不幸の連鎖 7

リザは掴んだ彼の手を自身の頬へつけた。手から伝わるリザの体温。柔らかい感触もなければ、暖かいという印象もない。熱さを感じた。人間の肌とは思えない熱量。






「お前の手は冷たいですね」




 興味なさげな表情を浮かべつつも、彼の手を頬に押し付ける。基礎体温の低い手がリザの熱によって浸食され、指の間から汗が少しずつ出ていく。彼の手汗などものともせず、ただ押し付けている。






「死んだばっかりの人間のように冷たい。ですが死体よりは温もりがあります。触ればわかります。お前の肉体は非常に脆い。女、子供、老人よりも肉体強度は低いでしょう。ここまで弱いのは死にかけの病人か腐りかけの死体ぐらいでしょう」






 彼の基礎体温は35度ほどだ。男性として見るには平均体温が低いし、女性よりも体力はない。この世界の女性にはかなわず、子供にも老人にもほぼ負ける。現代国家の男性基準からみても大幅におとり、女性の平均値すらいかないほどの弱者。男性未満、女性未満。それが彼の肉体能力だ






 現代国家に必要とされない肉体能力。男性基準の仕事もできなければ、女性基準の仕事すらままならない。肉体能力が劣るために、そこから培われる自信もない。男性でありながら男性社会に適応できない彼に居場所はない。女性のところに居場所を求めたところで、彼が男性である以上、区別されるし、差別もされる。そもそも女性よりも運動能力が引くいため、人間として見られていない。






 彼は真の弱者なのだ。ただ現代国家の温情で生かされていただけだ。弱者が生きていいと社会が守ってくれるから生き残れた。








「どうして生きてこられたんですか?」






 現代国家でも最弱な彼だ。異世界において最弱も余裕でとれる。この世界は現代国家のように優しくはない。生活保護、年金、医療保険もない。働けないものは放置され死ぬし、弱者のままでも放置され死ぬ。




 この世界から見ても大人になれない弱さだった。現代国家の優れた社会制度で生かされた人間の弱さはリザにとって疑問だったのだろう。普通は死ぬものが今も健康で生きている。死ぬはずのものが生きている異常さをかぎつけた。




「こんな弱いやつに翻弄されていたと思うと、笑えて来ます」




 彼の手は拘束されたままだった。リザの体温を受け付けてなお、彼の手の体温は急激には上がらない。






「私の手は暖かいですか?それとも熱いですか?」






 リザは彼の手に頬をさらに押し付ける。彼の手は冷たく、リザにとっては人間がこんなに冷たくなることが新鮮のようだった。






「私はこれでも体温が低いほうなんですが、お前はさらに下を行きます。お前はどうして生きてこれた?誰かが守ってくれたとでも?魔物ですか?魔物は弱者に従いません。必ず強者に従います。なのに、どうして、お前は弱い。弱いくせに、どうしてお前より強い魔物は従うのですか?」






 ここで彼は口を開く。






「・・・わかりません。・・・生きたいと願い、必死に考えて行動してきた・・・その結果ではないでしょうか・・・僕一人では何もできません。・・・ご察しの通り僕は弱い・・・貴女には勝てません・・・きっと子供にも女性にもご老人にも・・・体力では勝てません・・・」








 リザは彼の様子を見て、なお変わらなかった。弱者が生きている以上、それは弱者ではない。必ず弱さを生かす強さがあると考えるためだ。この世界は弱者が生きられるほどやさしくない。






 だがもう必要すらないのかもしれない。






「お前を殺します。何を企もうとお前は死にます。ですがお前のことです、赤子や母体には仕掛けを作ったのでしょう?私が連れて行こうとすれば作動する仕掛けが。もしくは連れて行ったあとかもしれません。だから母体には手を出しません。お前の言葉を無視できるほど、残した結果は嘘じゃない」






 リザは空いた手で短剣をつかんでいた。彼の目には見えない速度で短剣を手にしており、どこから出したかはわからない。








 短剣は彼の首筋へゆっくりと向かう。だがそれを許さないものがいる。見えない姿をもつ天の動きだ。彼の目には映らずとも刃物を叩き落そうとしたのだろう。だがリザが片足をあげ、下に勢いよく振り下ろした。リザの足が何かをとらえ、床にたたきつけた。ただ床を壊すことなく、空間に足を浮かしたかのような見た目で固定された。








 ただ見えないだけで片足で拘束されているであろう天。






「見えなくても、わかるんです。私には」






 リザは自嘲するかのように乾いた笑みを浮かべた。彼の手を頬に押し付けたままでの天を拘束。その状態できっと彼を殺すのだろう。






 短剣は彼の首へ。






「最後にいうことはありますか?」




 首へ軽く添えられる切先からは赤い体液が垂れていく。彼の皮膚はもろく添えただけでも切れてしまう。




「本当に脆い体」








 軽く押し込めば彼の首に短剣が刺さり殺害できる。その意志はあり、押し込もうとしていた。だがリザの動きは途中で止まった。表情が二転三転し、喜色の色から困惑の色をし、焦燥の色を見せて動きを止めた。






 そのまま短剣を引き、リザの腕は垂れ下がった。力をなくしたかのように垂れ下がり、短剣をつかむ指は一本ずつはがれていく。






「本当に怖い人間。こういう仕掛けがあったんですか。弱いくせに本当に命を張る」






 リザは抵抗しようとしているようだが、短剣をつかむ指が二本から一本になった時点で床に落ちた。






「タイムリミットのようです」




 リザは彼の手を頬から遠ざけていく。ただ彼の目から見てもわかるが、必死に抵抗はしようとしている。自分の頬に近づけようとする意志とは別に誰かが操り、はがそうとする動き。






「この私が獲物をわざわざ見逃さざるを得ないとは」






 激しい熱量がリザの手から彼の手へ伝わる。その熱量を思えば、抵抗するための力を発揮していることはわかる。だが抵抗が追い付かず、誰かの操作のまま彼の手は頬から離れ、やがてリザの拘束から外れた。




 自由になった彼の片手。








「初めからこの手があるなら、いっそのこと殺してくれればいいじゃないですか」




 彼へ告げる懇願。ただリザの表情には諦めがあり、抵抗する意志はあるものの、半ば従う姿はあった。彼へ背を向け、リザは玄関のほうへ突き進む。そこには自分の意志が介在せず、動き出す人形そのものだった。






 その一歩は重い。きっとリザが全力で抵抗しているのだろう。現に踏み出した一歩を必死に空中でとどめ、床に足つけないようにしているからだ。ぴくぴくと震える足を無理くり固定している。




 抵抗しながら彼からは顔も見えない。だがリザは吠えている。




「はじめから赤子も渡す気すらないっていうことですか?それともお前の命すら狙った不届きものだからですか?最後の最後に希望を残したまま、排除するのは残酷でしょう!!」






 リザの抵抗はむなしく、足は床へつき。また一歩、また一歩玄関へ。その先へ向かうのは外だ。








 彼は動けなかった。




 下手をすれば死んでいた。姿の見えない天であっても、リザの動きをみれば天が動いたのはわかる。それを軽く片足ひとつで床に縫い留められた。その事態は彼でも理解できた。見えない相手すら封じ込めるほどの実力者。それを何者かが操り外へ出そうとしている。






 ただそれ以上に命が助かったことに安堵しており、腰をぬかしていた 






 リザは彼のことを振り返ることもできず、操られるがままだった。抵抗はしようとも無理やり外へ向かう足を止められない。彼でもわかる。




 玄関へ差し掛かったリザの背中はなぜか小さく見えた。








「本当にお前が化物だったらよかったのに。弱者の中の弱者。お前の怖さは弱いところだとようやくわかりました」






 最後の恨み節は彼にもあまり聞こえない。




 彼は現状とリザの現状を交互に理解できず混乱しているためだ。




 その混乱でもリザは抵抗できず、そのまま利用されていた。






 そうしてリザの姿は外へ、玄関の扉は閉まっていく。リザが最後に操られる形で外へ追い出され、扉も閉めた。それはきっと彼に見せないようにしただけだ。








 それを彼がきづくことはできないほど、腰をぬかしていた。






「・・・助かった」






 底辺たる弱者は命ひとつ維持するだけで相当の経験をようする。ただで助かる命はないことの裏返し。現代国家が異常なだけで、異世界では弱者は死ぬべき存在でしかない。






 ただ彼が底辺の中の底辺。へこたれるのも腰を抜かすのも習慣であり、立ち直るのもまた早い。リザの姿は間違いなく誰かの意志のもの。本人の意志ではない。それを理解し、彼は必死に体を動かし、立ち上がる。






「・・・リザ氏は誰に操られた・・」




 考える必要はない。彼はもう答えをしっている。当初リザを引き留めさせたのは誰かを考えればよい。急激に知性を高め、彼の期待を実行しようとする存在をしっているはずだった。






 知性が高くなる前はいざ知らず。




 高くなった後は彼が望むことをするだろう。それほどの適性があったから嫌いな文字の名前を与えた。






「・・ゴブリンの・・・真」






 だが怒る気はおきない。その知能を理解したうえで名前を与えた。彼が望むものをゴブリンなりに考えた結果のこと。ただ行動をしようとするとその先が見えるため、彼の全身は震えた。とくに足は異常に震えた。








 されど底辺たる彼は震える足を必死に叩く。






「・・・死ぬことが何だ。殺されることが何だ。・・・何もしないで死ぬより、せめて行動して死ぬべきだろう・・しっかりしろ自分・・・恐れるな、このままだと取り返しがつかなくなる」






 知性の高いゴブリンなら、きっと彼が知りたい理由を探る。そのためには手段を選びつつも、限界まで状況を見定めるはずだ。








 彼は無理やり足を動かし、進む。震える足を軸に無理やりだ。彼の場合は本能で逃げようとし、意思で進もうとしていた。








「・・・頑張れ僕。大丈夫、怖くない。・・・いざとなっても怖いものはない」






 足は震えるし、体は硬直しがち。だが進むし、無理くりリザの跡を追っていく。命は大切なのだ。一個しかない貴重な宝物。人生もまた同じ。今を捨てれば老いていくだけだ。老いた後には動けない。今この瞬間にも命を燃やし失敗をすればいい。




「・・・天、この家を守ってあげてほしい」




 彼は震える体の悲鳴をこらえ、リザが消えていった場所へついていった。
















 リザの足取りは抵抗もあるが重い。だが確実に抵抗の力は衰えている。強い操作の力にリザの力では追いつかない。掛けられた弱体化の魔法。数々の戦闘における体力の消耗、精神的な疲労の数々が抵抗の力を奪っていた。




 もともと訓練されているため歩は速く、常人が駆ける速度で歩むこともできる。常人が駆ける速度で歩み、村から森へ再び戻っていく。村の壊れた門から木々に囲まれた砂利の一本道。この道はリザが村に戻る際に使用した道。このまま進めば先ほどのゴブリンと戦闘した場所へ戻れるだろう。






「本当に怖い男。怪物はどこまで先を読めば気が済むのでしょう」




 半ばあきらめた顔で、リザは怪物を思う。最弱でありながら自分を苦しめた異常者。軽く力をこめれば殺せる状況まで追い詰めたかと思えば、逆に追い詰められている。ゴブリンを遣わしたのもきっと理由があり、それはリザが理解できることではない。




 現にゴブリンごときにリザは操られている。自意識を残したままだ。




 この自意識を残したまま歩かされるのは地獄だ。行く先は死。執行人はゴブリン。リザが下等生物と見下した魔物。屈辱以外の何物でもない。化物腹から生まれた人間には敵しかいない。味方は自尊心のみ。生まれた母体の血統によりリザは人間扱いされたことは一度もない。




 化物じゃないのに化物扱いだ。




 差別はされ、区別もされた。されど妨害も虐めもされたことはない。化け物に手をだせば報復されても仕方なし。その常識がしみ込んでいた相手のために、実質的な行動はない。じめじめとした陰湿な区別を受けてきた。この仕返しするには常人からの攻撃は薄く、動機作りも難しく。ただ毎回顔を合わすたびに積もる他者の排他的感情をうっとうしく思っていた。






 その差別も区別もしてくる一人一人の印象は薄い。ただ数が尋常ではないために、心がまっすぐに育ったとはいえない。リザは己を化物として認めている人間だ。心のどこかに化物じゃなく人間として見てほしい心もある。だがそれは表に出さない。




 化物を周囲が押し付けるから、それを受け入れてしまった。






 それでも化物扱いされた以上、最低限の矜持というものはある。






「下等生物にだけは殺されたくない。負けたくない。あのくそったれたゴミムシにも殺されたくない。せめて強い人間に殺されたい。抵抗もできなくて、ぼろ雑巾のようにぐちゃぐちゃに負けて死にたい」






 化物よりも強い化け物の手にかかって死ぬ。生まれた母体による差別を受けた以上の恩恵はある。その恩恵はリザに体力の増強および気配の遮断、気配に対しての反応能力、命に対しての判別を過剰に与えた。戦闘能力の向上は基礎としてあり、学んだことは簡単に身につく即応力もある。








 そんなリザの夢が死ぬことだった。




 自分より強い化け物に殺される。理由もつけられない強弱の差をつけられて殺される。自身の尊厳すら踏みにじった圧倒的暴力による死だ。






 それはゴブリンという弱者に殺されることでもない。








 リザの願いとは別に最弱の魔物が、異常性をもって殺す算段を立てたこと。






「こういう最後だとは、本当にえげつないですね。さすがは怪物」






 リザは下等生物に殺されたくない。ゴブリンなどには絶対殺されたくない




 リザは強者に殺されたい。




 この二つの望む希望の死は、怪物の手によって惜しくも汚された。








「本当に嫌な人生でした。こんな終わり方なんて、せめて怪物、お前が殺してくれれば生きててよかったって思えたのに」






 リザの充血した目元から涙があふれていた。悔しさも悲しさも混ぜた感情の涙。顔は悲痛な感情によってくしゃくしゃに歪み、今にも嗚咽をこぼしそうだった。






「死ぬのは良いんです。殺されるのもいいんです。私の人生なんてそんなものでしたから、ですが、それでもゴブリンが執行人ですか、最後の希望がこんな望まない結末だなんて」






 この感情も元をただせば怪物と敵対した結果によるもの。






「ここまでしますか。ここまでするなら敵対なんてしなければよかった。そしたら私を怪物が殺してくれたかもしれないというのに」






 常人が駆ける速度で歩むリザの動きは、目的へそろそろたどり着く。感情を吐き出し、自分の末路に納得を無理やりつける。








 独り言でもしなければ感情の整理すらできやしない。リザは己の胸中にたいし、哀れすら抱いた。








 視界の先、緑の点が一つ見えた。その点の周りの樹木は根元から折り倒されていた。半ばから折れたりもする木々もあるが、ほぼ平等のように折れている。これはリザとゴブリンの戦闘による被害。




 リザが近づけば近づくほど緑の点は実態を増してくる。






 最も嫌悪し、今最高に会いたくない相手。






 顔が識別できるころには、緑が小鬼の顔をしており、体格の低い生き物だと嫌でもわかってしまう。リザは激しく憎悪しつつも、己の未来を悟り諦めていた。






 自分の意志ではどうしようもない。








 ゴブリンが己の口元に拳を押し付けている。ただのポーズにしては仰々しく、物々しい。優れた聴覚が変な音式の声を拾う。ゴブリンに近づくほど明確に聞こえるそれは呪文だ。また近づくほど操作される力は増していく。






 拳を口元から離したゴブリン。それでもリザの体の自由は聞かない。




 近距離のために呪文を唱えずともリザぐらい拘束できる。その能力がゴブリンにはあるのだろう。




 また急激に歩みを止めさせられたリザは少しばかり体が前のめりになった。ただバランスをとり、立て直す。






 最初に口を開いたのはゴブリンのほうだ。ただリザのほうを見ることなく、視線は横を向いていた。リザを相手に視線を合わさない。その事実に腹を立てる気持ちもあったが、淑女たる格好と己の立ち位置を理解し、リザは黙っていた。






「・・・にんぎょうつかいのちからをまねしてみた。いがいとうまくいった」






 老婆の声だ。ゴブリンにしては年老いている声だ。人間の声をまねるにしてももう少し若い声でもいいだろうとすらリザは思っている。






「たまたまやってみて、うまくいくのは才能があるということでしょう。誇ればいいのではと思いますが、お前が誇っているのを想像したら吐き気を覚えました」




 思わず毒気をリザははく。才能がある存在は目障りであり、成功した他者は鬱陶しい。人生を楽しむ人間は殺すし、地獄に落とす。普通が嫌いだ。成功者はもっと嫌いだ。






「そういうな、おまえのためにわざわざためしたんだ」






 リザの自由は束縛されている。だから勝ち目はない。せめて弱体化の魔法が切れれば勝ち目はあるだろう。だが一向に切れる様子のない効き目の長さ。それは上級聖職者でもなかなかいない技術力だ。リザは確かに聖魔法に対しての耐性は低い。だが低いだけで、決して弱いわけじゃないのだ。








 相手が異常なゴブリンなだけだ。そもそもリザは確実に殺したと確信している。それなのに生きていること自体がおかしい。リザは命を見抜く能力は非常に高い。それこそ怪物以上の判別能力を自負している。




 確かに殺した。首を短剣で突き刺し、その後横に引き裂いた。魔法を使わせないよう全身に刃物を突き刺し、両手首は踏みつぶしておいたはずなのだ。




 五体満足無事でいることすらおかしい。






 その疑念は尽きないが、人目も合わさないゴブリンは理解しているようにも見えた。






「おまえはたしかにおれをころしたかもしれない。だがおれはしなない。ひじょうにいたいおもいをしたが、ふつうならころされているが、しなない。おれのきゅうしょは、ふつうのごぶりんのばしょにはない」






 そしてゴブリンはリザの顔に初めて視線を向けた。




 その瞬間、ゴブリンは少しばかり背筋をのけぞらせた。リザから見るにゴブリンはリザの顔を見た際に戸惑った様子にすら見えた。必死にゴブリンは顔を取り繕っているし、下等生物の顔など理解したくもない。




 ただ焦りのような、慌てた様子を一瞬出したようにも見えた。






「・・・ないているのか?おまえが?」






 ゴブリンがうかがうように、されど立場を一瞬低くするかのような物言い。まるで人間が身内の弱さを見た際に相手を気遣う姿そのものだ。ただゴブリンがその能力をもつはずがない。




 そうであってはいけない。




 下等生物は人間以下の存在。








「泣いたら悪いですか?私は人間です、たとえ人間が私を化物扱いしても、私は人間です。人間がこの先に考える結末を思えば感傷に浸るのも道理かと思いますが」






 リザは息を吸う間も忘れ、ただ問い詰める。現状ゴブリンのほうが有利であり、体の自由は奪われている。弱体化の魔法も切れる様子もない。




 なのになぜこの状況において強気になれたのか。




 リザは本当にわからなかった。








「いや、わるくない。おれがやぼだった。そうだな、おまえはにんげんのおんなだ。にんげんはなくし、おとこもなく、おんなもなく。つよさもよわさもかんけいなく、にんげんはなく。じぶんのために、あいてのために、いろんなことのためになける」






 その一瞬、ゴブリンは哀愁を漂わせていた。ただの下等生物が浮かべるには感情に、愛情にすら近い表情をしていた。その瞬間、リザの心は沸騰していた。常識が崩れていく。






「お前はゴブリンです。忘れるな、お前はゴブリンです。弱者をいたぶり、犯し、食らう、最底辺の下等生物、それがゴブリンです。人間のように俯瞰しないでください。そういうのはいいんです。弱者をいたぶる弱者のままでいればいいんです。今さら印象を変えようとしないでください」




 沸騰した心はゴブリンに対し激しい感情をたたきつけていた。ここにいるリザは人間としてこの場にいるし、ゴブリンに対しても一つの敵として認識してしまった。その判断を消すために、リザは己の心を吐き出しているのだ。あくまで下等生物。己の敵ではないし、記憶に残すものではない。






 自分の感情を吐き出すリザの悲壮めいた表情。それをゴブリンは見逃すことなく捉えているようだった。






「おまえがそうのぞむなら、そのほうがいいだろう」




 ゴブリンは指を鳴らす。リザの体が勝手に動き出し、ゴブリンのほうへ歩みを進めていく。ゴブリンが後ろに片手を回し、すぐ正面へ戻す。握りしめた銀色の輝きをもつ鋭利な刃物。短剣だ。リザがゴブリンに使用した短剣のうち一本。拾って再利用したということだろう。




 短剣の切先をリザのほうへ向けた。




 身長か相手のら見ての推測か。刃先の位置をゴブリンは調整している。






 リザの歩む先にはゴブリンがもつ短剣の切っ先が待ち構えている。わかりやすい罠であるし、意識はあるのに、体の自由はない。その体と心の焦りの差が常人なら発狂手前の醜悪さを醸し出す。






「素晴らしいやり方です。このままいけば私は自分の刃物で殺されるわけですか。自殺といった形での幕引きですか?ですが殺人です。お前は、お前たちはハリングルッズが誇る傑作を殺そうとしているのです。化け物腹から生まれた化物じみた人間であっても、見る者によっては宝です。その宝を壊すのだから、覚悟はすべきでしょう」








 リザはもう抵抗はしない。反論はするが、嫌みはいうが、口は開き続ける。最後まで、罵倒して死ぬ。




 刃先が待ち構えたまま、あともう少しでリザの体を貫く。






 その怖さはなぜかない。








 ゴブリンは終始、刃物の位置のみを気にしているようだ。微弱に動かしては調整していく。その位置は心臓の部分だろうか。






「お前を許さない。永遠に。地獄から待っています。怨霊となってお前の生を呪い続けてやりましょう。同じ地獄に落ちるまで、苦しめて、じわじわとなぶり殺しにしてやります。地獄に落ちたら今度こそ殺します。何度でもよみがえろうと殺し切る。お前は絶対、幸せにさせない」






 刃先が心臓の位置付近まで近づく。リザの体が勝手に死をもとめて行進する。








 そして短剣がリザの体を貫いた。だが直前に刃先の位置がずれている。下方修正をし、狙いは別の場所へ変わっていた。だが刺さる直前までリザは気づかない。それ以前の全身の痛みもあるし、疲れが体力を奪っている。




 そこで体内への異物の侵入。




 ゴブリンの体にもたれかかるように、体の力が奪われていく。腹部に突き刺さった短剣は鮮血をまき散らし、ゴブリンの体も赤く染め上げていく。短剣は色を赤く塗装し、それを持つ片手の皮膚は赤そのもの。




 血もそう、体力もそう、精神的疲労もそう。




 リザは限界だった。




 自分の意志で立てなくなり、ゴブリンが支える形で何とか立っているだけだ。






「心臓ではなかったのですか?」




 弱くなる指先の力でゴブリンの首に触れる。必死に力を籠めようにも力は入らない。たとえ自由がきかなくても最後まで殺そうとする執念。






「なぶり殺しですか?」




 されど血は抜けるし、体の力は速い感覚で落ちている。一撃で殺せたはずなのに、殺さないのはそういうことだろう。






「抵抗できなくなってから、犯しますか?」




 女としての矜持も見下す相手に奪われる。体も自由も尊厳もすべて奪われる。その屈辱さはリザにとって激しい憎悪を抱く。反応をみながら汚されるのかもしれない。それは非常に耐えがたい。






 そのくせ何も答えないゴブリンに対し、激しい感情を持った。言葉だけは最後までもって死ぬ。






「絶対に許さない。怪物もお前も私を愚弄して、それで満足ですか?獲物が苦しむのは気分がいいですか?」




 朦朧とする意識の中、リザの指先はゴブリンの首を絞めている。なぜ抵抗させているのか。魔法で最後まで体を操るなら微弱な抵抗すら奪ってしまえばいい。そう思えども、抵抗できるのだから抵抗する。




 無駄なあがき。






「・・・おまえはかわいそうだ。しぬことしかかんがえてない。じぶんのことをにんげんっていいながら、じぶんのことをいちばん、ものあつかいしてる」






 それはリザからすれば、きょとんとする発言だった。




 哀愁漂うゴブリンの風貌。そこには共感すら感じるほどの慈しみがあった。だからこそイメージと違う。リザが思うゴブリンの野蛮な本能。弱者ゆえの残酷性とは違う。




 痛みも疲れも忘れてリザは混乱してしまったのだ。






「たいへんだったんだな。おまえも。おれとくらべられたくないだろうが、おれもおまえみたいな、いきかただった。いきるだけで、いたい。たのしみはない。まわりがおれたちをころすし、おれたちにはなにもさせない。しぬことだけがただしい。そんなやつらのちかくでそだった。ほかのごぶりんをしらないが、ごぶりんというだけで、さいていなあつかいをうけた。おれはにんげんにころされるためにうまれた。にんげんがおれたちをそだて、にんげんはおれたちをいたぶって、ころす。いかにくるしんでしぬか。それだけだ」






「うまれたいみはない。しぬことだけがいみをもつ。そとのごぶりんがうらやましい。じゆうのままにいきて、こどもをつくり、てきとたたかい、なかまをまもるためにしぬ。そんなものをもとめていた」




 ゴブリンは小さくこぼした。






「おれはにんげんがきらいだ」






 哀れみの目をゴブリンが向けている。それはリザにだ。




 人間が嫌いなゴブリンが人間のリザを同情し、それを更に気づくことで怒りが膨れ上がる。




「この私に、その目を向けるな!!」




 屈辱だ。リザの心は吠えた。意識を手放さず、最後のところまで感情をたたきつける。






「にんげんはきらいだが、ひとりだけれいがいはいる。あのおかた、おまえがかいぶつという、にんげんだ」




 リザの拒絶にも関わらず、哀れみの目はつづけ、ゴブリンは勝手に話を進めてくる。




「あのおかたをまえにすれば、おれのこころはふるえてしまう。にんげんなのに、どうしてうけいれられるのか。なぜよわいくせに、つよいまものがしたがうのか。ほかのにんげんは、なぜあのおかたをこわがるのか。それはいじょうなんだ。よわさのうえでなりたつ、つよさ。いまだにりかいはできない」






 リザもそれは理解しがたいものだった。




 怪物の異常性がこのゴブリンを作り上げた。リザの立ち位置を向上させた。ただの化物人間が、出世し、常人を従わせる立場になった。






「おまえのふこうは、しんらいできるものがなかった。ぜんぶ、まわりがてきだったんだろう?ならいきのこるためには、じぶんのいしをたかくもつしかない。きたえるしかない。じぶんだけをしんらいするしかない。そうやってまわりにもたよらず、ひとりでつよくなった。それがおまえのいきかただった」




 ゴブリンは空いた片手をリザの後頭部に回す。




「あのおかたのような、いじょうしゃがいなかった。おまえすらうけいれられる、いじょうしゃ、そのさが、おれとおまえだ」




「ゴブリンなんかにわかってたまるものですか。勝手に見下して、同情しないでください!!!」




 リザの苦労をわかるのが、人間ではなく。




 下等生物として見下したゴブリンであること。王国で魔物が生きるには人間に付き従うしかない。魔物を最低種族として見下す国民性。魔物をそばにつけるだけでも、人間として見られない。






 王国は苛烈な化物排除国家だ。だから怪物は嫌われるし、魔物を使って人間を苦労させることは嫌悪以外何も生まない。




 だからゴブリンは苦労していることを、リザはなんとなく理解してしまった。見た目が人間であるリザはまだまともな扱いだろう。見た目も中身も魔物な下等生物の生きざまは言葉だけでは語れない。






 だからこれ以上、拒絶の言葉を吐けなかった。






 リザは意識を失いかけ、それでも反論しかけた。でも黙ったのだ。






「やすめ、おまえはつかれてる」








 そして後頭部に回した指が鳴る。






 リザの意識が急激に遠のき、体の力が失われていく。倒れそうになるものをゴブリンが支え、ただ哀れみだけがリザを見つめていた。






「ねているあいだに、きずはなおしてやる」




 ゴブリンごときに安心感を抱いた己の心。下等生物に殺されかけ、苦しめられたというのにだ。






 その事実と境遇の近さ。




 勝手に同情し、想像し、そして鼻で笑いたくもなるが、できなかった。








 そしてリザは気を失った。


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