彼と雲 7
安い世界なのだろうと彼は思う。誰もが暴力に塗れ、理性が形だけしか感じ取れない。この世界の表向きの体面ですら力が全てであるとみせしめてしまった感覚。こういう環境で適応するには、そういった行動を示さなければならない。
環境を変えるのではなく、自分を変える。わがままをいって、あるものを否定するのではない。
だから、彼はそれに応じるかのようにニクスフィーリドの本拠へと訪れた。
一度目は会話が続かずに雲を置き忘れて。
二度目は雲を連れてくるために。
だが二度目の時に補償に関しての会話はない
「・・・あとはお好きに」
彼は今度こそ立ち去ろうとした。怯える中年と倒れてまとめられた3人の束。何があったとかではなく、何かが起きたのかもしれない。だが、彼がそれに興味を示すことなどない。
細かいことを気にするほど彼の心は広くない。関係ないことは、本当に壁を作ってなかったことにする。
話し合いは終わっている。彼が一方的に要求を告げ、相手が飲み込んだ。それでよい。それ以上のことを求めるのは争いを呼ぶ。
自分が事の戦端を開くのは負担が大きい。だから、これが限度であった。
彼の背中がこの場全員に向けられ、今度こそ踵を返した。その背が扉の前で立ち止まった瞬間だ。
「・・・雲、いくよ」
二度目の雲への促し。一度忘れて立ち去ったことを思い出したのか、少しだけ恥ずかしそうな彼であるが、それを誰かが確認することはない。
声はかけた。それ以上にやることは、扉を開けたことだけだ。外にいるリザードマンと合流、扉が閉まる瞬間。
「くきゅきゅ!」
先に行ってといった意味の鳴き声を雲が伝えた。その鳴き声の意味を理解したのか、彼は片手を軽く小さく上げた受け止めた。振り返りもせずに、口を開いた。
「・・・いつもの宿で、夕飯までには戻るように」
彼はそういって階段を降り始めた。扉の前にいる二人の構成員がちらちらと閉まりかけた扉と彼を交互におさめた。そして、彼の後ろへと続いた。
彼が消え、心を締め付けていた時間が終わりを告げた。
「・・・やっと終わったか」
中年の男が安堵交じりの呟きを漏らした。極度に疲れたのか、額にあふれた汗が床をぬらす。彼がこの部屋にいた時間は短い。10分にも満たない。その時間で色々なものを見た。靄のような悪意。それを自在に操る異常者。魔法ではない、スキルでもない。
あれは人の感情の集合体。それを悪意特化で集めて、ばらまいただけのこと。言葉で示すのであれば、簡単だ。だが、それを簡単にやられても困る。なぜなら、この世界の人間はそれができない。一切、絶対にできやしない。
この世界の住民は魔力を必ず持つ。魔力なしと呼ばれる者もいるが、それでも微かに宿っているのだ。魔法が使えない程度の魔力であっても、持っている。
魔力は感情を食らう。時間は感情を溶かす。感情は何者にも勝てず、弱者の道を歩む。生命体全てから生まれ出た感情は、その場限りのエネルギーしかなくこの場にとどまることができない。
この世界に満ちる魔力は、人の感情に応じて魔力を肉体に取り入れ。流れる時間は、悲しみも怒りも勝手に過去というものに沈めて、じわじわと溶かしていく。だから感情は生きる術を持たない。
この世界にあふれる感情など知的生命体の心の中だ。その心すらも時と魔力が勝手に吸い取って殺していく。誰もが知るわけではない、誰かが勝手にしったこと。一部の人間しか知らない真実をニクスフィーリドの長は理解していた。
ありえないことが起きている。
怪物という存在は、その弱者を取り込んでいるのだ。どういう技術かしりはしない。怪物から魔力を感じない。隠しているのかわからない。だが姿を消す力も見抜き、本人の気配の薄さは何らかのスキルを使用していると予測される。
そんな技能を持つ者が魔力が一切ないわけもない。そう中年たる長は理解している。
感情の居場所はこの世界にない。
その居場所が今あるのだ。一部の魔物の中には感情を取り入れ、自分の力と示すものがいるという。だがそんな魔物は異常個体だ。古臭い資料の中に記された異常個体など上級アンデッド、種族ゲルットリングぐらしかいないといわれている。ゲルットリングは人型をもったカエルのような個体だ。されど皮膚は腐りかけ悪臭が漂うグールのような魔物。その中で一匹新鮮な肉体をもったゲルットリングがいたという。その目は激情を秘めた怒りの炎のように赤かったという。本来のゲルットリングの瞳は水晶体がどす黒く、濁った死体のような目だ。それが常識であるのに対し、新鮮なゲルットリングは全ての真逆をいったという。
魔力をもち、感情を自身に取り込んだ魔物。それらはどこか個体の流れを逆行する異常者という証明に他ならない。そんな魔物は多くはないし、人間であったらなおの事あり得ないのだ。感情を持てば持つほど、魔力が勝手に肉体に住み込む。人間は魔力に好まれた個体である。
ゆえに肉体的弱者でありながらこの世界に君臨する種族の一つなのだ。文化を形成し、自分たちの生活を守る権利を得た強大種族の一つ。魔族、エルフといった有名どころに人間も加わった要因だった。
その思考に溺れる中、あるものが中年の前に顔を向けていた。顔と顔が接触する至近距離。軽く視線を上げれば、魔物がいる。赤い炎のような両目の魔物、アラクネ。個体名、雲。
「・・・赤い瞳」
至近距離であり、驚きもあるが。中年の男の目に宿るのは驚愕だ。口元が開き、真実が溢れるかのごとく息が放出される。鼻呼吸を忘れ、口呼吸に変換。無意識でありながら、ただ中年の視線は雲の両目と注がれていた。
アラクネの情報は深くある。知性をもった最悪の魔物であると。暴力と他種族をないがしろにする獣とすらある。されども本来の種族の眼は暗闇の中ですら光源を見出す、黄金のような目であったはずだと。
「・・・悪意を宿している」
中年の男には知識がある。目の前にいるアラクネには、感情を宿した両目があった。されどもその感情は食って食われるの関係か、時々目の端だけ、黄金が現れては赤に浸食されるのを微弱に繰り返す。
感情を支配しても、体内にいる魔力は必ず食い破ろうとしてくる。その証明である。
されども異常者が中年の男の脳に2つの数をそろえて記憶された。
知性の怪物たる悪意の集合体。
悪逆な魔物、アラクネ。
中年の男から見て、雲は結局のところ偶々感情を支配しただけの個体なのだと見えてしまう。感情と魔力の食物連鎖が起きている以上、それらは時間が立てば元に戻っていくだけのこと。
濃度はそれなりにあるのだろうが、このままいけば数年程度の感情でしかない。
魔物がもつにしては異常ではあるが。
人間という種族が持つ感情のレベルに比べれば、大したことではない。
知性の怪物が現した悪意の集合体。あれらは食物連鎖が起きているのだろうか。先ほど現れていた悪意の靄は徐々に魔力によって食われていくのが予測できる。だが体内にある悪意たちは魔力に浸食されないのだろうか。あそこまでの悪意を宿しているのであれば、魔力も相当のはずなのだ。
感情を有する量が、魔力を有する量になる。
なのに魔力を感じない。ひとかけらも感じないのだ。
もし。
もし、も。
怪物に魔力が無く、感情の食物連鎖が起きてないのだとしたら納得できる理論である。だが、そんなことはあってはならない。
あるとすれば、それはもはや人間ではない。文字通りの怪物でしかない。魔力は感情を貪る。もう一つ事実がある。
感情も抵抗するのだ。食われないために、ただ弱すぎて効果が無いだけだ。圧倒的質量をもつ世界のエネルギー、魔力と生命体が一時的に放出する感情ではレベルが違いすぎた。一方的に食べられるのみ。
怪物が。
もし怪物が感情を蓄えられるのだとしたら、これは。
「・・・・止めなくては・・・」
止めなくてはならない。感情は魔力の供給源だ。だが感情が満ちた空間において、魔力もまた餌でしかない。
「・・・ありえないことだが・・・」
中年の男にあるのは一つの考え。無謀、無理難題。その言葉で片づけられることだが、怪物が仕出かしたこととやろうとしていること。それらが一致した場合、つじつまが合ってしまうのだ。
その瞬間だった。
目の前の魔物たる、アラクネが口端を大きくゆがめ、両目を細くした。カエルのような狂笑を浮かべていた。
「・・・・くきゅきゅ」
中年の男が思い至る答えと、雲が浮かべる表情のタイミング。一致するかのようなものに、中年の男が求めた答えを手に入れた。
ニクスフィーリドの長、中年は馬鹿ではない。言葉に出してはいけないことぐらい、簡単に理解できる。現在の力量差をみても、怪物の配下たちには勝てないことすら理解している。冒険者数十人相手にぼろ負けなのだ。もはや戦争などできやしない。
だからこそ、脳内にて完結させようとした異常な真実が。
怪物の狙い。
アラクネの感情を宿した両目。そして能力。
「・・・きさ、ま。・・・まさか人の心が・・・」
このアラクネは人の心を読む。そんな魔物はありえない。魔力が人の心に宿っているのだ。魔力自体は小食だが量が多い。魔力の量が多く、心を覆っている。生まれ出た感情から、ゆっくりと貪っていく。生きたまま食われていくのが世の道理。
それらの魔力カバーを覆い越して、人の心を覗くなど。
「・・・あ、りえな」
その瞬間、中年の喉元から激痛が走った。わかりきっていたことだ、苦痛によって表情を歪めさせられた。何かが喉元を貫いている。先ほど目の前にいたアラクネは上体を中年へと倒しこむようにしていた。視界の境界が微かに捉える、苦痛の正体。
血液があふれ、それを何かが飲んでいく音。ごくりごくりと咀嚼音が中年の男の耳元に届いていた。
「・・・ぐふっ」
言葉になりはしない。簡単なことだ。アラクネは中年の男の喉元に食らいついている。人間の眼は取り外して死角を補うことなどできやしない。その目先の下に微かにアラクネが何かをしていることしか見えないのだ。だが痛みと肉をかみちぎる歯の感触を知れば自ずと理解する。
この雲は己を貪っていると。
「・・・怪物め・・・・アラクネ・・・め、・・・なんということを」
意識は遠く、かつての記憶が走馬灯のように現れる。激痛もある、だが死へといざなわれる恐怖に負けることなどしたくなかった。
食物連鎖。感情が魔力に食われるように、今中年はアラクネに食われようとしている。そこを理解し死のうとした。
声もでず、力が消え床へと背中から倒れこむ。
そうしてアラクネたる雲も上体をおこした。中年が倒れこむように、倒れこんでいた雲が、体を起こしてニヤリと笑みを浮かべた。
そして雲の指が自身の歯に詰まった肉を掴んで、放り捨てた。
「・・・く、くきゅ」
血まみれの手で喉元を抑え、まるで練習するかのように雲は口を開いた。
「く・・・くきゅきゅ・・・・きゅゆ」
意識を失いつつある中年の男は、視界が朦朧としているが生きてはいる。
何を考えることもできず、死へといざなわれる瞬間だ。
「・・・くきゅゆ・・・・う、うん・・・あ、ああ・・・これがにんげんの・・・こえか・・・けっこう・・・むずかしい」
それはあり得ない姿だ。中年がもらした言葉ではない。中年の喉は食い破られ、首という筒の中身がさらされた状態だ。この場において声を発する存在は中年と気絶した3人。
そして。
「・・・・ありがとう、にくすふぃーりど。ぼくは、いま、こえを、てにした。きみののどをくらったおかげで、こえをてにいれた・・・」
それは怪物の間をあけたかのような言葉であり、たどたどしくなれない喋り始めの幼児のごとく。
幼い魔物でありながら、しがれた声。可愛らしかった鳴き声から想像できないほどの、年老いた男の声だった。
それはどこかで何かで懐かしいようなものだ。否、慣れしたんだ声だった。
そのはずだ。それは自分の声なのだ。
だが、自分が自分の声を理解することなど難しい。録音して再生でもしない限り、自分の声など理解できやしない。中年の眼はかすれているからこそ、表情など変わらない。
喉元をくらい、その構造を奪い取ったものだ。全て理解し、そしてその器官をコピーするように雲の喉元で糸が構築されている。それらはオリジナルではないが、中年の男の喉元すべてを9割ほど複写したものである。
「・・・こ、これは・・・きみ・・・きみの・・・こえだ・・・さあ・・・しぬまえに」
アラクネたる雲は、中年の頭部にむけておおいかぶさった。アラクネの腹部と中年の顎が接触。指先で額を付くようにして表を上げさせた。
視線と視線が接触。
蠱惑なような手触りで中年の頬をなでていく。視界ももはや見えやしないのだろう。生きていること自体が不思議な姿。
「・・・なぜ・・・ねらったのか・・・おしえて・・・ほしい・・・な・・・・」
たどたどしい問いにおいても答えはない。だが中年の脳裏に浮かぶ答えが浮かぶ。
「・・・へえ・・・そういう・・・こと・・・ありがとう・・・」
それだけだ。その答えだけ脳裏に浮かべた中年に感謝の念を雲が送り。
頬をなでていた指先が離れて、その人差し指が中年の額にあてた。
「・・・さようなら・・・・にくすふぃーりど・・・きょうからきみたちは、あれの・・・しょゆうぶつだ・・・せいぜいおもちゃになって・・・しねばいい」
そして人差し指は額を貫いた。脳漿が小さな穴から、指先の隙間をぬぐって外へとあふれていく。それすらもきにせず、貫いた。貫通するころには片手が頭部へと浸食していたが気にすることもなかった。
「・・・にんげんのこえって・・・おもしろい・・・いろいろいえる」
中年の男の声で、幼き魔物は咲き乱れた花のごとく感情を明るくさせる。中年の男に対して、ただ笑みを浮かべて喜びを見せつける。
「・・・そういえば・・・おしえてあげる・・・・しんでるけど・・いちおう、こえの・・・おれいに」
雲はそういって脳漿まみれた中年の男の頭部を撫でた。
「・・・・あれのもくてきではなくて・・・・ぼくの・・・もくてき・・・・あれは・・いずれ・・・このせかいを・・・くきゅきゅ・・・くきゅきゅ」
ただうれしくてたまらない。言葉にならない思いは、笑い声として答えをゆがめていく。
嬉しさのあまりか、狂気の世界から顔を出すように。
「・・・よいこ・・よいこ・・・とってもよいこ・・・きみにもうひとつ・・・ごほうび・・・きみの・・・ねらい・・・ふくしゅう・・・あいてを・・・・いたぶって・・・ころしてあげる・・・」
それは中年の声をもって、元の持ち主にいう。頭をなでながら、雲は高笑いをつづけた。
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