閑話


静寂なる空間。神秘なる空間。白、白、白。全てを純白で施された宗教的感覚の応接間。その一室は純白を維持するために日々清められている。だが一点他色がある。それは椅子だ。部屋の奥に置かれた一席。その椅子は年月を感じさせる老木にて加工された椅子。触れば、自然を。座れば安定を。心を落ち着かせるための、体を休まらせるための工学にて作らされた席。






 その椅子に純白のドレスをきた女性が座っている。ただドレスといってもシスターや神官が着こなすような、行事に用いられるドレスだ。足元も露出しなければ、首筋まで白で覆われたドレス。女性は、雪をイメージさせる白銀の髪を背中半ばまで伸ばし、顔は氷のように冷たさを抱かせる。瞳は蒼く、その目を見ていると心が自然と奪われる。






 この部屋の主たる女性。






 名をフロスト




 世界に名高る職業、聖女という役割を与えられた、気高き女性であった。年若さゆえの柔肌。触ればさぞ至福の感情を世の男性に与える、新鮮さ。されど、フロストという人間を前に性欲に近い、触れたい感情を抱く者はいない。柔肌も現実離れした冷酷な瞳も、ただただ形にあるだけで中身がない。




 心があるが、人に対する心が無い。自分に対する心はある。本音と自信を第三者目線で見るという感情目線の印象。だがそれ以上に考えることはしないという排斥の心。こういう人間だからこうしようと考えない。




 自分を含め、ただ心を向けない。されど関心はする。有益な情報にも無用な物事にも関心はする。そこに人間の努力があることを認めつつ、評価しないという面倒さを持つ。




 関わりたくない性格の人間だった。






 そして、一応フロストも聖女という事実。気高い、そう評する理由。心が無いことによる上から目線の発想でもある。










 聖女という人々に希望を抱かせる存在。その希望というものはフロストにない。その役割は別の聖女が担っているからだ。この世界に聖女というものは3人いる。温かみと幸福を身近に感じさせる第一聖女。現実と架空のものを曖昧にさせ、信者を集めさせる第二聖女。






 そして、役立たずという形をもった第三の聖女、それがフロストだ。フロストは何もできない。魔法すらも使えない。治癒魔法も光魔法も何もかもがない。体術もない。あるとすれば、誰にも近寄りがたい空気を持つのだろう。






 第一の聖女は治癒魔法にたけ、人々の痛みをいやす。肉体の痛みから生じる心の苦痛を殺す。精神魔法や治癒魔法による人専門の癒しを与える。ただし、距離を置き、あくまでも患者と医者という立場を崩さない。一歩どころか10歩ほど距離をおいた立ち位置だ。






 第二の聖女は、人の心から生じる寂しさを空虚な形を与えて誤魔化す、また光の攻撃魔法に特化している。いわばアイドルの中であって、戦闘向けの聖女だ。攻撃的でありながら、魔に屈することのない存在。されど笑顔を誰にでも振りまくことから、身近な聖女といわれている。触れるということはできないが、手を伸ばせば届きそうという距離感を保っている。








 そして役立たずの第三の聖女。これが一番の厄介なところ。この聖女は何も動かない。手を鳴らすことも笑顔を見せることもない。ただ冷徹にあって、心に釘をさす。触れたくもないし、近寄りたくもない。








「人々は嫌っているのに、どうしてすがるんだろうねぇ」






 笑わない。フロストは冷酷に、何もせず無表情をもって口に出す。誰もいない白の空間に声すら響かない。






「第一も第二の聖女も、本当に涙ぐましいかぎりだ。本当に」








 椅子の肘掛けを支えに頬杖をつくフロストは、ただ言葉だけを世界に産み落とす。嘲笑はない。冷徹な空気もあれど無能ではない。役立たずであるが、無能ではない。何もしないからといって、無能ではない。






 行動せず、されど痛みを残す。それがフロストが勝手に決めた役割だ。第一の聖女、第二の聖女もフロストにかかわることはせず、考えることすら放棄している。第一も第二の聖女も全て協会が示した方針を守るが、フロストは守らない。協会もフロストには守らせようとしていない。








 フロストは何もしない。






 冷酷な瞳。年若き柔肌。欲望すら凍らせる、異常なまでの雰囲気。






 その髪は蒼い。髪も白銀。あまりにも蒼い目、それは冷酷だ。だが冷酷なのはフロスト本来の雰囲気によるものだ。その目の深層、よく見てみれば人の心が映し出される。誰もが抱いた明るいイメージ。誰もが築き上げる未来への希望。何もしないフロストが瞳に移したものじゃない。これはフロストのものではない。






 瞳をよく見るといい。それは一人のイメージではない。複数のもののイメージが瞳に映っている。将来の夢、子供が生まれた、怪我が治った。何でもいい、幸せな心のありさまが何百、何千と映し出されていくのだ。勇者に憧れた子供も、結婚相手が見つかった男の心も、全てフロストの瞳に閉じ込められている。








 フロストの瞳は感情の宝庫だ。フロストは何もせず、勝手に心があつまっていく。フロストは何もしない、置物が動いてしまえば意味がない。置物は動かず、置物を目指して感情がフロストに集まって、吸収されるのを待ち望んでいる。








 冷酷な瞳でありながら、温もりの感情を閉じ込めた瞳。












 第三の聖女は人の心を閉じ込める役割を持っている。誰もが抱いた希望を、明るさを閉じ込めて、世界に満ちる魔力から感情を守る。そういう役割だ。






 だから何もしなくていい。






 何もせずとも役割は完遂する。








 働きたいけれど働けない、一部の底辺とは違う。




 働く気はないが、働いている。一部の恵まれたエリート。






 それが聖女フロストの正体だ。






「動きたいなら、動けばいい。涙ぐましく汗水流して働けばいい。私は動かず、最大の利益を得る。お前たちとは違う」






 フロストは無をもって、否定する。努力というものではなく、動くという行為を否定する。努力はしたほうがいい。経験はしたほうがいい。それをフロストは理解したうえで、否定する。






「羨ましいよ、動かないと周りが見えないお前たちが」






 フロストは視線を動かさない。反応もせず、一部の空間を直視する。その視線の先も何かあるわけじゃない。壁があるだけだ。その壁を常に見続けているだけだ。されど壁を見ているが、壁を見ていない。








 フロストは俯瞰している。この白い空間にいて、視界は世界に広がっている。誰もが抱く希望のイメージ、それらは常に世界のどこかで輝いている。その輝きを利用して、フロストは意識を世界に飛ばす。フロストが意識すれば、協会の人間。王国の人間。エルフの国の人間。犯罪者の生活。色々なものを即座に意識を飛ばして、第三者の視点で世界を見つめることができるのだ。むろん、干渉はできない。希望がなければ何も見ることができない。明るいイメージが一切ない場所には意識を飛ばすどころか、近寄ることすらできない。






 だが、希望を抱かない人間はいない。誰かが不幸になった分、誰かが幸福になる。極論を言えば、誰かの物が盗まれただけで、被害者は不幸になる。だが盗んだ奴は幸福になる。そういった交互の役割を人々は分け与えているのだ。






 世界を見る、動かずに。それができるからこそフロストは動かない。






 だから淡々とこぼすのだ。






 頬杖を突く手とは別の空いた手。空いた手を顔の近くに上げる。軽く握りこぶしをつくり、空気を手中に収めた。何も握らない拳。






「世界の意志は私の手にある」






 だが何も持たない、握りこぶしは世界の意志を掴んでいた。








「だが最近、精度が悪い」




 フロストの世界を覗く意識。その意識が、ある一国限定で見づらくなっているのだ。まるで不幸に災厄に塗れたかのような絶望があるのだ。暗いイメージが一国全体を軽く包んでいるのだ。今までそんなことはありえなかった。






 不幸が強い分、不幸を与えた存在が希望を持つはずなのだ。搾取された人間と搾取する人間。その加害者が希望を持たないはずがない。そこから意識を飛ばして覗こうと考えることすらできない。誰もが一定の不安を抱えてしまっている。フロストが介入できないほどの闇の濃度を残しているのだ。






「王国、一体どうなっている」




 王国は大国だ。魔王軍というものを退け、周辺諸国にも油断を見せず警戒を怠らない。敵国を過剰に虐める癖があるせいで、敵対者も少ない。恨みを買っているが、基本理不尽な攻撃は避けている。非常にしたたかで、協会からしてもやりづらい大国だ。協会の勇者という存在は派遣できても、聖女が派遣できないのは王国が認めないからだ。






 勇者はあくまで、力を示すだけのもの。希望を集める形であるが聖女ほどの効果はない。勇者に求められたのは民衆の意志を一つに集める。力は妄信的で、強烈な信仰を集めるのにふさわしいものだ。その役割であり、そこから先を聖女が担当し、信者へと昇華させる。






 それを王国は理解し、勇者を認めた。勇者の力を宣伝し、民衆や貴族たちや協会の強さを吹聴した。この力をもった奴らが勇者だ。強いからこそ恐ろしいというイメージを先行させたのだ。無条件で入国というものも、勇者が力で無理やり認めさせたというイメージをつきつけるためのものだったりもする。






 王国で勇者は支持されない。






 認められているが、支持されない。






 あくまで脅威として意識を纏めるために利用された。王国は非常にしたたかなのだ。油断も隙もあったものじゃない。長年人々の心に漬け込むだけしかできない、協会では考え付かないものだったのだ。希望を与えとけば勝手に信者になるというものは王国に通じない。








 周辺国を圧倒しながら希望が薄い。










 フロストはそこで初めて表情を変化させた。無から悪態をつく、憮然としたものだ。強い怒りなどはないが、子供の用に我儘らしさを出したものだ。出来ていたことが出来にくくなっているから、原因を探ろうとしているだけだ。原因がわからないから探らなければならない。






 王国の王城には意識を飛ばせた。されど玉座の間には入れない。王を直接みることはできない。王国は重要な箇所に結界をはりめぐらせている。魔の力対策だけの結界ならば、感情で意識を飛ばす聖女の障害にならない。だが魔の力対策、人の心をはじく呪いを張り巡らせた場合は別だ。






 王城の重要な箇所、玉座の間。




 そこに踏み込もうとした瞬間、フロストの意識は王国の城下町に飛ばされていた。強烈な弾かれ具合、城から外へとたたき出され、城下町の石畳にたたきつけられた。意識は壁をすり抜ける。床をすり抜ける。だが無限にすり抜けるわけじゃない。人が歩く地面だけは、生物が足をつく地面だけはすり抜けられない。そこに人は住んでいない。




 人の希望を転移しているフロストは、人が居なければ何もできないのだ。




 そんなことよりフロストは意味もなく立ち上がる。たたきつけられた痛みも衝撃もない。ただ弾かれたぐらいの意識でしかない。




 だからフロストは次の点に思考を傾けれたのだ。










 かつての王国に心をはじく呪いなどはない。




 一か月前もなかった。






 つい最近呪いが付与された。






 原因がわからない。






 城下町を覗く。意識を飛ばせるが砂嵐のようなものが視界を大きく妨げる。人々の会話を聞こえる。だが闇に塗れたせいか、会話の内容全てが聞き取れることはない。フロストの視界に映るのは城下町の中心から北に離れた商店町だ。中央に巨大な木の掲示板。そして少し離れたところには出店が周囲を囲む、開けた中央だ。




 フロストの姿を見ても誰も反応しない。相手からは認識できず、フロストからのみ情報を盗み取る。




 人々の心に笑顔がある。まるで張り付けたかのような笑顔だ。希望で全てをなかったことにしようとした笑顔だ。その笑顔の仮面の裏、闇が潜んでいる。フロストの意識は周囲を見渡していた。






 誰もが笑顔だ。張り付けた笑顔だ。






 不幸を見せるものが誰一人としていない。期待だけをもって、誤魔化すばかりのものだった。






 しいて言うならば中央にある、掲示板。その掲示板を誰もが見ないようにしていることだけだ。中央に視界をみせず、商店だけを必死に見つめようとする。






 フロストは中央の掲示板をみた。






 張り紙が無い。




 実際はあったのだろう、張り紙の切れ端が掲示板に残っている。だが破られている。この王国でも協会でも紙は貴重なはずだ。破いてしまえるほど安価なものではない。






 よく観察すれば、くしゃくしゃに丸められたものが転がっている。フロストは意識しかないため、それを広げることはできない。だが嫌でもわかる、掲示板に張られていた紙だということが。




 異常だ。






 誰もが笑顔を見せた。






 だがある瞬間にそれは崩れた。一人の男が慌てて掲示板の方に近寄ってくる。走りながら、頭上に掲げた一枚の紙をもって掲示板に走っているのだ。フロストの意識を通り過ぎ、掲示板に紙をつきつける。全ての端を木のピンでとめていた。




 止め終わった男が、前かがみになって息を整える。




 そして口に出した。






「怪物が」






 その一言だけがフロストの耳に残った。そして怪物という一言を聞いた瞬間、どこからともなく闇がフロストの意識体を覆い隠した。不安になるぐらいの痛み、苦しみ、絶望という感情。希望という意識に包まれたフロストの心を浸食することはない。だがその希望の守りがなければ、飲み込まれたぐらいの深い闇がフロストを包み込んでいた。






 会話は全部聞こえない。






 たった一言、その瞬間にはじき出されたのだ。掲示板に張られた紙を見ることなどできなかった。一瞬でたたき出されたのだ。






 気付けば白の空間にいた。




 いつもの白い空間に戻らされていた。






「怪物」




 人々の会話は何となく聞こえた。いつもの日常風景であったのだろう。だがたった一言、怪物という声が聞こえた瞬間、城下町は何かを打ち砕いた。あのフロストを包んだものは、怪物という単語で生み出された闇だ。フロストは意識を飛ばす現地に希望がなければ維持できない。








 城下町一つを取り込む、怪物という闇。希望を一瞬に殺し、闇に変換させたほどの脅威。


















「なにものだ、怪物というのは」






 怪物というのだから、巨大な魔物かもしれない。もしくは王国を襲った魔王軍の再来か。非常事態なのかもしれない。だからこそ警戒しているのかもしれない。不安が一つの国を包むのも無理はないかもしれない。








 王国の別の町に意識を飛ばす。




 都市だ。その名はグラスフィール。王国最大の商業都市だ。人々の活気に満ち溢れ、誰もが絶対に希望を持つ都市であり、どこよりも情報が集まる場所だ。




 そして、闇が深い場所でもある。






 だが意識は飛ばせない。






 入り込めない。グラスフィール一つの都市を包む闇が、フロストの意識を最初から拒絶していたのだ。






 意識を王国の場所、一つ一つに飛ばす。どこにも入り込めない。意識を飛ばすたびに、現地の希望が無いために維持できず、城の空間に意識を戻される。繰り返しだった。






 やがてフロストは意識を王国の頭上に飛ばすことにした。






 フロストは人々の意識が思い描く、上空まで飛ばせるのだ。地上から130メートルの上空。闇が薄く、地上よりも上空に現実逃避という希望を持つもののおかげで意識を飛ばせた。人はいないが、王国でも空に憧れるものがいるということだ。地上に潜り込めないのは誰も手が届く者に希望を見出さないからだ。






 王国全体を覗くことはできない。だが、一つ一つの町や都市の上空を覗く。上から見下ろすように、上空から町や都市を覗いては転移する。今、フロストが覗いているのは闇の濃度だ。町や都市を覆い隠す闇のため、意識を入り込ませられない。だから濃度を調べて、一番闇が濃い箇所を調べているのだ。








 そして一つだけ異常な闇を抱える都市を見つけた。








 ベルク。








 その闇は上空すらも意識がかき乱される闇。ながくはいられない。維持できずにいる。希望というフロストの存在が闇にとって煩わしいのか。地上から闇が手を伸ばすようにフロストに狙いを定めているのだ。意志ある悪意。






 感情はこの世界に生きられない。






 だがまるで感情がベルクに張り付いて生きているかのようだった。




 その闇に触れられなくても、希望が薄すぎるためにフロストが意識をけす瞬間。闇の中心地があったことを覗きとれたということだけが朗報だった。






 闇は無条件に発生しているわけじゃない。フロストがいたことで闇が排除という自己防衛をかましてきたのだ。闇は一つの建物を中心にベルクを包んでいる。感情が魔に飲まれて消えるよりも多く、闇の感情が生まれていく。生まれては闇の中心に操られていく。吸い寄せられる台風の目のような闇。




 そのとき、闇に飲みこまれた。




 闇の中に飲まれたとき、少しフロストの意識が別のほうへと変えられそうになった。フロストの意識は変わらないが、そういった干渉をされた。自覚するより先にフロストの姿は消えてしまった










 そして白の空間にはじき出された。








 汗だらけだった。無情にも頬を赤く染め、冷酷な視線は息絶えた死体のように冷めていた。フロストは目元を手で覆った。両目の下を守るような覆い方。希望を集めるのが、希望がないフロストの瞳。








「希望というものが私の役割なら」








 王国に潜む存在。ベルクという町に潜む存在。








 それは希望や夢といった明るい感情の対極。






 絶望や破滅といった負の感情の集合体。






「私だけじゃないのか、選ばれた存在は」




 失望と落胆。この世界に自分だけが世界を俯瞰できる。感情を支配し、操れる。魔力や体力などといった不可的要素抜きで、世界に躍り出る。




 この特別は、特別じゃない。そこに落胆した。






 他にもいる。感情を操る者がいる。ライバルなどいない、上から目線の行為は恥をさらしていただけだと自覚した。だが直さず、落胆しただけだった。






フロストは表情を変化させない。無の表情と冷酷な視線をもって、心の中で失望と落胆を感じ取った。だが同時に自分だけじゃないというものが意外な希望となってあふれ出す。






 フロストは希望を軸に意識を飛ばす。だが意識を操れるわけじゃない。町一つ、都市一つの感情を操る能力をフロストは持ち合わせない。






 だがフロストは確信している。






 フロストは世界を見渡せる。怪物という名の相手は、感情を操る。




 フロストはもう一つ能力がある。そして相手もきっとあるに違いない。だが二つ以上はあり得ない。それが人間に与えられたキャパシティである。怪物というものが人間かどうかはわからない。だがあの巨大な量の感情は人間でなければ耐えられない。感情生物たる人間だけしか無理だ。






 魔物は感情を受け止めるほど、容量はよくない。貯めこむ前に放出してしまう。放出するか、耐えきれず暴走して命を落とすか。これ以外に道はない。






 もし貯めこめるというのであれば、異常な魔物だろう。精神が腐りきった、哀れな魔物。肉体構造が同じでも成長過程における精神発達がどこか逸れてしまったものだけだ。




 人間は体が弱いから感情を受け止める柔軟性をもつ。魔物は体が強いから感情を受け止めきれず、破裂する。硬いからといって丈夫なわけじゃない。柔らかさを含めなければ、物は持たない。






 フロストは町一つの感情を操る怪物に対し確信している。




 人間だ。






 自身と同じ能力は持たないが、同じ数ぐらいの能力しかないということを確信している。






 だが同時に闇の発生源から別のものが飛ばされたのも自覚している。






 呪い。思考を何か変な方へと誘導する呪い。微弱な呪いであるが、闇の中に混じって飛ばされたものだ。大きな闇の塊、それが怪物のものだとする。ただ呪いだけは怪物のものかどうかはわからない。






 もし怪物の能力。






 感情を、特に負の感情を操る。






 そこに呪いを混ぜ込めるとする。感情の大量動員に、呪いという精密作業。闇の感情で町一つ覆って、感情の中に呪いをばらまく。




 空気中にばらまいた毒の煙みたいなものだといえる。






 それは環境を支配したことに他ならない。ベルクという町は怪物にとって、最高の拠点になっている。敵対者も、ベルクにいるだけで精神を怪物に捧げているのだ。






 なにせ環境が敵だ。空気が敵だ。周囲に漂う、生産される人々の闇が敵だ。そこに含まされた呪いが戒めだ。恐怖だけじゃない、敵対するであろう者への対策がなされている。




 だからベルクで敵対する意志を見せてはならない。己の心にある感情は、寄生している魔力が隠しきってくれるだろう。だが、外に一度でも意志を見せれば、環境が潰しにかかってくるのだ。






 感情を支配し、人々の心を貶める。貶め続けて、闇を作らせ、怪物が取り込んでいく。永久機関とまではいかなくても、理想の支配構造が出来ている。






 さすがのフロストも考えざるを得ない。自己分析における状況とベルクに入り込んだ際の影響。






 思考誘導のものとはいえ、呪いは呪い。








 フロストには通じない。答えは一瞬で出る。フロストは希望の感情に守られた存在だ。真逆の悪意の感情に晒されようと防ぎぎって見せる。感情の消耗戦がなったとしても、戦いにすらならない。




 町一つを包む闇であろうと、フロストは世界の希望を搾取しつづける。王国一つと世界一つ。比べるものではない。勝負にすらならずに、勝者への立ち位置に付くだろう。








 されど協会領の人間に通じないと限らない。光の魔法も治癒魔法も感情をもって動作するのだ。フロスト以外の聖女ですら感情の渦に入り込んだだけで影響が出るだろう。高い魔力を持つ協会の人間たちでは入り込むことすらできない。感情酔いといった、酒を飲み過ぎた状況に強制的に追い込まれるのだ。






 魔は、魔力は、感情を食う。餌がないからこそ人間に寄生し、感情を搾取する。その見返りに奇跡の力、魔法として還元するのだ。だが誰だって還元などしたくはない。ただでもらえるなら、ただで感情が欲しい。




 共存なのだ。人間が餌を、魔力は贄を。餌を食らう代わりに己を消耗させているのが魔力の正体だ。






 だが町一つを覆う感情を見せても、魔は姿を見せていない。人間の体内に秘められた魔はベルクでも活動しているのだろう。だがそれ以上に空気に魔力が混じっていない。






 フロストが姿を消す瞬間に見せた、闇は本物の闇だった。太陽が姿を消して見せる、夜の世界。光がなくなった暗黒の世界が確かにあったのだ。






 怪物は感情を操れる。




 呪いをばらまく。




 あくまでフロストの感覚的な予測でしかない。だが外れたことはない。残念ながら怪物が操ったという感情は怪物本人の能力じゃない。だがそれをフロストは理解していない。


















 明るいものや希望を善意と称すなら。




 不幸や嫉妬を悪意と称するしかない。




 人の感情を集める、希望の象徴。第三の聖女フロスト。




 人の感情を集める。闇の象徴、怪物。












 光と闇。明るい感情を集める現地人たる聖女。負の感情を集める異世界人たる怪物。二人は仲良くなることができるわけもない。恵まれたエリートたる聖女と恵まれなかった底辺たる怪物。






 希望を持たないエリート。






 希望を持とうとする底辺








 お互いに仲良くなれるわけがない。














 そしてベルクでの闇の中心地。その中心たる建物の一室は特に闇が深い。その一室は怪物の間と呼ばれる、ベルクの裏ボス的立場の部屋だ。






 怪物とその悍ましい手下、人間ではない存在たち。魔物と呼ばれる人外たちは寝苦しそうに息も絶え絶えだった。苦しい、不吉な何かが寝る魔物たち全員の睡眠を阻害する。されど目覚められない。




 そういったサイクルをこみで、睡眠に生じている。






 小さく歌が聞こえる。小さく可憐な鳴き声だ。聴いているだけで考えを別の方へともっていきそうになる。可憐な鳴き声による精神誘導だ。鳴き声に混ぜられた精神誘導による呪い。この部屋、この町一つを覆う闇を導線として、ベルクで寝ている全体の睡眠を強制的に継続させている。




「くきゅきゅ」








 鳴き声が響く。起きられない世界に悪夢を見せるために。






 この部屋、この町一つ、寝ているものは皆悪夢を見せられている。悪夢を見せられ、起きるという行為すら許されない。悪夢を見続けて、終わるのを待つしかない。






 ただし例外がいる。




 怪物たる彼は安眠を貪っている。何の苦痛もなく、悪夢もない。思考誘導における強制的な睡眠すら高価が無い。ただ安眠を邪魔するかどうかはわからないが、彼の顔を、特に左瞼のほうを触る存在がいる。




 その存在は彼のベット脇に立っている。背は低く、遠くから見れば、子供のように見える。その子供が鳴き声の元凶でもある。






 どんな状況においても他人を受け入れない人間には通じない。歪で徹底的な他人拒絶。鉄壁の孤独を持つ、鋼の心の底辺に通じるわけがない。感情的に泣くこともあるだろうが、それでも隙を見せない。そんな存在には精神的呪いなど通じるわけもない。








 仮に怪物に呪いが通じたとしても、瞳に封じ込められた悪意が防衛に入るために結局効果はない。








 歌を口ずさむ存在はそれを理解している。






「くきゅ♪」






 鳴き声は可愛くても、やっていることが下劣。蛙のように口端を大きくつりあげた、人型の上半身と蜘蛛の下半身を持つ魔物、雲は理解して、悪夢を突きつけている。




 鳴き声による呪い。町一つの感情を導線とした、呪いの伝達。この町一つの感情を更に強大化させているのが悪夢だ。悪夢が人々に負の感情を作らせ、それを町一つで浮かばせる。浮かばせた悪意を怪物という箱に突き詰める。






  その悪意を怪物の元に誘導しているのも雲だ。






 怪物は対象ではない。巻き込んでいるが、効果が無いからこそ、対象外にする手間を省いているだけだった。






 この魔物、雲がやっている行為。


 呪いの対象として、肉体の一部を相手につけなければならない。その制約を無視する方法がある。唯一といってもいいだろう。この町一つ覆う闇は雲の手によって作り上げられたものだ。だがそのつくった手段は雲のものではない。






 怪物という恐れ、不安。その負の感情はもともと町を覆っている。その感情を導線として、呪いを町一つ全体にばらまいたのだ。だが、それもこれも怪物という存在から生まれた感情だ。その道理を無視できるほど雲は強者ではない。






 だから雲は怪物たる彼の顔に手を触れている。怪物たる彼の心は操れない。誘導できない。でも、彼の左瞼に貯めこまれた悪意たちは違う。彼よりも心が弱く、存在も希薄。されど箱庭に忠誠を誓った、本当の寄生虫。宿主に何の利益ももたらさない、ただの寄生関係。






 箱庭たる彼を守らなければ死ぬ。だが守る手段がない悪意たち。






 守る手段はあるが、能力不足な雲。






 お互いが手を取って、協力関係になったのだ。無駄にあふれた感情を操り、それを導線とした呪いの散布。悪意たちが手を組もうと語り掛けたわけじゃない。雲が悪意たちの本心を読み取り、彼の寝ている間に悪意たちに取引を持ち掛けただけだ。






 お前たちの力をりようさせろ、その代り箱庭の身を守ってやる








 雲と箱庭たる彼の確執。敵対関係ではないが信用がある関係ではない。その関係性に悪意たちは疑いを持ちながらも、取引に応じたのだ。もしリザードマンやオーク、牛さんなどであれば喜んで手を貸したことだろう。その三匹は箱庭と関係性が深く、命をかけてでも守るというのが見て取れるからだ。








 雲は違う。疑いしかない。悪意たちも疑いながらも、箱庭のために協力する。その中で密約を突きつけている。雲に対する、負の制裁をだ。




 この町にいれば、息をするだけで悪意が入り込む。




 雲も例外ではない。






 約束をたがえた場合、雲の体に取り込まれた悪意を暴走させるという制裁だ。この制裁における被害はわからない。だが、それをためらわずに雲は了承した。






 約束を雲はした。






 だから悪意たちは力を貸している。










「・・・あばれないで・・・おさえられないぞ・・・しかし・・・このたいみんぐで・・・せいじょがくるとはな・・・すこしばかり・・・めんどうだ」




 中年男性のような渋みのある声。それは寝ている彼の左瞼を触る雲が漏らしたものだ。焦りなどはない。ただ少しばかり、聖女に見つかるのが早かったということを自覚するための発言だ。言葉は口に出して、頭に入りやすくなる。頭だけで理解するより、口に出して反復したほうが効率がいい。




 だから学生などは音読をさせられる。






 雲はそれを自分で会得した。教えられるか、勝手に覚えるか。学生は前者で後者が雲の話だ。










 聖女など人間にとって有名でも、魔物にとって有名ではない。だが雲は知っている。雲は聖女と違い、世界を俯瞰できない。寝ているという条件付きだが、彼に触れている限り、町の事は手に取るように雲に伝わる。悪意たちが生まれ、彼へと集約させられる。生まれた地点の状況情報を悪意たちが持ってくるのだ。悪意であっても、心を読む雲には情報源の一つでしかない。




 直接雲の目に聖女が映らなくても、悪意の闇にとっては丸見えだ。それを彼の元へと集約させた悪意たちから読み取ればいい。






 聖女の邪魔をしたのも、悪意で妨害したのも、呪いを飛ばしたのも、全てすべて、雲がやったことだった










 これは彼と雲が歌う、一時間前の話だった。大商人と出会う前、彼が目を覚ます前に起こされた事件でもあった。




 雲にとって鳴き声など、呪いのための産物でしかない。ほかの魔物たちに悪夢を見せることなど躊躇わない。彼に見せることすら時と場合によっては、ありである。






 雲は彼に無事にいてほしいとは思っている。雲自身の欲望のためにという前提で、無事にいてほしい。だが全て、幸せになれるかというと話は別。平穏が平和がなどといった中での無事はいらない。




 安穏は性格を堕落させる。底辺たる彼は安穏の環境ですら、油断も隙も見せないが。






 恐ろしい経験をさせてでも、生きさせる。彼が経験しないなら、他の魔物たちが味わうだけだ。彼が味わうなら、他の魔物たちも味わうべきだ。




 雲も含め、全員が震え上がればいい。






 己すらも勘定に入れた、人でなしの作法。






 それが怪物という噂を、真実へと昇華させる一番の近道だと雲は信じている。


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