彼と雲 8

 雲は陽気だ。ニタニタと狂気交じりの笑みを浮かべ、階段を下りていく。この建物最後の二階から一階へと降り立つ階段だ。表向きでは最後である。実際は地下へと続く階段もあるのだが、雲には興味が無い。されど蔓延る血臭いと体中に染みつく肉と血しぶきが何があったかを物語らせる。




 一階には己の無事を確かめて一息つくものたちの姿があった。彼が隠れていたものを暴き出し、表へと引きずり出したニクスフィーリドの構成員たちだ。誰もが生き残ったこと、これからのことを抱え不安と安息へと二分した感情を持っていた。




 それも空気が凍るまでのこと。




 雲が降りてから、空気は瞬時に凍り付いた。






 見たものは震撼するしかないだろう。彼へと共に降りて行った者たちは無事に一階にいる。上層部にいけるものたちなど現状一部の者たち。その者たちは上層部にいるから、いるのみで他にはいないのだ。上の立場の人間は上へと立つ義務がある。






 下の人間の血ではない。怪物たちが流したものではないだろう。アラクネやオーク、リザードマン。そして怪物本人は何も傷をおっている様子はない。






 怪物と戦争中ということを鑑みれば自ずと答えは出てくるのだ。上層部の人間が怪我をした。それも死に近いほどの重症。肉片が雲の体に染みついていることから、最大にやらかしたのだろう。




 だが一番汚れている部分が厄介だ。




 上半身もそうだ、下半身もそうだ。血で汚れているといえば答えは最悪だが、それよりも肉がへばりつき、汚れがひどい部分。




 雲の顔、特に口元が非常に汚れている。特に印象的なのが口端についた食べかすのような肉片たち。それを見たものたち全員は口を開けなかった。






 誰も言葉を出せずにいた。






 だが、誰もがたどり着いた回答があった。








「・・・やあ・・・にくすふぃーりど・・・・の・・・ていへん・・・ども」






 それは上から目線の挑発であった。酷薄とした笑みと殺伐とした眼光。雲の体から滴りおちる血涙もあるが生への渇望を構成員たちに抱かせた。だから罵倒には怒りすら生み出せない。




 だが、何かおかしい。






 魔物が話すということではない。怪物の魔物だから話してもおかしくはないのだろう。なぜなら悪行の数々をしでかし、驚異の軍隊を作り上げた異質な化け物の駒なのだ。






 だがこの場合はそうではない。






 誰もが呆けた顔をした。どこか己の記憶にしまいこんだ聞き覚えのある物事。罵倒を聞き覚えていたわけではなく。




 すぐ最近にどこかで聞いたかのような音。






「・・・にくすふぃーりど・・・の・・・ちょうてんは・・・あれが・・・かいぶつが・・・けずりおとした・・・・おまえら・・・は・・・ぜんいん・・・・ちへとおちた・・・」






 たどたどしく、慣れないように言葉をつむぐ雲のを姿を見て、どこか懐かしい気にすら感じさせる。




 初めての玩具の使い方がわからず、へたくそながらに遊んだ幼い記憶。筆の取り方、言葉の勉強、数字の勉強、知らないものを知っていく過程の姿。






 アラクネたる雲が子供の姿手に、慣れない訓練をしている姿。見た目だけならば、ほほえましく感じるというのに。






 構成員の集団は思うしかないのだ。






 なぜ雲たる、こいつは我々の長たる中年の声を持っているのかと。






 だが聞けるわけもなく。






「・・・もはや・・きみたちに・・・・いいや・・・きみたちをまもるものなど・・・・ありはしない・・・」






 一方的に高らかに言う雲の姿に恐れのくしかないのだ。ニクスフィーリドに組織としての力はもはやない。一人が皆を守るから集団の力というのが強いのだ。集団から溢れたのが個人だから弱いのだ。だが集団は個人の集まりであって、個人たちの考えの集まりではない。たった数人の思考が集団の行動理念となる人間社会において、弱点などいくらでもある。






「・・・・きみたちの・・・かおは・・・どこにもなくなった」






 だからこそ不快なのだ。雲にとってではない。集団という強者が弱者に落ちていく瞬間。集団のまま形はあるのに、たかが一つ消え去ったのみで弱者へと落ちてしまう。






「・・・ぼくの・・・あれ・・・ぼくの・・・かおが・・・きみたちの・・・かおをくらいつくした」






 それは誰よりも理解しがたい事実。






 この場において、ここまでの状況証拠と言葉があってわからないものはいない。






 ニクスフィーリドの顔、中年は殺された。怪物という存在が、雲という魔物に。






「・・・きみたちの・・・はねは・・・にんげんとしては・・・・おいしかったよ・・・・」






 食わさせた。生殺与奪のみでなく。






 次に続く言葉を聞く前に、耳を閉ざした、この場の誰にも届かない。




 雲が誰にも聞こえないような細き声は誰にも届かなかったのだ。






「あじではない・・・きそをまなべた」








 その言葉を聞こえれば、まだ理解もしやすかっただろう。今後において彼の立場、雲の立場。それぞれがこの言葉一つで大きく物事は違うというのに、何故だがそれらは満たされない。




 餌としてくわさせたという一点だけが、現実の直視をさせてくれないのだ




 それがこの場の判断だ。




 殺されるよりも、おぞましい。食われていく。自分たちが食う側ではなく、食われる側。肉体をむさぼられ、殺した相手の明日を作る栄養源。不愉快でしかないし、気色の悪さを抱かせる絶望しかない。






 誰もが理解したことだ。悲鳴があるわけじゃない。押し殺した恐怖が全てを飲み込んだだけだ。喧嘩を売ったのはニクスフィーリドだ。そしてニクスフィーリドの構成員たちは、そこまで中年に思いを込めたわけじゃない。ただベルクという場所において、強者であったから従っていたのだ。






 冒険者たちより弱い個人でありながら、集団として強者の立場を維持してきた。冒険者を訓練させた一兵士と例えるならば、ニクスフィーリドは何もできない一般人たちの集団。








 一般人たちを強者でいさせた中年たる長は有能であった。殺すには惜しいほどだ。元々冒険者たちのマナーが悪く、一般人たちにも暴力や酷いときは性的暴行すらあった。それらを守るために立ち上げたのがニクスフィーリドなのだ。




 弱者を守る、弱者が力を維持する。




 その理念が中年の長にはあった。その理念を突き詰めた結果、悪から身を守るならば、悪となる。遊びのような正義感では意味はない。悪事を働くことによって、危険な奴らだと忌避間を抱かせる。








 冒険者一人と戦っても勝ち目はない。だが戦わなくても勝てる方法などいくらでもある。数の暴力という至極当たり前のことをもち、個人の冒険者が近づきたくないというほどの毒を持つ。






 有能だ。言葉と理念だけでなく、行動をおこした。形にした。彼というものの手下につけば、かなりの重役にすらなれただろう。










 だからこそ、雲は殺した。影響力と能力。知性の怪物という役割を更に強めてくれる存在かもしれない。だが、裏切れば相応の影響が出てくる。裏切るリスクは少ないと理解しているが、理解しているのみで確信はない。






 それに一番の理由は別だ。




 怪物と人間が手を取り合うなんて、イメージに合わないのだから。






 使えるとかではない。キャラクター性にあわない。




「・・・くきゅきゅ♪」




 理解せよ。理解できなくても、振りをせよ。これは知性の怪物の体現者。その駒の一つ、描き出す感情は一つ。






 雲は恐怖の体現者である。そういう役割を勝手に割り振り、なりきるのだ。この頭脳に叩き込んだイメージとキャラクター性。それらを体現し、形作る。なすりつけて、演じさせる。彼にもその配下たる魔物たちにも気づかせずに演じさせる。






 たかが子供の魔物一匹に全てのものが動かされる。






 歓喜は近い。それらを胸に秘め、歩みは止まらないのだ。










 足取りは軽く、雲はそのまま外へと向かっていた。動く者はいない。反撃する者はいない。降伏するものもいない。行動を放棄したまま、恐怖へと震えあがるのみだ。








「・・・きみたちは・・・・つまらないね」










 歓喜の笑みは突然終わり、感情を亡くしたかのような無の表情へと転じた。彼の模倣のごとく、言葉口調や自分を僕と表記するもの。表情すらも彼のものをまねていく。






 楽しかった感情がなくなったのは本当だ。それを表に出す方法が難しく、彼の表情変換をもって特訓を開始する。






「・・・まだ・・・にくすふぃーりどのちょうてんのほうが・・・おもしろかった・・・」






 雲は失望している。人間としての行動理念。中年が死のときすら見せなかったものを、ここにいる誰もが簡単に見せつけてしまっている。恐怖は必要だ。悲鳴は必要だ。






 感謝も、感激も、撃鉄も、毒も、絶望もありとあらゆる感情は必要だ。








 されど隠そうともしないのは、滑稽にすぎない。雲は玩具として人間を愛している。彼という同種族という点において、人間を尊敬すらしている。魔物が思い浮かべる感情よりも、はるかに深い豊かさを学べる心理には嫉妬すら覚える。






 感情があればあるほど魔力の源になる。絶対的強大種族の一つ人間は、個々ではこんなにも弱弱しい。






「・・・やっぱり、・・・ころしといてよかった」






 言葉は明確に。








 中年たる長をここで仕留めて置いてよかった。やはり個々が弱い人間の群れの長となると、肉体的要素は変わらずとも精神的要素が大きく常人と違う。




 ニクスフィーリドの長。






 知性の怪物たる彼。






 この二人は弱者でありながら、強固な意志を持ったものたちだ。ねじ曲がり切った彼と、人間として確かなものを求めた中年では比べていけないかもしれない。






 その特徴を捨てずに今も生きている。






「・・・こんなのと・・・いっしょの・・・しゅぞくなんて・・・あれは かわいそう」




 あれとは彼の事。




「・・・ゆうのう・・・な にんげんは・・・かずすくない・・・・けずりきるのもかんたんそう・・・でも・・・べつの・・・ことにも・・・やくたてたい・・・にくすふぃーりどのおさ・・・・あれよりも・・・いしがよわく・・・かといって・・・すぐにおれない・・・にんげん・・・・いれば・・・」






 雲のイメージに沿わない人間などいらない。強固な意志をもった人間など必要はない。されどすぐに折れる弱い意志などは無条件でいらない。




 長たる中年。あれは当たりであり、殺すべき対象だ。






 雲は認めていた。殺したことも、喉を食らったことも。






 評価しなければ、食ったりしない。アラクネたる雲は人間を食事として好まない。人間など繊維まみれでおいしくなかったといえる。肉も少なく、獣を一匹食い殺したほうが食いごたえすらあった。






 ただ殺すのは意味がないのだ。肉を体内におさめ、血液をのみ下す。征服と支配を表現したつもりだ。征服は肉を食らうこと、支配は血をのみくだす。戦利品は喉の構造。






 雲は認めた相手の声を大変気に召していた。






 少なくても、中年の無念をかなえてやりたいぐらいには、だ。






 天邪鬼である、雲。彼と似たような性格であり、口調すら真似する。人間と魔物という個体差は大きく肉体も魔力も遥かに雲の方が上だ。殺そうとする気すら起こさせないほどの弱者。だがあれは、弱者であるが強者である。






 中年たる長は人間を支配し、力を手に入れた。




 彼たる怪物は魔物を支配し、力を身に着けた。






 全て集団という力をもって、個体差を否定する。数の暴力だけであったこと、知恵を持っていた中年の長と数と質をある程度揃えた無知な怪物の能力。似たもの同士かもしれない。




 だが格は彼の方が圧倒的に下。この世界の誰よりも下。無能の中の無能。しかし現実的にはそんな彼が悪役としての立場を強大へと進化させている。






 人間社会だからこそ通じる成り上がり。力だけでは意味がないことを証明した歪な社会構造。彼と中年たる長は前者は意図せず成り上がり、後者は知恵をもって成り上がった。






 無能と有能。






 反転したかのような力でありながら、彼と似ている。だからこそかなえてやりたいのかもしれない。殺したくせに、殺したことを誇りたくなるほどの獲物。






 雲はいつの間にか外に出ていた。




 まだ空に日が上がっている。世界はまだ闇に沈んではいない。人の動きはない。殺伐とした空気は、冷ややかなものへと挿げ替えられた。






 ニクスフィーリドは怪物に破られた。これによって立場は更に悪くなっていくことだろう。人間は集団が失態を起こすと個人をたたき出す。この場合ニクスフィーリドの長をたたき出す。彼という個人も陰で叩くが、それ以上の罵倒が死人へと向かうことだ。










「・・・・・あれ・・が・・・きづくまえに・・・」






 ニクスフィーリドの長は気付いた。




 彼は気付くだろうか。気付かないだろうか。だが、油断はしない。なぜなら、あれは弱者でありながら圧倒的強者である。歯向かわせないだけの圧力を生み出す弱者を前に、雲たる強者は侮らない。










「・・・そのまえに・・・やくそくを・・・はたそう」






 死体とはいえ、約束は約束。




 雲はわがままで暴力的で拷問もする。殺しもするし、挨拶もする。笑顔を見せれば、無表情にすらなる。感情を人間的に振り分けた無邪気な子供。人間の子供が虫を甚振り殺すように、雲も人間を甚振り殺す。






 人間の子供と違い。




 約束は果たす。






 だからこそ、悍ましく汚らわしい。義理堅さを悪い方向へ発揮する、彼と同類のねじ曲がり具合だ。彼は約束を状況によって破棄する。雲はどういう状況であっても、時間がかかろうと約束は果たす。






 雲は殺した相手の約束を果たすために宿とは違う方へと足を進めていた。








 彼が示した時刻には余裕がある。雲は律儀だ。律儀に物事を最悪へと進める。

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