英雄と外道 2
戦いは名乗ることもなく始まった。雲が髪の束を自身の口元に放り込んで飲みこみ、英雄が槍を構えたときにはじまっていた。そして雲が戦闘の体制へと取る前に英雄の攻撃が行われていたのだった。
英雄の一突きが雲の眼前に放たれている。雲が大げさにも近い右へと上体をそらすことによって、槍の一撃は空を切った。音すらも置き去りにし、一撃の動作が止まるころにようやく追いついた。爆発したかのような大気の震えが遅れて到達。
間一髪とはいえ回避は回避。
だが音の爆発は雲の左耳の鼓膜を突き破った。突き破り、音の振動により内部の一部から血が噴き出した。左耳穴から血が垂れ、苦悶の表情を雲は浮かべた。
たった一撃。
英雄は追撃をせず、矛先を雲に向けた。大げさに雲が避けたことにより、二歩ほどの距離が両者には空いていた。槍の攻撃範囲ではあるが、されど踏み込まなければアラクネには届かない。槍だけで相手に届かせようとも、無意味。躱される、そんな未来が英雄には感じ取れていたからだ。
「・・・かわした・・・はずなのに・・・」
苦悶と共に避けたはずが避けきれない物事。理不尽さが雲の感情を高ぶらせていた。対する英雄は冷静だ。人々が倒れた円陣の中、英雄は物静かに雲だけを捉えていた。
左耳から音が途絶えた雲。
だが英雄が再び構えた。左手に握るジャッジメントをくるりと一転。手のひらで転がるように滑らせて回す。ペン回しのようなものだ。それを前方に扇風機の刃のごとく、己の姿を槍で一回転分隠しただけだ。
だが雲は一瞬、槍の回しに視線を向けてしまった。
意味のない槍回し。
その動作に警戒をした瞬間、雲は吹き飛ばされた。視認ができない速度にて攻撃を受けた。それを雲が自覚するのと同時に、先ほどいた位置には英雄が左足の靴底を振り上げていた姿を捉えた。槍に一瞬夢中になった瞬間、英雄は勢いよく駆け出し雲の眼前を左足にてけり上げたとの予測。衝撃は弱い。死ぬこともない。だが雲の鼻が蹴りの一撃によって、血を噴出させられた。
血自体は少ない。されど鼻の根っこ部分が軽く曲がって痛みをじんじんと伝えてくる。嗅覚も鈍い。
強い。
慢心はしていない。油断もしていない。
アラクネという上級種族。その子供とはいえ、雲は己に自信があった。勝てなくても、いい勝負ぐらいはできるであろうという憶測。
ふきとばされ、地面にたたきつけられる前。雲は空中に足場があるかのように、何もない空を蹴り上げ、一回転。足から地面へと滑るように着地した。蹴りによる衝撃と空中での一回転。槍回しよりも高等なワザを見せつけた。
左耳、鼻。
着地と同時に英雄へと雲から迫った。駆け出すように複数の足を使い分け、人間が達せられない速度にて肉薄。英雄よりも足の速さだけならば雲の方が上。英雄が攻撃の構えすらとる前、雲を吹き飛ばした左足を地面に突きつける瞬間の話だ。雲が英雄との距離を狭め、複数の足が地面へと縮こまり、バネのように大きく空へと舞い上がる。雲の手ひとつ、それで英雄の頭部に一撃を与えられる距離。
予測もせず、雲は一撃を予感した。
雲の右耳側へと鋭い一撃。二度目の音を遅れさせた神速の一撃が放たれていた。雲が空へと舞い、英雄の左足が地面へとつく。その動作と同時に雲の頭部を狙う槍の一撃だった。英雄は軽く上体を後ろへ下げ、槍の攻撃に対する距離を自ら作っていたのだ。左手に握られた槍が、雲の右耳側の側面を削り取らんと迫っていた。ただ上体を後ろに下げての一撃は、思ったよりも力も狙いも定まらない。その中で右耳側を狙う執拗さ。
見えない動作、英雄よりも早く動いているはずなのに、雲の方が狙われる。英雄とアラクネ。王国最強の英雄とただのアラクネ。
差は歴然だ。
子ども扱いされたようだ。雲は子供であるが、子ども扱いされても気にしない。だが実力差にて大人と子供の差が明確に突きつけられていた。それを雲は噛みしめていた。
雲は再び空をけるようにし、反転。槍の一撃から逃れるように右へと体ごと滑らせた。だが一撃自体は躱せても、遅れてきた音だけは防げない。
右耳側へと爆撃されたかのような音が入り込む。左耳と同じように右耳の鼓膜が破れ、内部の一部が傷つき血を吐き出していく。耳穴の中に血流が混じり、音が入る空間すら塗りつぶされていった。右耳、左耳、鼻。3つの器官が封じ込められている状況。
右耳の音を失ってからか、さすがに雲も悲鳴を上げた。聴覚をつぶされ、嗅覚も鈍くさせられた。痛みによる苦悶。音と臭いを削られた世界の感じ取り方。
それでも雲は笑みを作った。苦悶に耐えながらも、笑みを作る。
雲単体では勝てない。
それを自覚し、体に刻み込む。知識だけでなく、己の体に刻み込む。傷が己の心に記憶として、強者の理不尽さを再び戒めさせる。最近、温いことしか経験していない。若干慢心していたかもしれない。そのアラクネたる強者が持つ、傲慢さを自分からつぶしていく。
英雄に勝てるわけがない。そんなの初めから知っている。英雄は息一つ乱していない。油断もしていない。あくまでも冷静に雲を見つめている。勝敗を性急に求めるわけでもない。
英雄も雲も同じ心構えで戦い。
そして差は満身創痍の雲と無傷の英雄というもので突きつけられる。
だがここはベルク。
怪物のテリトリーにして、最低の要塞。怪物がいるだけで悪意が満ちる地獄の釜。
雲は口元に手を付きこむ。雲の右手が肘あたりまで自身の口元へと飲み込まれていく姿。さすがの英雄も少し引き気味の表情を浮かべ、事先を見守る。英雄は動かない。正しくは動けない。周囲に満ちる悪意が一点に集まっているからだ。
ここで動けば悪意に飲まれる。ジャッジメントを持つ英雄には効果はない。だがそれでも動けずにいた。一歩、踏み出して隙だらけの雲を殺す。簡単だ。だがそうはさせないといった自信を雲は感じさせていた。
喉元をごくごくと引きずり上げる音をもって、最初に肘。そこから唾液交じりの手が外へと吐き出された。その手に握られた髪。
「・・・これが・・・これが・・・あるかぎり・・・きみは・・・かてない」
ベルクの悪意が雲と英雄の上空へと集まっていく。雲が髪を握り、不敵な笑みをこぼす。されど傷の深さ、耳と鼻の器官をつぶされたことによる、感じ取り方の鈍さは隠しきれていない。
英雄はそれでも動かない。警戒をもち、上空の悪意を感じ取り、雲を睨み付ける。周囲の円陣。あくまで雲と英雄は、人々の倒れた円陣の中で戦闘を行っていた。雲も英雄も人々がいるところにだけはいかず、あくまで被害が無いような戦闘だ。
英雄はこう思っている。ベルクの人々は怪物にとっての支配領域。税金ならぬ贅を生む家畜である。それを傷つけない、支配者の形を示していると。
雲はこう感じている。ベルクの人々なぞ怪物の悪意を高めるための餌でしかない。家畜どころか、それ以下の存在でしかない。支配者どころか暴君の形を示してやろうじゃないか。
人々を傷つけない。その怪物の真意を英雄は信じ込み、雲はそれすらも餌として甚振る贄とする。
英雄は警戒で動けない。だが殺そうと思えば殺せる。されど、上空に蔓延る悪意たちの総数は膨れ上がりすぎている。何が始まるという警戒ではない。
殺さなくてよかったという己の行動を抑止するための警戒だ。
英雄の勘。
この場合、正解だったといえる。
英雄は王国の人々を殺せない。傷つけられない。されど雲は違う。あのとき殺されていた場合、ベルクの人々は英雄に対し攻撃を始めていたことだろう。今は倒れた円陣を作る人々。その人々は雲の精神誘導によってある命令を下されている。
雲という存在が死んだ瞬間、己の全生命をかけてでも、雲の操作を受けていない身近なものを殺せという誘導を。この場に精神誘導を受けていないのは英雄一人。そしてもう一つ誘導を受けている。初めに見た身近なものを執拗に狙えというものだ。その中で完遂する際、邪魔なものを殺してもよいという人間の理性を壊させている。命令のみを遂行するのでなく、二次被害すらも生み出せという邪悪な命令が組み込まれている。どうせ人々が本気になっても勝てないのが英雄だ。それでいい。英雄は殺せないが、殺さなければベルクから出られない。人々を守るはずが、人々を殺さなければならない。殺さずに逃げることもかなうが、それでもどこまでも追いかけ、無関係な人間を殺してでも雲の指示を完遂しようとするだろう。
逃げても追いかける。殺すしかない。倒すしかない。誰かがその人々を殺してもいい。同じ王国の民を、王国に住む誰かが殺してもいい。そうすれば誘導はきえる。だが誰かに誰かを殺させるのは、ただの殺人でしかない。
人は人を殺したがらない。積極的に殺そうとするものなんてありえないのだ。
そして英雄は、それをわかっていて黙れない。
その雲の考えを、英雄は勘で理解したのだ。英雄は勘も戦闘能力も常人を遥かに超える存在だ。相手の邪な考えすらも常に振り切ってきた。そのため攻撃をしなかった。
ただし今なら殺せる。周囲からの悪意は今や上空に集まっている。
雲の誘導はあくまで誘導。本来の雲の能力を大幅に超える性能を発揮している。雲はあくまで誘導をかける対象の意志を少ししか弄れない。誰か死者の思いを込めた一部があれば話は別だ。だが、死者の思いを完遂させるだけでしかなく、あくまで本人の意思を奪えない。
それを可能にしたのが雲の手にする髪だ。
彼の髪だ。
彼が静に切らせ、床にちらばった髪。彼もとい怪物の髪。怪物は片目に悪意をため込み圧縮しているが、それだけじゃない。髪もまた悪意を閉じ込めているのだ。変化が片目だけなのであって、その消耗品たる髪すらも悪意が込められている。ただ怪物の特殊精神構造のせいで、髪にこめられた悪意はごく一部でしかない。
でもそれでいい。
このベルクという地獄の釜では、それすらも絶大な効果を発揮する。雲という精神誘導者と怪物の髪という鍵。この二つがそろった瞬間、地獄が始まるのだ。彼の髪を体内に入れている間は、雲が死んだ瞬間に身近なものを殺せという誘導に変わる。
雲が手に持っているときは、人々の精神捜査を変更できる。持っている間は、雲が死んでも人々が英雄を襲えない。そういう悪意との契約であり、それ以上は雲の力では扱えない。制約なくして力は得られない。
怪物の髪に込められた悪意の総数 魂にして8人。
少数と思われるだろう。だがベルクに集約した悪意の感情。魂にして140人。適当な計算であるが感情が1000集まれば、一つの魂規模の悪意になる。それを140人。誰かが140人死んだわけじゃない。夜な夜な雲が人々に悪夢を見せつけ、一方的に回収してきたものたちだ。また誰かが抱え込んでいた悪意を害がない程度に奪い尽くしてきた結果だ。
ベルクは悪意に満ちている。だがベルクの人々は悪意に飲まれていない。ベルクの人々から生まれた悪意は夜あたりに怪物へと収納される。そのシステムを雲が作り上げ、構築した。
このベルクで精神安定剤の売れ行きが極端に悪くなったのはそれが原因だ。精神を高める、興奮剤すらも売れ行きが悪くなっている。不安を生み出す癖に、不安を吸い取る。その負の感情、収納システム。
怪物という存在がシステムの根幹だ。
ベルクに生まれる悪意たちは怪物を父みたいなものなのだ。産んだのが人々ならば、種は怪物だ。その怪物の髪を所有する雲は父の子供といえる。悪意たちは知っている。怪物の配下にして、最強なのが牛さんならば、最低なのが雲なのだという事実を。
雲が生み出した悪意は雲を親としている。雲が怪物のネームバリューを使って生み出された悪意は、雲と怪物が父みたいなものだったりする。だから怪物に従い、雲にも従う。
悪意の総数が上空に佇む雨雲のような形へと姿を変える。
人々の円陣を悪意の雨雲が上空から影として、闇に隠す。日を遮り、円陣だけが大いなる闇の世界へと作り変える。
周囲からまだ悪意たちは集まっていく。その総数は140の魂規模から220へと数を大きくあげていく。人間は強者だ。感情を強く持ち、感情を餌として力を与える魔力を大きく秘めている。この世界の強者の魂が220。
英雄ですら絶句した。
雲を殺せる。殺さなくていい。その生殺与奪の意味すら忘れ、この悪意の総数たちを見上げた。英雄ならば220人程度の人々は殺せる。それどころか220の魔物すら殺しつくせるだろう。だが違う、悪意という感情の渦は殺しきれない。ジャッジメントをもってしても人から生まれたものを殺しきれない。
ジャッジメントは人から生まれた対生命兵器だ。命に対し絶大な力を発揮する、ランクの高い兵器だ。だがこれは想定を超える。
聖女の再来。聖女に初めて出会ったときと同じ衝撃が英雄の心に広がった。
「怪物これほどか」
悪意の源、それはジャッジメントから感覚で伝わる。悪意の雨雲の根源は怪物である。怪物がいたからこそ生まれ、ベルクに留まっていられる。その真実をジャッジメントから教えられ、思わず英雄は悍ましさのあまり言葉を漏らしたのだ。
「・・・かいぶつ・・・かいぶつ・・・きみのてきは・・・かいぶつじゃないよ」
それを鼻から血を垂れ流し、両耳から血をまき散らす満身創痍の雲が言う。余裕交じりの言葉であるが、見た目は満身創痍。苦悶を浮かべての凶悪な笑み。されどどこかしら狂気を感じた。
「俺の敵は怪物より先に貴様か、アラクネ」
「・・・ちがう・・・ぼくじゃない・・・かいぶつじゃない」
雲が髪を持った手を上空に掲げた。肘までかかる唾液が地面へと落ち、何ももたない片手の指を叩いて、音を鳴らす。
音がなり、悪意の雨雲は待っていたといわんばかり揺れ出した。揺れて揺れて、僅かに雨雲の端から雨をこぼしていき、いつの間にか雨雲全体から雨がこぼれていた。円陣のみを陰にする悪意の雨雲。それらは雨と共に徐々に勢力を広げていく。円陣の上空から、少し膨れて他の領域へ。建物、英雄を濡らし、倒れた人々を濡らし、それを戦いの場からベルクの一部を薄く覆うほどに広がっていた。
「・・・ここからが・・・えいゆうをくるしめる・・・せいせいどうどう・・・ころしあおうね」
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