「フラウ・オイゲン」


 E-4の後姿を寮内で見かけたので呼んでみると、彼女は足を止めてゆっくりと振り返った。


「おや、サー・アルベリヒ。ああ、英語でいいよ。何か用かな」


 余談であるが、統一政府での公用語は英語だが、我々が生きた時代はまだ言語統制が進んでおらず、母国語の方が馴染み深いというレプリカントも少なからずいる。

 アルベリヒは潜入のためにいくつかの言語を習得していたのもあり、話しかけるときは相手が使いやすい言葉を使うことにしていた。

 そのいくつかの言語のうち、ドイツ語の習得のために師事したのがEシリーズのもとになった彼女、ヴァルブルガ・ハイデマリー・オイゲンだった。

 彼女は65歳のとき、自身の孫を連れてアルベリヒの所属する連合王国に亡命した。


「あなたのリトル……いや、この言い方はなにか違うな。フロイライン・ヴァルブルガにしよう」

「ふふ、たしかに私の子どもマイ・リトルではないな。少女時代だからフロイラインお嬢さんでいいよ。ゲルマン系の女の子は彼女しかいないから、彼女も私なら通じるさ」

「ありがとう。ここは本当に呼び名に困るな。では、彼女はフロイラインと呼ぶことにするよ」


 毎度のことなのだが、若い彼女に話しかけるときは少し緊張してしまう。

 この時代の彼女は敵対していた国の軍人というのもある。だが一番の理由は、年を召した彼女かなり高待遇で迎え入れられていたため、アルベリヒより階級がかなり上だったことだ。なかなか厳しく指導されたが、それでも彼女のおかげで生き延びられた部分もある。頭が上がらない人の一人なのだ。


「それで、その、フロイラインなんだが」

「ああ」

「先程テオの作ったアイス・リンクで、見事な二回転のジャンプを跳んでいた。あなたはフィギュアスケートの選手だったのだろうか。コーデリアとそういう話をしてたんだ」


 ここに来てから二ヶ月、実は任務外での雑談というのを、彼女とはしたことがない。

 だからだろうか。彼女は少し驚いたような顔をして、それでもすぐに微笑んだ。


「君に時間があるのなら、ティータイムにしよう。サロンへ行くつもりだったんだが、せっかくだから一緒にどうかな」

「では、ご相伴に預かろう」


 並んで歩き出すと、彼女はおもむろに先程の問いに対する答えを返した。


「私の故郷は知っての通り旧ドイツでね。特に寒い地域の出身なんだ。夏はバレエと新体操、冬は天然のリンクでフィギュアスケートをしていた。母に伝手があってコーチングはしてもらっていたが、ほとんど趣味のようなものだよ」

「そうか、それで。だが、美しいジャンプだった。わたしは競技に詳しくないから種類こそわからないが、きっとそう簡単に飛べるものではないのだろう?」

「そうだな、それなりに努力した」


 懐かしむように目を細めて、ゆるりと笑う。


「連邦の軍事系幼年学校で寮に入るまで続けていたから、彼女は身体がまだ覚えているのではないかな。たしか、13歳だったはずだから、2年はブランクがあるけれど。若いというのはいいね、ふつうそれだけ間が空けば感覚が狂って飛べなくなるものだが」

「あなたのセンスがいいのだろう」

「そうであったと信じたいな」


 くつくつと肩を揺らす気配がする。

 身構えていたよりスムーズに、穏やかに話せて安心したわたしは、これなら大丈夫だろうと雑談を続けることにした。誘いを受けておいてだが、気まずい空気になれば逃げることも考えていた。アルベリヒ本人であれば乗り切れるだろうが、“わたし”には難易度が高い。


「あなたも幼年学校に行ったのか」

「幼年学校のことはイサークにきいたのかな。そう、連邦の将官はほとんど士官学校の高等教育より先に幼年学校で中等教育と呼ばれるような指導を受けている。軍事方面特化の、身体能力を強化するようなものだがね」


 連邦出身だがオイゲン女史より後年に生きたイサークも同じことを言っていた。

 連邦で官営の幼年学校といえば、軍事に関係するところであり、初等教育はそれこそ義務と権利で行けるが、それ以上を学びたければ私学に通うしか方法がなかったという。私学というくらいなので、学費がそれなりにいる、らしい。

 高等教育機関をすべて民間委託したといえば聞こえはいいが、国にそれだけの経済力がないと考えると、その時代の情勢がわかるというものだ。教育にはそれなりに金銭がかかる。


「我が家は軍人家系で、女であっても将官の器になるよう、もともとそういう教育を受けていたから幼年学校へ進んだんだ。私学でも問題なく通えただろうな」

「裕福な家庭、というやつか」


 バレエに新体操、フィギュアスケートまでコーチに教えを受けていて、それで趣味だと言えるのは金銭的余裕のある家だ。それに当時の世界情勢を考えれば、芸術面の強いスポーツなんて二の次だっただろう。


「まあ、そうだな。実は名前にフォンがつく、といえば君ならわかるか」


 これは驚いた。素直に表情に出すと、彼女は苦笑した。


「貴族制はずいぶん昔に撤廃されたのではなかったか?」

「そうだ。だが家の繋がりというのはまだ残っているし、あの時代にいくつか会社を保有できていたのはかつての貴族階級ぐらいでね」


 なんとなくわかる。“わたし”の記憶にある日本の華族や士族に近い。上流階級の家はやはり残るものなのだろう。

 しかし、複数会社を経営するほどの資産家が、軍人家系。それも後年には亡命するとは。


「人生何がおきるかわからないものだな」


 いや本当に。たぶんこれに関してはレプリカントの皆が言えることだろうとは思うが、わたしはひとり別の実感を伴っていると思っていた。彼女も相当、苦労したのだろう。


 

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