英雄と外道 3

地獄が具現化する。見る人によっては吐き気を催し、選ぶものにとっては喜劇の幕。倒れていた人々が悪意の雨により変化を生み出す。健康そのものだった肉体は気力を奪われ、徐々に萎んでいく。されどなくなるわけじゃない。萎み、必要最低限の肉体と皮、筋肉、動くのに必要な部分、生きるのに必要な部分は削り取られただけだ。脂肪、触感、食感といった喜びを感じてきた結果と喜びを知る過程を全て食い尽くされていく。




 気付けば腐臭がまっている。生きるだけの人形と化した人々の肉体の一部が剥がれてきているのだ。肉体の外殻である皮膚が雨によって焼け落ち、爛れて腐肉とかしている。虚ろだった視界は何もうつせない。






 倒れていた人々は、一人、一人ずつ立ち上がっている。腐臭を作り続けながら、落ちぶれた人ほど立ち上がっていく。健康的な人々は倒れたままで、駄目な人ほど過酷に叩かされる。








 現代人が見ればその存在をこういうのだろう。






 ゾンビと。ただゾンビではなく、実態はもどきでしかない。人は食わないし、襲われた人間が感染するわけでもない。






 円陣の人々は、ゾンビとなりて英雄だけを一死にとらえている。動くことはない、立ち上がって体の向きを英雄に向けただけだ。穏やかで虚ろな目線、だけれども英雄だけを獲物にした体制だ。








「・・・アラクネ、怪物」








 英雄が槍の切っ先を雲へと突きつける。怒りなどはもはやない。呆れも呆然も通り越し、敵へと向ける殺意が決意として固まっていた。






「貴様らを討伐する」






「・・・ふかのうだ」






 アラクネは子供ながらに中年の声で否定する。見た目と声のギャップもおかしい。人々をゾンビにかえるやりかたもおかしい。アラクネはもう少し乱暴に事を侵す。アラクネは人のいう事を聞かない。英雄はそれを知り、怪物の影響力を推し量る。






 怪物は優しさも暴力も狂気もふるまう、人であって人でない。人の立ち位置にありながら、人から外れた除外者。






「・・・けいこくするよ・・・こないほうがいい・・・きたらしぬ」






 そう言って雲は嘲笑を浮かべていた。それどころか片手で手招くジェスチャーすらしていた。煽りをわざと起こし英雄の短気を買わせようとすらしていた。






「そうか、ならば少し考えよう」






 英雄は雲の警告を素直に受け取った。sランクは慎重だ。相手からの嘲笑も馬鹿にするための警告も嘘ではないと仮定していたのだ。今踏み込めば危険かもしれない。むろん何もしないのは論外である。だが何も考えずに踏み込むのは阿保のすることだ。






「・・・おくびょうものかな?」




 対する雲は煽る。英雄が慎重な一面を見せれば、煽る。好戦的になっても煽る。侮辱すら問わず、否定すら容赦しない。とにかく雲は煽る。




「・・・おくびょうになりたいなら、はじめからこないほうがいい・・・だって、はじをさらすだけだ」






 両の掌を見せて、英雄を小馬鹿にした肩透かし。蛙のごとき嘲笑は更に深くなり、英雄の感情を逆なでようと苦戦する。雲としても罠をせっかく作ったのに、来てくれないのは面白くない。








 だが、来てくれても困ってしまうのも事実。罠を作ったはいいが、今はまだ完成していない。煽ることによって来る可能性が少ない。だからこそ煽るという面もある。だが中途半端とはいえ、罠の実力を見てみたいのも事実。




 好奇心が雲を動かし、英雄を見つめている。答えすら返さない英雄。口だけを開く雲。慎重になり行動が鈍くなる英雄と好奇心と若干の焦りからか雲の煽りは続く。ジェスチャーで肩透かし、指をふる、その場でくるくる回転したりと色々行っている。










 罠は完成した。倒れた人々の円陣はゾンビもどきに成り果てたものから立ち上がる。人であろうとするものは倒れ伏し、人外もどきにランクダウンしたものだけに立つ権利が与えられる。倒れ伏した人々は数人、あとは全てゾンビもどきに成り果てた。






 だが英雄は来ない。








 痺れを切らした方が負ける。






 されど雲は痺れを切らした。








 同時に英雄が駆けていた。目的は雲、音すらも置き去りにした加速、気付けば雲の視界にあったのは槍の切っ先。反応が追い付かないけれども、それは雲も予想のうち。






 雲が避けるまもなく、ゾンビもどきの人々が英雄へと殺到する。円陣をくずすかのように外から中央へと同時進撃。円の外側から中央へとなだれ込むゾンビもどきの姿は、圧巻。音も声も出さずに静かさを伴った獰猛な殺意。




 人々がくるよりも先に英雄の切っ先の方が早い。






 英雄が雲の胴体、人間で言う心臓の位置へと槍を突き出していた。雲は反応もできていない。予測はしていたし、予想もしていた。英雄と雲の力量差は開きすぎている。罠を発動する間もなく、相手の力量との差を明確に突きつけられるのだった。






 皮を肉をあばらの隙間を貫き血流が槍の隙間から垂れていく。雲の心臓めがけた一撃は正面から心臓、そして背中へと貫かれた






「ひゅ・・・ひゅ・・・」




 雲が一撃の痛みか、重みか、悲鳴すらも嘆く暇もない。ただ槍に貫かれ、雲の足が地から空へと位置が変わる。英雄が槍を持ち上げ、雲の体も持ち上げられていくからだ。










 そして英雄は勝利を確信した。ジャッジメントなる槍は命に対する最悪の兵器である。対象生命の重要機関に接触した場合、その箇所のエネルギーを殺す仕組みを持っている。心臓の位置は人と変わらないアラクネ。下半身や伸びた手足以外、人間と変わらない魔物。






 Aランクの魔物風情がsランクの英雄に敵うわけもない。






 だが、一息つくまもない。




 ゾンビもどきの人々が殺到しているからだ。止まらない。止まらず英雄めがけて攻め立てようとしている。




「殺すしかないようだ。人を手にかけるのは好かないが」




 雲を対処しても終わらない騒動。人々の変化したゾンビは、英雄にとって未だ人。人が無理やり替えられた姿は英雄にとって人なのだ。侮辱も差別もなく、人として哀れみ、人として終わりを与えようとするやさしさ。






 槍を軽く横なぎに一閃。雲の肉体が横なぎに振られた槍の勢いで空へと回される。心臓部分に穴をあけ、槍が抜けた後から大量の血しぶきが解き放たれていく。血流が生まれ、空から地面へと汚染されていった。英雄が迫りくる人々に意識を向けたときには、雲は地面へと身を投げ出していた。






 悲痛な表情を英雄は浮かべ、人々を見渡した。






 激痛に塗れた恥辱の表情を浮かべ、雲は倒れていた。心臓はつぶされた。ただつぶされただけならば、何とかなるかもしれない。だがジャッジメントによる生命殺しが発動した今、もはや雲に生きる道はない。






 死だけがまっている。






 英雄が人々の首をはね、手刀で首をはね、足で頭部を蹴飛ばしている最中。雲は息も絶え絶えでありながら、考えていた。




 自身の死。






 唐突に見える生命の終わり。雲はここまで惨敗するとは思っていない。勝負にすらさせてもらえなかったとは思っていない。後悔もない。






「・・・やはり、ここまでか」






 そして。






 幕が引く。








 人々は駆逐された。ゾンビもどきとなった人々は駆逐された。雲によって引き起こされた地獄の図柄はたった一人の英雄によって解決したのだ。雲が倒れ、人々は駆逐され、悪意の雨雲はちりちりに千切れて、形をけしていく。雲がいなければ形も保てない、悪意の雲はただ跡形もなく消え去っていた。








 ベルクに久々の希望が降り立った。雲が悪意で掻き消した希望の感情たちは少しずつ増えていく。希望は生きているだけで必ず生まれるものだ。残った生命、殺された人々の安息の魂。それらが希望としてベルクを照らす。怪物がいるせいで希望は数少ない。






 されど希望が生まれた。








「あとは怪物」




 殺したゾンビもどきの人々を見下ろし、倒れて血を流す雲を見つめて。雲も人々も死んでいる。幕を引き下ろした英雄は、次なる決意を見せつける。誰に対してでなく、自身に対してだ。






 だが人の決意を邪魔しようとするものは必ずいる。




「それは困るな、私がまだ見ていない。この王国ひとつを劇場とした悪意の指揮者、怪物だったか、まだみていないんだ」






 希望が生まれた




 だが、希望が生まれたことによって、あるものが訪れる。第三聖女である、役立たずとも蔑まれる聖女様だった。




 それは人々を侮辱し、見下す、希望に好かれた人でなしだった。








 聖女は世界に干渉できない。ただしくは希望で世界を俯瞰するとき誰もみれない。言葉もできない。人々の意識がなければどこにもいけない。されど聖女が一人だけ、話をできる存在がいる。








 英雄ベルナット。






 ジャッジメントによる特性か、英雄としての特性かは聖女にとって不明。必要なのは会話ができることだ。部屋から極力でない、引きこもり屑特性の聖女としても会話はたまにしたい。また同族みたいな怪物を殺されるのも今はもったいない。怪物に飽きる前に殺されてしまえば意味がない。




 希望によって、聖女は形を示している。






「第三聖女、貴女が見る前に俺は奴を殺す」




「英雄ベルナット殿、私は見ていないんだ。見る前に殺されても困る」








 英雄は切っ先を次は聖女へと向けた。






「邪魔をするな」






 聖女は指先を英雄へと向けた。






「邪魔をするなとか、笑えてしまうよ」






 英雄は怪物の前に聖女を、聖女は怪物の前に英雄を。両方とも怪物を守る気もなく、己の意志にて怪物をかけていく。




 二人の精神はお互いの敵にのみ注がれる。隙などはない。お互いにとって。この場には二人しかいない。あとは倒れたゾンビもどきの人々だけだ。頭部や心臓を打ちぬかれているため、動くこともない。








 そして両者の緊張が高まった瞬間。変化は再び第二幕へと変更される。








 殺された人々の肉体が膨れ上がっていく。腐敗が急激に進みだしたのだ。腐臭が更に濃くなり、風船のように膨らみだしていく。音もたてず、ただ膨らみ地面に横たわるボールのようになったのだ。




 その光景を目の当たりにし、英雄も聖女も一瞬の変化に戸惑っている。二人しかいないのに、人々の変化が止まらない。雲が原因であるだろうが、原因である雲は倒れ伏したままだ。心臓をジャッジメントで殺し、感触で確かめた。






 だから原因は自ずと別の物になると英雄は考えた。そしてアラクネ以上にこのような演劇ができる存在はただ一人怪物。そういう風に考えた。






 そういう風に考え、そういう風に誤解する。




 人は考えたいように考え、思いたいように思う。都合のよい生き物なのだ。








 膨張した人々は、肉体限界まで膨らんだ後、停止した。






 槍は聖女に、指は英雄に。聖女と英雄が己の敵から警戒を辞めず、状況だけを把握にかかる。






 どちらにしても聖女も英雄もろくでもない結果しかもたらさない。怪物という一人の底辺に対し、過剰すぎるほどの脅威たち。聖女は動かないはずの思考、だけれども動かずとも動かざるをえない。英雄の登場、ベルクでの悪意防壁の解除。隙を見せた瞬間に入り込む俊敏さ。




 二人は冷酷であり、容赦はない。動かない人間が動くときは厄介であり、動く人間が動くときは最悪である。前者は聖女で後者は英雄。






 怪物の味方なんか数少ない。






 聖女がかっても英雄が勝っても、怪物は酷い目にあう。彼がひどい目にあう。










 だがそんなこと許してこなかったものが一人いる。ただしくは一匹。ベルクにて聖女の進出を止め、人々をゾンビもどき化してまで守ってきたものが。知恵を持たぬ魔物たちの中でも、醜悪で醜態をさらしながらも守ろうとする強者が。






 怪物は、彼は、自分のものなのだ。強い意志を持つ者は今、心臓部分に大穴を開けて倒れ伏している。呼吸などしていない。現状死んだような状態であるが、口元だけが僅かに動いた。






「・・・きたらしぬといったのに」




 心臓に大穴をあけ、鼻も耳も聞こえず、視界もまばら。瀕死状態の雲は確かに言葉にし、指をならした。小さく、誰も気づかない。人々の変化にしか目を向けていない、己の敵にしか目を向けていない。倒した相手のことなど興味もない。殺したと思われる、もしくは再起不能である存在にすら意識を向けてこない。




 雲は確信した。






「・・・ぼくのかちだ」




 そして爆発が起きた。人々の膨張した風船は突如として大きく弾けて飛び散った。ただ飛び散っても血液など臓器などはない。ただどす黒い暗黒の闇が破裂した人々からあふれだしたのだ。肉体の血液、臓器を全て悪意に染め上げ、強制的に溶かす。そのエネルギーは雲が倒れたときに消えた悪意の雨雲。悪意の雨雲は雲の制御がなくなって消えたのではなく、雲が制御して人々に強制的に付与させたものだった。






 聖女も英雄も来ることを予測し、自分がまけることすらも予測する。誰よりも酷いことをする雲が、誰よりも酷い目にあう。彼の魔物の中で生まれた時から酷い目にあわされ、精神を狂わされてきた過去。その経験が命すら掻き消える状況でも行動を鈍らせないのだ。






 悪意の闇が煙幕のように舞台を浸食していく。人々がはじけ、一人一人弾け、闇がベルクの2割を覆い隠す。戦いの舞台から殺意ゲームの遊び場として変わり果てるのだ。






 そして闇が英雄と聖女を包む。だがこの闇の中は希望を掻き消すものではない。爆発して生まれた空間でありながら希望は何故か増えていた。だからこそ、聖女は姿を保っている。理由を考えるまでもない。






 誰も雲がやっていると思っていない。




 英雄も聖女もこの劇場の変化は怪物のものだと誤解しているためだ。なぜなら雲は死んでいる。そう思い込み、勝手に除外しているからだ。




 困惑しながらも己の敵に対し目を背けない両者。英雄も聖女も己の敵だと認識し、動かないのだ。だからこそ、罠。雲の最大で失敗したら意味のない罠。




 聖女の希望を無理やりこの場に押し寄せたのも、むろん雲。思考誘導による強制希望発生。悪意の煙の媒介にさせられた人々の最後の想い。それを強制的に聖女側へと送りこんだ。




 悪意の闇に誰もが包まれた。あたり一面闇一面。呼吸をすれば微弱な悪意が肺へと入り込む異物感。英雄はジャッジメントの効果により無効化し、聖女は呼吸など希望俯瞰ではしていない。二人には影響のないものだ。






 でも逃げるべきなのだ。




 なぜなら、ここは雲の罠。




 闇の世界の罠全てが爆発した。二度目の爆発。闇に包まれた世界が闇ごと爆発した。空気中に漂う悪意の総数全てが勢いよく音を立て、破壊を生む。火による爆発ではない。悪意が悪意でぶつかり、空気中に振動を与え、勝手に共鳴し、音が生まれる。生まれた音が人体に悪影響を与えるものだった。






 それだけだ。






 闇に潜む人々を無差別に破壊する爆発。




 ジャッジメントの防壁を突破し、英雄の皮膚を一方的に爆発させられる。それは悪意の煙幕が人々の血液と臓器が溶けたものだからだ。避けようにも闇に包まれている以上、避けきれない。肺に蔓延る悪意はジャッジメントの効果に無力化されても、肉体もジャッジメントの防壁に包まれようとも、煙幕に溶かされた肉体の一部。それを破裂させた爆発の勢いだけは防げない。








 再び爆発した。二度、三度、四度、英雄の周り全てが敵対者である証明。空気が全ての生命を傷つける爆発を起こしていく。どれだけ早かろうと、どれだけ強かろうと、これだけは耐えられない。






 そして、英雄が弱さを見せれば、すかさず聖女は指を指揮者のように空をきる。空間をなでるかのような指使い。正面の英雄を捉えたままの指使いは、一つのものを生み出した。








 聖女の指揮から、六芒星のような図形が象られていく。聖女と英雄、その間を壁のように出現した六芒星。その中から指が突き出され、足が突き出され、顔が突き出されていく。人の姿を形作った存在が六芒星から一体出現してきていた。




 純白のワンピースのような服。されど背中に大きく二つの穴が開いた服、その空いた穴からは巨大な純白な二翼が大きく広がっていた。金髪にして容姿は精細。感情を移さない人形のような存在、それを人は天使と呼ぶ。




 天使を出現させた聖女は指で再び英雄を示す。






「天使よ、あれを殺せ」






 爆発のさなか、英雄はそれでも防御の策をとる。たとえどのような無力さを示されても、敗北の意志だけは見せない。聖女が天使を出現させようとも平時なら10秒以内。この空間でなら1時間以内で倒せる存在だ。英雄は鍛えた肉体が誇りだ。磨き上げた修羅場が誇りだ。だからこそ、冷静に痛みに耐えて物事を運ぶのだ。








 英雄は槍を構える。背後で爆発。前方で爆発、ありとあらゆる場面で爆発をし、英雄に傷を与えても、己の敵は聖女なのだと意志を見せる。痛みに耐え、視線だけは、警戒だけは聖女に向けた。爆発から意識をそらし、爆発の中に潜む悪意すらも意識から外す。集中という相手に油断をしない行為。






 だから英雄は人間である。






 英雄で善人で、卑怯なことを仕出かしてきた奴らを倒してきただけの人間。




 死にかけてまで、殺されかけてまで、心臓を失ってまで、襲い掛かる脅威をしらないのだ。








 爆発、爆発。






 英雄の感覚は聖女が繰り出す天使に突きつけられている。天使は空を舞い、英雄へと立ち向かう。天使は武器を持たず、英雄は槍のみで空へと舞う天使へと立ち向かう。天使が空からの急降下の勢いで放った踵おとしなど、槍の一閃で足首ごと削り落とす。創造物の天使に血などはなく、ただ単に足首が消えたところから再び光だす。傷口のところから光が消えたときには、新しい足首が生えている。されど無限じゃない。もともとあった肉体の部分と比べて、新しく生えた足首は色が若干暗い。






 この場に希望は少ない。希望が少なければ天使のエネルギーも少ない。再生におけるものも希望がなければできないのだ。いずれ縊り殺せる。その決意をして、背後で爆発が起きた。






 痛みはある。痛みを無視している。悪意が身近にまっている。悪意を忘れている。爆発が連続で起き、聴覚がマヒしている、それすらも関係ない。狙った獲物だけは忘れない。逃さない。聖女も天使も一人と一つだけは決して逃がさない。






 それだけを意識した結果。








「ぐ!!」






 英雄は胸部が訪れる激しい痛みに悲鳴を上げた。爆発の痛みは耐えた。爆発がもたらすものすべてに耐えた。だからこそわけがわからない。英雄の肉体は悪意の爆発ごときでは壊せられない。






 英雄が視線を胸部へと向ける。それは胸のあばらの隙間を突き抜けた小柄な腕が形を示していた。子供のような人間の手。ただ人間の手にしては持っているものがおかしい。どくんどくんと音を立て、血しぶきに塗れた心臓を持っているのがおかしいのだ。










 気付けば背後に誰かが立っている。この悪意まみれの空間、連続爆破、聖女による乱入、人々の大量ゾンビもどき化。ありとあらゆるものを含めて、策略し、自身の命すら担保にした最悪の罠。




 英雄の視線が胸から背後へと向かれる。ただ軽く後ろをみただけでその表情は驚愕と苦痛に塗れた。






「あ、ら、く、ね」






 雲が背後にいる。足を空にうかせながら右手で奇襲し、心臓を掴んで前へと押し出した形。雲の右手が英雄の体内に収まっているからこその無理やりな体制。その体制は長く続かず、心臓は外から体内を通過し雲の方へと手繰り寄せられた。












「・・・しんぞうごときをうしなって、どうしたの?」




 中年の声で、子供が嘲笑う。心臓部分に大きな穴をあけ、死にかけているはずの子供が嘲笑うのだ。鼻が折れ、両耳は穴から血交じり。ただ単に死んだはずの存在が立っていることに、英雄は思考が追い付かない。




 ジャッジメントは生命を殺す兵器なのだ。






 突き刺せば確実に殺す。そういう不可装置であったはずなのだ。








「・・・しんぞうなんて、なんでもいいんだよ」








 雲は右手に英雄の心臓を、左手は自分の空いた穴に手を突っ込んだ。そこから出てくるのは槍の一撃によって壊された心臓。血液ポンプの役割を果たさず、もともと赤色の心臓がどす黒く変色したもの。ジャッジメントによって生命を殺されれば黒く変色する。その証拠の形として黒い心臓が雲の左手に握られている。




 だが違う。黒い心臓を抜いた後に赤に染められた繊維状のものがあった。その繊維は英雄が見知ったものだ。アラクネが吐き出す糸、その糸が血液によって赤くそまって、心臓の形を作っている。




 糸で心臓を作るアラクネなんか聞いたことが無い。








「・・・貴様が、怪物、なのか?」






 心臓を失い、死に体でありながらも英雄へと立ち向かう雲。戦闘力は足元にも及ばない雑魚であったのに


、このような罠を仕組み、このように人間の習性を利用した立ち回り。






 思わずにはいられない。






 この魔物が怪物であってほしいとすら。






 もしほかに怪物という存在がいるならば、このアラクネ以上になるのだ。このアラクネが従い、ベルクという怪物最大の拠点の留守を任す存在。上の立場がいるだなんて信じたくない。






 このアラクネ、雲が怪物としてあってほしい。








「・・・そんなわけない、えいゆう、べるなっと。きみはおそろしかった。だがうえにはうえがいる。おそろしさだけなら、あれにかてるものなどそんざいしない」








 雲は嘲笑もやめ、厳かに首を左右に振っている。否定の意を示し、少しの間合いを作るように飛び跳ねる。そして地面へと足をつけた。








 英雄は心臓を失った。その空いた大きな穴には悪意が入り込みだしている。ジャッジメントの防壁も胸部の空いた穴までは効果が薄い。何もしなくても死ぬ。






 だが雲は指を鳴らす。








「・・・えいゆう、さようなら」






 悪意の煙幕に溶けたものが爆発した。英雄の肉体を破壊しない程度の爆発。即座に殺し、苦しめない程度。なおかつ肉体の損傷を極力減らすように爆発が起きた。その微弱な制御も雲だからこそ行える。






 英雄が倒れ、息をけした。








 笑いもなく、相手を慈しむかのごとく敬意に満ちた表情。見下しもない。ただ相手を認めたからこそできる行為。






 右手に握られた英雄の心臓。






 その心臓は自身の空いた胸へと押し込まれていく。その押し込まれていくとき、大切なものを運ぶかのような手つきだった。




 心臓が雲の胸の穴へといれられる。雲は目を閉じ、肉体の制御を始めた。雲の中で糸が生成され、右手に大切につかまれた心臓に糸が突き刺されていく。一本、二本、気付けば幾数千もの糸が心臓を軽くつき、ぐるぐるとまとわりついていた。右手を抜けば、右手が抜けた空間にも糸が張り付かれていく。






 やがて心臓が音を立てる。雲の糸から心臓へと神経が通ったのだ。糸はやがて血管を紡ぎ、血液を生み出す。肉体が修復されるまでの一時しのぎ。やがて本当の意味で回復が始まるであろう。






 手をぬけば、空いた穴を防ぐように糸が体内から外の隙間を埋めていく。正面と背中をつなげる胸部のトンネルは糸によってふさがれ、血液が漏れ出すことはなくなっていた。






 英雄の心臓を雲は手にした。








 あとはもう一つ。聖女は唖然とし、天使は行動を停止している。だが天使が行動を停止しているのは聖女が指揮をしていないからじゃない。雲が英雄の心臓をえぐり出したときには、天使の行動をとめさせていたのだ。






 相手の指揮を邪魔する方法、相手のエネルギー源を奪う。雲によって誘導された希望があってこその天使。希望を悪意で消し飛ばしてしまえば、外からのエネルギー供給はできない。感情によって出現した紛い物の天使など、外圧で押し殺せる。




 悪意の外圧が天使の精細な表情を苦しめ、やがて塵とかさせる。あっけない結末である。


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