁まで吹っ飛んだ。

「半歩崩拳、二度打ちの秘術か・・・?」

 一度、当たったところから拳を引かずに、さらに突き込む技で、二度目の突きは背骨まで突き折るような威力を示したという。

 秘密は、後ろ足を半歩分、寄せることにあった。これによって突きが伸びる。「半歩崩拳打遍天下」と称賛された郭雲深は、この技を得意にしていたのである。

 倒れて呻く正義に、郭がトドメをさしに来るか?と思ったが、そうはしなかった。

 郭の右拳に小さな針が突き刺さっていた。

「お見事! 半歩崩拳は形意門の表看板。それ以上、手のうちをさらすに及ばず」

 敵を称賛し、苦しそうにつっぷす正義の前に茜が立つ。

「若いの。休んでおれ」

 茜が老人のような言い方をする。何ともシュールであった。

「徐雲。武当派の秘宝はここにはないぞ」

「何じゃと?」

「ある人物に預けてある」

「ある人物・・・誰だ?」

「その前に、聞きたい。その方が形意門の郭雲深殿ならば、他の方々も名の有る大家ではないのか?」

「察しがよいな。八極拳の李書文、太極拳の楊露禪、八卦掌の董海川、迷蹤芸の霍元甲、無影脚の黄飛鴻、白猿通背拳の酔鬼張三と、わしが総指令の徐雲じゃ」

 今泉は、またも呆然となった。武術雑誌のライター時代に、何度となく聞いた名手高手ばかりではないか? 真実のはずはないが、このSFのような展開はもの書きとして、実に興味深かった。

「やはり、反魂の術を遣ったか?」

「反魂の術? 何か、小説かアニメかで聞いたことがあるような・・・?」

「孤独な修行に耐え兼ねた西行法師が、話相手が欲しくて反魂の術を遣って戦乱で死んだ者の骨から人造人間を作り出した。が、それは人の心を持たぬ食人鬼だったとか?」

 今泉に茜が解説すると、徐雲が哄笑した。

「人の心など持つ必要はないわっ! わしが欲しいのは最強の魔人武術家軍団じゃ! 貴様達も殺した後でわしの軍団員として蘇らせてやるわっ!」

「狂ってやがる・・・」

 苦悶する正義が吐き捨てるようにつぶやいた。

「何だと、小僧? 貴様のような未熟者がわしらの進撃をくい止めることはできぬぞ」

「待て、徐雲。いくら俺でも一人でお前達全員を敵に回しては勝ち目がない」

「当然だ!」

「しかし、俺を殺せば、武当派の秘宝のありかは判らなくなるぞ?」

「うっ・・・それは確かに」

 狂気に駆られていた徐雲の顔に正気が戻る。

「そこで提案だが、お前の門人であるそこの七人と、一ケ月後に一対一の対戦をして、勝った方が宝を得られるというのはどうだ?」

「一対一の対戦だと?」

「そうだ・・・」

「面白い! 是非、やろう!」

 郭が賛成すると、他の者も賛意を示した。こうなると、徐雲も止められない。渋々ながら承諾した。

「しかし、貴様の他は誰がやるのだ?」

「一人は、そこの坊やだ」

 茜が正義を指さした。

「そいつは、今、敗れたではないか?」

「この坊やはまだ奥義を体得しておらんからな。後、一カ月で体得させる。その他は最高の日本武術家を揃えよう。楽しみにしていてもらいたい・・・」

 茜が自信満々に宣言すると、魔人達は狂喜した。

「では、一カ月後にまた来るぞ・・・」

「場所はここではない」

「どこだ?」

「秘宝のある場所だ」

「だから、どこなのだ?」

「それを明かせば、お前が宝を奪ってしまうかもしれんからな。まだ、教えられん」

「フフフ・・・よかろう。お前達がどこに隠れようと無駄だ。我らの目をごまかすことなどできぬ。よい。我らの方から一カ月後に出向いてやろう・・・」

 つむじ風が巻き起こり、八人の魔人武術家は夜の闇の中に消えていった・・・。


 茜が正義に活を施すと、しばらくして起き上がれるようになった。

「あの〜、櫻澤先生?」

「はいっ?」

 茜がまた子猫のように小首を傾げて返事した。

「えっと・・・あの〜、さっきのアレは、演技?ですか・・・」

 今泉がおそるおそる尋ねると、初めて茜が笑って見せた。

「いえ・・・あれは本物の祖父です。でも、私も意識がなくなる訳じゃないので、どんなやり取りをしていたかは解っています」

「はあ〜、そうですか〜? 僕は何だか判らないんですけど・・・」

「茜さん、あんな約束をしてしまって大丈夫なんですか?」

 正義が改めて聞いた。

「大丈夫・・・とはいえませんね。祖父もとっさに考えたのだと思いますが、大変なことになりました」

「って、それ、どうすんですか〜? あいつら、本当にまともな人間じゃないっスよぉ〜? 約束破ったら、頭からバリバリ食われちまうかもしれないじゃないスか〜?」

 今泉が壊れる。

「さっき、郭のヤツはトドメを刺そうとしたのに、そうしなかった・・・アレは、茜さんが何かしたんですか?」

 正義の質問に答えず、茜が無言で箸を取り、ピュッと投げた。すると、木の箸が柱に突き刺さった。

「それを・・・」

 正義が抜こうとするが、柱から生えているように深く箸が突き刺さっていた。

「これは・・・?」

 正義が仰天した顔で茜を振り返った。

「さっき、裁縫針をあいつの右手の合谷のツボに刺してやったんです・・・」

「全然、わからなかった・・・」

「あいつらは全員、気づいてましたよ。だから、祖父の提案に乗ったんです」

 今泉と正義は、目の前の美少女が、さっきの魔人達の同類のように思えて気味が悪くなっていた。

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