彼と雲 10
冒険者ギルドに冒険者はいない。彼が宿に戻るまでの時間までは戻ってくることはない。また戻ってくるまでに警戒という業務を含めれば、更に時間がかかることだろう。
ニクスフィーリドへとの戦端を切り開いたのは彼ではない。冒険者たちだ。実力行使としてニクスフィーリド排除へとの動き。鮮やかすぎる。まるで全てが最初から仕組まれたかのようだ。
ぎぎぎと冒険者ギルドの扉が音を立てた。入ってきたのは誰でもない、雲だ。一部を除いて誰もいないことは気配で先んじて調べていた。だからこそ、雲にとって障害はない。
「・・・アラクネ・・・怪物・・・サツキ様の」
雲が入ったとたんに声をかけてきた人物。カウンター側の奥側に立つ女性。この冒険者ギルドの中で最も権力を持ち、見た目の若さを誇る受付嬢、もとい支部長。果実を更に甘くしたかのような美貌。経験からくる熟した落着き具合。大人の女性というのは支部長のことだと誰もがいうことだ。
眉間に皺をよせ、支部長は警戒をしているのが見て取れる。雲はそれを知っているし、その理由を知っている。表に出す支部長と裏に隠す雲。年齢も経験も支部長の方が格上だ。格下ばかりを相手にしてきた雲にとって初めての戦いになることだろう。
魔力も上。人間の最大の力、魔力を支部長はふんだんに蓄えている。その量は冒険者数人分の魔力ぐらいはあるかもしれない。
個人が集団と同等の力。
「・・・くきゅきゅ♪」
それすらも怖がることはない。雲にとって、蜘蛛という虫の歴史にとって、全ては格上だ。正々堂々と戦うものこそ蜘蛛には少ない。
雲は吊り上がりそうな表情を笑顔に埋め尽くす。子供らしく、てくてくとスキップするかのように受付の方へ。一歩近づくたびに、支部長が半歩さがる。二歩近づく、眉間の皺が濃くなる。
三歩目。
「それ以上近づけば」
支部長の片手が雲へと向けられている。その開かれた手の平には渦がまいている。風を圧縮したかのような小型の渦。呪文詠唱もなしに発動される予備動作。支部長の意志一つで放たれるであろう、それは当たれば雲の肉体を容赦なく引き裂くに違いない。
「・・・くきゅ♪」
だが止まることなどない。
雲は両手をあげた。無抵抗を示すように両手を上げて足を進めた。
「警告は無視。なら」
その魔法は警告通りに。
雲へと解き放たれた。
支部長の魔法センスは上級だ。個人で集団と同等の魔力。それは並大抵の努力で得られるものではなく、才能を含めても常人とは違う。そこまで成長するにあたり、どこまで冷酷になれたのかが肝になる。
生存競争において、切り捨てた数がおおければ多いほど業が深くなる。魔力は欲望に宿る。強くなりたい、成り上がりたい。誰よりも欲望をもっていなければ常人以上にはなりえない。魔力に感情を奪われる以上に欲を生み出し続けなくてはいけないのだ。
魔力を持つ者が常人であってたまるものか。
誰もがしらない事実。ニクスフィーリドの長はしっていて、受付嬢は知らない事実。世界に君臨する種族の一員に人間がなっている。だが人間が神に選ばれたのではない。人間が欲を持ちすぎて、勝手に成り上がっただけのこと。
支部長は誰よりも何かを切り捨てた。
切り捨てて、欲望を持ち続けた。
だから、雲が。
怪物の先兵が近づいた瞬間に解き放っていた。油断など何もない。権力として、魔法使いとしてどこまでも残酷になれたのだ。
小型の風の渦は支部長の片手を離れる。狙いは一瞬。解き放つのも一瞬。当たることを確信し、雲がくたばる瞬間を脳裏に刻んだのだ。
だがそれは手のひらを少し超えただけのこと。しいて言うなれば小型の渦は手のひらを少し超えて霧散した。ただ無情にも消えたわけじゃない。何かにあたって消えたという感覚だ。
「・・・え」
驚愕し目を見開いた支部長。だが、それは魔法が霧散したことによるものではない。手のひらが赤く濡れていたことだ。ぴちゃぴちゃと滴が指を垂れている。
痛みはない。臭いと感触から伝わるもの、血だ。
手のひらもそのまま無事だ。小型の渦が消えた以外にダメージはない。
「くきゅきゅ」
それは小馬鹿にそた鳴き声だ。雲の語尾が少しあがるような声と同時に、嘲笑がはりついている表情。ただその姿にも違和感がある。支部長の手が赤く染まったように、雲の口元も赤く汚れているのだ。
むろん、雲にも傷はない。
両手をあげて無抵抗を示す雲に外傷はない。
片手をあげて魔法を飛ばした支部長にも傷はない。
だからわからない。
「次は」
「・・くきゅきゅ・・・」
支部長が驚愕から立ち直っている。戸惑いもあったろうが、すぐに切り捨てた。事態のわからないものより、今見える現実を直視する。
支部長は汚れた手をもって次の魔法を発動した。同じ魔法であるが小型の渦。手のひらにたまり、発動する瞬間にまたしても掻き消えた。
魔法が発動したのは確認した。
だが霧散した。
違和感があるとすれば、またしても赤い液体が増えていることだろう。先ほどよりも濃くなった赤の量。
「・・・何をした」
キッと殺意をほとぼらす眼光の圧力。甘い果実のような美貌からは予測できないものだ。魔力すらも渦となり支部長の背後に展開されている。魔力を可視化させることなど難しいが、支部長はそれをうっすらとだが表に出している。
「くきゅ」
首を傾げ、おちょくるかのごとく嘲笑は止めない雲。ただ雲の口元も赤さが増している。
この時点でお互い傷はない。
「・・・ならこうしましょうか」
片手から両手へ。
向けられた射出口は二つ。両手の開いた箇所にはそれぞれ一つずつ小型の渦が立ちめいている。一瞬で展開された破壊のエネルギーは躊躇うことなく準備されていた。
「・・・怪物、予想以上ね」
それは予測もされない展開。
冒険者ギルドは無関係。そのために誰にも知らせず、自分たちが被害にあったという誇張のみの主張。証拠もなく、実際にやろうとしたことを大きく宣伝しただけのこと。真実を大きく膨らましただけであるが、だからこそ暴けない。
「・・いいえ、怪物ではなくて。・・・アラクネの単体暴走かもしれないわ」
怪物を怪物と知っている。だが今回の事は誰にも情報が漏れていない。怪物の意志か、もしくは暴走か。どちらもありえてしまう。怪物というやることが壮大な災厄。アラクネという最悪の魔物。
だからこそ警戒が止まらない。
同時射出する準備を終え、思考を切り捨てようとした。
「・・・くきゅきゅ」
アラクネたる、雲が大きく舌を出した。
その舌が顎へと接触。その舌が動く際にまう赤の液体。悩むまでもない血液だ。だが雲のものではない。されど理解しがたいものであるが、理解せざるものをえない。
舌の先端にそれはあった。
何かの肉片のようなもの。
支部長の思考は切り捨てられなかった。その肉片が何かを考えてしまった。魔物か動物か何かの肉であることは間違いない。
その肉は目にもとまらぬ速さで舌の先端から消えた。
同時に片手の魔法が消えた。赤く新たに濡れる感触と共に。
「!!」
雲の舌はまた口の内部へと戻る。
「・・・どういう・・」
驚きも何物でもない。思考を切り捨てられない。支部長は切り捨てて成り上がった異常者だ。立て続けに異常事態が起これば、状況を把握することも難しい。気付けば、残った魔法が消滅していた。いつのまにか雲が舌を表に出していた。
「・・・くきゅきゅ」
「アラクネが」
冒険者ギルドという建物は多少は頑強だ。冒険者が軽く暴れた程度には壊れないぐらいには強度をもっている。だが絶対的な強固さがあるわけじゃない。
支部長の魔力を解き放てば簡単に崩落する。だから一番弱く、一番早い魔法を使っている。ここが建物の外であれば気にしないで、強力な魔法を打てた。
現状、打てるのは小型の渦魔法程度。
切り捨てて成り上がった支部長。
ギルドという看板と異常事態の連続という行為。
二つを切り捨てられずに。
「消えろ」
支部長はそれでも両手に魔法を込めた。
原因がわからない。魔法が消えた理由。
だが、それでもやるのだ。不思議なことは連続して続けても、永遠に続けられるわけがない。
「・・・くきゅ」
支部長の殺意は雲の鳴き声と同時に消し飛んだ。両手に込めた魔力は意志を失い、発動すらできていない。
理由はそのはず。
支部長は今、視界が見えていない。
一瞬にして赤へと染まり上げた視界。視界とは人間の世界を直接表す大切なものだ。認識力、生きた心地含めて視界が全てを有するのだ。
痛みがある。
両目に直接異物が入り込んだかのような痛み。小さいものではなく、大きな異物。目の瞼に入る程度であっても、人間の眼は敏感だ。砂一つ、小石一つで大きくわめきたててしまう。慣れた冒険者たちならば砂程度で悩むことはない。
だが戦闘職でもない、魔法職の支部長は痛みになれていない。
ここでいえることは、支部長の両目は無事だ。
ただ少しだけ赤い涙を流していることが原因だろう。
この時点でお互い誰も傷をおっていない。
雲も支部長も。
「・・・なにを、なにを」
支部長は痛みのためか、カウンターに上体を預けていた。両手を向けることすら忘れ、ただ両手で眼下を触ってしまっていた。
「・・・くきゅきゅ」
その隙を逃す雲ではない。
両手を下げて、悠々自適に距離をつめた。カウンターに上体を預け、無防備になった支部長。むろん強い相手だ。外で戦えば絶対に勝てない。
絶対的格上とは支部長のことをいう。彼も雲もまともに戦えば勝てるわけがない。勝てるとすれば一つ。トゥグストラ、牛さんを連れてくることだろう。魔法使い対策ともいえる最強の戦車をもって完封させれる相手。強力な魔力抵抗を誇る牛さんならば楽々と殺せる。だから冒険者ギルドは彼を恐れた。
トゥグストラとはベルクの最大の敵。魔法使いたる支部長の天敵。
それを片手間に操る異常人間、だから彼は怪物と呼ばれるのだ。
トゥグストラ以外ならば負けはしない。その中にあった自尊心すら切り捨てたのが支部長だ。支部長は有能な魔法使いである。トゥグストラ以外ではなく、オークやリザードマンにも負けるであろうと自惚れを捨てたのだ。
冒険者ギルドの支部長。弱者を切り捨て、強者の個人へと進んだもの。強者の個人に加え、支部長という権力もできてしまったが。
紛れもなく殺すべき相手だろう。
支部長は瞼をさすって、痛みの正体をさぐっている。だがわかるわけもない。
「・・・」
雲は思案顔になり。
そして口端がカエルのように歪められた。嫌なことを思いついたかのように子供のような無邪気さが動作に現れている。
支部長に気付かれぬように音をけしカウンターを乗り越えた。その際に糸をを天井に張り付けて極力カウンターに体重を乗せないようにした。
乗り越えた後、支部長の裏側へと回り込んだ。支部長の耳元まで雲は顔を近づけ。
「・・・わたしはここだ・・・わたしはここだ・・・・きこえないか・・・・」
中年の声で語り掛けていた。
「・・・ニクスフィーリド・・・い、生きていたのか!怪物・・・怪物め!アラクネめ!殺さずに生かしておいた・・・」
支部長が雲の声を聴き、感情を沸騰させた。その脳裏でほくそ笑む怪物の姿を思い浮かべた支部長だ。痛みに耐えつつ、別の方へと思考を向けれる余裕ができてきたようだった。
「・・・どうした・・・わからないのか?・・・おまえが・・・」
だが雲の恐ろしいところは会話をさせないことにあった。支部長は中年の声を聴き、生きていたと錯覚を起こした。だが視界が赤くそまり、強烈な痛みがある以上、空間を視認できない。
暴れようにも背後の気配を感じ取れるぐらいには余裕ができている。魔法を使い背後のものを消そうにも、雲がいる。支部長は耳元でささやきかけるのはニクスフィーリドだと思い込んでいる。ニクスフィーリドだけでなく、雲もいるのだ。余計なことをして、状況を悪化させるわけにはいかないのだ。
余裕ができた。
支部長は今、じわじわとなぶられている。
希望を殺す。
そのために雲は最悪を選んだ。
雲は自身の口元に手を突っ込んだ。喉へと指が到達し、糸の集合体に接触した。それは中年の声を構成する糸の群体だ。だがその群体にはもう一つのものがある。
赤くそまったもの、それは先ほど雲が舌先に出した肉片と同成分のものだ。
同時に支部長の魔法を打ち消したものだ。
小型の風の渦、それらに対して肉片をぶつけて打ち消していただけのことだ。口元から吐き飛ばした肉片が魔法とぶつかり消滅。破壊のエネルギーは肉片と向う。お互い怪我はないのに血で汚れたのはそのためだ。
支部長の両目を真っ赤に染めたのも、肉片だ。肉片を飛ばし、両目と接触させた。器用なことであるが、結果成功。視界を一時的に奪い、激痛をもたらした。
ニクスフィーリドの長。
中年は死んで二つ雲に利益をもたらした。
声を手に入れた。
もう一つ。
指先でつまみ、それを口から出した。唾液交じりの片手であるが、雲は愉快気に口端をゆがめている。滴り落ちる血液がじわじわと垂れていた。
もう一つは肉片だ。これは中年の肉だ。喉元を食らった残骸
雲は肉片を持たぬ方の手を支部長の後頭部に触れない距離に構えた。軽く息を吸った雲の次の動作は単純だ。手を押し込んだ。カウンターに上体を預け、両手は瞼をさすっている時点で支えはない。アラクネの子供とはいえ、魔物。
魔物の力をもって、殺さない程度に放たれた掌底。掌底の圧は支部長の後頭部を殴打し、両手ごとカウンターへと打ち付けた。両手が支えになっているためか、支部長の顔には傷はない。だが衝撃がよけきれず、見えない視界のため打ち身すら取れない。そのためか脳を揺らしただけで終わってしまった。だが、脳を揺らしたことにより、痛みと視界。また色々な体の機能がマヒを起こした。
動けない。文字通りに動けない。識別信号も届かないほどの衝撃をもって、支部長はカウンターから落ちるようにして床に倒れこんだ。
意識もない。気絶したのだろう。
雲は身をかがめた。
肉片を握る手を支部長の方へと向けた。具体的に言えば支部長の口元へと差し向けていた。口元へ押し込むようにして、肉片を入れ込んだ。
味はしないはずだろう。
人間のもろさも弱点も雲は知り尽くしているのだ。
あとはもう一つの種を支部長の口元にいれるだけだ。雲は背中にある蜘蛛の手足。その手足で隠していた綿菓子みたいなのを取り出した。ただお菓子ではなく、糸を綿菓子みたいにしたものだ。
その綿菓子を割る。血で濡れた片手と汚れていない手が共同作業で、綿菓子を汚していく。
だが汚した先にあったのは、更なる赤だ。割った先から赤一緒に汚れた綿菓子内部。その中に二つのものが保管されていた。
「・・・たのしみだなぁ」
支部長の喉元を軽く締め、大きく口を開かせる。痛みもなく、その二つを強制的に口元へと送った。ただ小さく細い糸が二つのものにつながれているが気にするものではない。その糸が雲の手につながっていることなど些細なものだ。肉片は口の内部にとどめ、二つの球体は胃へと直接送り込まれていった。
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