彼の活動 7

 彼は路地で武力をもって入り込んでいた。限りある無を集約したように見せた表情であれど、全身からもたらす毒毒しい闇がその表情を否定する。路地の薄暗い世界と昼間の明るさ。それぞれが入り混じり生み出された矛盾の世界。空がいかに光かがやこうとも、この建物同士が生み出す闇には決して届かない。


 彼がごみを蹴り飛ばす。わざとではなく、歩いた際に足にぶつかったものだ。生活ごみが乱雑につまれ、その山から零れたであろう紙屑たち。それを彼がけっただけだ。


 だが、その動作をしただけでも、苛立ちさを演出するかのように毒々しさが濃くなっている。少しばかりの無駄も彼には苛立ちなのだろう。


「・・・どこにいる?」


 路地は広い。通りの密集地帯の表の建物が多い、多いからこそ路地も逆に広くなる。彼と2匹の魔物を横に並べても、歩くのは困難とはいえない広さ。少しばかり横に距離を離しても、問題はない。だが走るとなると途端に狭い。そういった空き具合だ。


 その路地には多数の住人がいる。脇に寝るもの、ゴミの横で寝るもの。それは文明人から見れば、汚いの一言でつきる。だが路地の住人からすれば、ごみは布団であり、生活の家だといえる。日光が差しにくい、昼間の闇世界。


 幾つもの住居があり、その生活環境に土足で入り込んでいるのは彼だった。


 土足で入ろうが、お構いなしに探している。


 睥睨するように見渡す彼には、目的のものは見つからない。見つけたとしても別のものだ。彼が睨みつけて確認するたびに、視界に入っている路地の住人たちは逃げていく。


 路地の住人は都市の裏の組織とつながっている。表と多少つながっている。情報通の住人は表も裏も関係ない。彼という存在が現れ、何かを探している。彼の噂を知り、彼と路地で何かがあったことは広まっている。


 だからこそ、とばっちりを避けて視界に入った瞬間に逃げるのだ。


 それでも逃げ遅れた奴はいた。


 彼は探しても見つからない。ならば聞くべきだとゴミの中で彼から身を隠す老人に声をかける。路地の小さな空いた世界。脇にたまったゴミたちの屋根をもって、住居をなす白髪の半裸の老人だ。どんよりとした生きるだけで精一杯といった瞳も、彼の冷めた瞳の前では意味がない。ごみの壁に、ごみの屋根。それらが防具かのように、ひっそりと隠れ潜む老人。


「・・・聞きたいことが」


 彼は拒否することは許さないといわんばかりに、近づいている。肉薄とまではいかないが、生活住居のごみの隙間をぬぐうように覗き込んで尋ねていた。


 ゴミと路地の暗闇世界に、冷酷な眼光。獣に睨まれたかのような命の危機。老人の口が開いては閉じる動作を繰り返して、ようやく口を開いた。


「・・・な、なにを」


 震えてはいないが、震えそうであるといった反応だった。彼が近づけば、気配は二つも近づく。ごみの壁で見えないが、近くには彼以外に二つの気配が立っている。ごみの壁を貫通するように、二つの気配の視線が貫いていた気すらあった。


「・・・この近くであった、少女に対する事件で少し」


 彼の言葉が最後に近づくにつれ、語尾が荒くなる。彼は正義の味方ではない。誰かのために行動するということもしない。自分だけで一杯であれど、請け負ってしまった仕事のために今動いている。


 少女の護衛を受けてしまったということだ。町までの護衛。その仕事をこなすという意味でも、彼は動いている。仕事を受けたときから、隣町につくまでの安全確保。安全を確保するには、少女に恨みを持ちそうな奴が彼の記憶に一人だけいる。それの恨みは逆恨みに近くても、恨みは恨み。邪魔をしたであろう彼にもあるかもしれない。


 だからこそ、先手を打つように二匹を連れてきたのだ。


 彼の魔物の中で、二匹の守りは万全である。オークの華はよく目がきき、判断力もある。リザードマンの静は武器を扱う技術が一番高く、正確に物事をこなす。彼の目において二匹以上の適格な魔物はいないし、魔物たちから見ても二匹の守りを突破することはできないと判断される。その判断は彼が何となく、牛さんの対応を見てて気づいたわけだが。


 牛さんを連れてこないときは、二匹がいる。一人で行動すると文句を言う牛さんであれど、二匹がいる場合においては沈黙する。牛さんが認めたのが二匹であり、彼が認めた魔物の幹部でもある。



 老人は彼の問いを答えだした。少女に対する事件。何があったのかを彼が説明するまでもなく、知っていたようだった。それを問いただせば、周りの住民全てが知る事実らしく。


 その事件を起こした体臭がひどい男。横に慎重を伸ばしたかのような豚の男。


「・・・どこにいます?」


 彼の人形のような無表情は、変わらない。だが聞き出すたびに漏れる殺意が老人の言葉を途中途中に遮断する。つっかえつっかえの老人の言葉を聞き逃さぬように必死に彼は脳に刻んでいく。


 豚のような男の住居はここから近い。それどころか暴行をした地点が住処だという。だが彼は探したがいなかった記憶もあった。


 彼がごみの家に少し顔を突っ込んでいく。


 冷めた瞳と老人との距離が近づき、悲鳴に近い声が老人から漏れ出した。幽霊に囚われたかのような底知れぬ恐怖が老人にはあったのだ。


 不気味すぎるのだ。無表情でありながら、冷酷な瞳を見ていると。人形が、殺意に芽生えたかのような姿に見えて仕方がないのだ。


「・・・探しても見当たらないんですよ」


 冷え冷えとした物言い。彼の言葉の感情の込め方はひどかった。何もこめず、淡々としているがゆえに切羽詰まったかんを出していない。そのくせ、迫りくるかのような問いかけがあるために、人を地獄に落とし込む悪魔の姿にすら見えていた。





「・・・い、いないのは知らんのですじゃ。もしかしたら隠れているのかもしれな・・・」


「・・・消えているという点は?」


「・・・奴にはここしかない。わしら全員、ここでしか住む場所はないんすじゃ。もしここから出ていくとしたら、死ぬしかないと・・・」


 嘘をついている様子はない。生きるだけの精一杯であろう老人は、彼から見てみればどこか焦っている姿に見える。彼に怯えているのを、彼から見ると焦る姿に変換される。


「・・・ここで住むしかない」


 彼の言葉には感情があった。それは現代のお話だ。残業代も休みもくれない企業に、勤め続ける社員たち。其の社員たちは、会社のルールに文句を言いつつも何故か働き続けている。ほかに良い条件の企業が沢山あるというのに、そのブラック企業に自ら縛られ続けていく。


 洗脳なのかもしれない。ここが生きる場所であり、死ぬ場所だと。ブラック企業の社員たちと同じように、呪縛されたかのような毎日の労働。この会社しかないと思い続けて、日常を誤魔化す社員たちと路地の住人達は同等である、と。



「・・・わかりました」


 納得した。自分勝手の思考で、彼は勝手に納得した。現代のルールに当てはめて、理解できない部分を理解する。犯罪者が問題がばれたら現場から逃げる。そういった常識が、ブラック企業の常識と当てはめることで彼の中でつじつまがあったのだ。


「・・・これはお礼です」


 彼はポケットから銀貨を二枚ほど取り出し、ゴミの床においた。老人の足元近くの床にそっと置いて、彼は顔をひっこめた。


「・・・別の場所を探そう」


 二匹に言い含めるとごみの屋敷から興味をなくし、すたすたと歩いていく。この場所のどこかに隠れ潜む。彼から逃げているという点は、彼の脳内にはない。あくまで豚のような男が逃げているのは、国の衛兵とかから逃げていると考えていた。



「・・・」


 彼は何も言わない。すたすたとゴミや路地の住人達の脇をすり抜けるように歩いている。知性の怪物と名高い存在が、近づくたびに住人たちは逃げるように隠れていくだけ。何事も平和に進む。



 そして時計が1時間が立ったことを知らせる。路地に入った時間から、ちょうど一時間を差す時刻に針が進んでいたのだ。


 一時間の浪費をもって、彼は見つけ出した。広くても狭い路地。住処から遠く離れることもできないであろう呪縛。その呪縛のルールをもって、彼は暴行現場の近くで探し続けた。



 ちょうど怯え怯えに戻るであろう豚のような男。両手に抱えたゴミの束。そのゴミは食料たちだ。通りの住人たちが日々捨てるゴミたちを漁り、それを日々の食事へと変換していたのだ。


 彼という存在が消えるまで、見つからないようにヒソヒソと生きる裏の住人。体臭がひどく、それを暴行において武器とする最低の屑。


 おびえつつ、必死に生きる豚の男が。


 暴行現場の真ん中で、二匹の魔物を背後につれた人形を見た。その瞬間、がくりと尻もちをついた。逃げるために、生きるために、希望をもつために。必死に隠れて目立たないよう、彼の視界に入らぬようにしていた男に救いはない。


「・・・会いたかった」


 彼は本当に会いたいと感情をこめている。目的を見つけた達成感が、彼の心を占めている。ただ、その達成感は少しばかり暗いものだ。口端が僅かばかりに広がった微笑、されど冷めた眼光が男を貫くようにとらえている。


 蛇に睨まれたカエル。


 人形のような彼の視界にはいった瞬間に、両手の食料はその場に散らばり、心臓がばくばくと鼓動を立てる。


「な、なんでここに?」


 尻もちをついて、動けない。両手を真後ろに支える体制で上体だけが上がった状態。咄嗟に動けない。手の置く場所にはゴミがあり、体制を整えようにも散らばったゴミたちが邪魔。男の怯え気味の言葉にも彼は動じない。



「・・・なんで?・・・探していたので」


 淡々と言いつつ、人形が微笑を作る。人間が壊れ、感情を亡くしたかのような人形。その人形が必死に人間の振りをしているであろう微笑の前には、もはや生きた心地はなかった。



「お、俺を殺すのか?」


「・・・殺しません、ただ恨みが怖いんです。報復が怖いんです。だから・・・少しばかり」


 彼は一歩踏み出した。独特の間を込めた会話。一つ会話するたびに区切りが入り、続けようともしない途切れ途切れの会話。人の感情を逆なでしに、暗い感情を引きずり下ろしていく。暗い感情とは恐怖。恐怖をもって、男は人形を見ていた。


「う、恨みなんて持っていない」


 格上の相手に恨みを持つ。それをすることで裏の住民たちの寿命は大きく変わる。生きるということは、恨みをすてること。報復するということを捨てること。表の住人が持とうとも、裏の住人が持つには豊かすぎる感情だ。日々生きる、生きていく希望を得るために暴行をする。


 それだけしかない男の前に。彼の言い分は伝わらない。


 殺さないという事は、死んだ方がましであるという目にあわされる。そういった危機感からか、男の焦りは尋常じゃなかった。


「た、頼む!俺は、!少なくても何もしない!あんたには勿論、あの女にもぜったい手を出す気はない!!」


 淡々と迫りくる無の化身。幽霊のようにゆらゆらと歩みよるくせに、背後にいる二匹の魔物は獲物を見る目で、彼に続いて迫りくる。


 言い分なんて意味はないのかもしれない。


 だが必要でなくても、意味がなくても言い続けるしかなかった。そうでなければ心臓の鼓動に耐えられないのだ。


「おれは、絶対に」


「・・・まあ、いいんですが」


 彼と男の距離は近い。男の尻もちついた状態の足元に、彼の二本の足が直立している。微笑を浮かべ、男を見下ろす眼光。感情も殺意も消しきったかのような無。


 彼は何をすべきか見つからないのだ。見つけるまでは殴るぐらいの気持ちでいたが、いざ物事となると途端に気弱になってしまっていた。やる前は元気でも、やる直前は気落ちする。そういった反応が彼の心に渦巻いていた。


 殴るといった行為も意味はない。殺すといった行為は野蛮すぎる。文明人であるがゆえに、問題を起こした相手であろうと暴力に踏み切れなかった。


 結果勇み足に近いものになっていた。


 屑であろうと、相手は人間。人間が必死にわめき、尻もちをつく姿は十分に無様だった。その姿を見るだけで彼は満足していたのかもしれない。


「・・・次という考えは嫌いですが、次やったら切り落とします」


 次回へと持ち越し。彼はこの都市に来る予定はもはやない。だが脅しは脅し。かけておくべきものはかけておこう。保険をかけて、安心感を多少得ようとしたわけだ。彼が行動した意味を無意味じゃなくするために、脅し保険を少しばかりかけた。これで少しは、そういった犯罪が減ればいい。そういったものだった。


 彼は衛兵ではない。彼は正義の味方ではない。


 この都市の事は都市が解決すべき問題だ。


「わ、わかった。・・・それと一つ聞かせてくれ・・・な、なぜあの女の」


「護衛対象だから・・・・それではいけません?」


 酷薄とした微笑となった彼、目的間近なのか。面倒臭くなったからか、臭い環境から出ていける間近になって、少しばかり喜びの感情があった。



 だがその笑みを見て、深くなっていくのは男の絶望だ。怪物の護衛対象に手を出したという意味。その意味をしらないわけでもない。



 次につなぐ言葉は男にはでなかった。冷や汗と爆発しそうな心臓の音、それらを体に刻みながら男は見届けた。くるりと反転し背中を見せた人形。人形の背中が離れていく、何事もなかったかのように。背後の二匹も文句を言わずに、人形へと続く。



「・・・お、おわった」


 男にはわからない。豚のように横に広がった脂肪。全身から漏れ出す悪臭。恐怖の時間は終わった。人形が視界から消え、安心感が再び戻ろうとした。だからこそ、動こうとした。


 だが動かない。


 上体が上がっただけで、両足が動かない。立とうとしたら動かないのだ。上体は動く、両手も動く。だが足は動かない。


「・・・な、なんで」


 見てみれば、足に何かが絡まっていた。白い絹のような細い束が、いくつもの白い糸たちが足と地面を縫い付けるように固めていたのだ。


 両足の力では動かない。びくともしない。



「・・・おいおい、た、助かったんじゃ」


 こんな芸当を熟すのは一人しかいない。先ほどの人形である知性の怪物ただひとり。知性の怪物の邪魔をすれば、報復される。それは何倍にもなって痛みを伴う。動けない緊迫感、焦りが男の感情を動かしていく。


「た、頼む!!!お、おれは二度とあんたの邪魔はしない!!!」


 叫びが焦りが、言葉となって広がっていく。冷や汗どころか、両目からは恐怖の為に涙すらあふれだしている。


「助けてくれ!!あんたの!あんたの邪魔をしたわけじゃないんだ!!!ただ知らなかった!!!知らない女を襲っただけなんだ!!!!!」



 男の脳内になるのは、知性の怪物の仕業というところ。実際は彼の仕業ではない。オークでもリザードマンでもない。彼が消えて、安堵感から一瞬男が隙を見せたときに、糸は張られたものだ。


 彼は。彼自身は何もやっていない。


 だが男は何も知らない。男の叫びが路地に響き、彼という存在から逃げ惑う周りの住人たちもここにはいない。だが響いた声だけは、路地のあちらこちらに届く。


 声が事情を察しさせる。何かがあって、酷いことが発生している。そして路地に入り込んだ怪物の情報と、怪物が探していた相手の存在。幾つもの伏線が裏の住人達に憶測をたてさせ、その悲鳴が響くところには近寄らせない。



 これが怪物の恐ろしさ。人の壊し方をしる悪意の権化。


 豚のような男が恐怖にわめき、わめいた声は情報となって伝わっていく。


 糸に両足を囚われ、それを引きはがそうと男の両手が必死にひっぱる。糸を掴み、ひっぱっても切れるようすはなく。厚い糸の層が、表面だけしか引っ張らせない。


 絶望感だけが高まり、焦りを更に増加させる。


 命乞いだけの悲鳴だけが上がり、助けを呼んでも逆に誰も来ない。



 そんな中、ごみの中を進む音が男の背後から聞こえた。複数の足音なのか、少し近づくたびにゴミをける音、踏む音、床を叩く音。色々な音が少しの時間から男の耳に届く。


「た、たすかった。たのむ、この糸を・・・・・ほ・・・どい」


 両足を縛る糸をゆびさし、男は振り返る。希望をもった一面からか、泣き顔に笑みが少し浮かぶ。だがその言葉も背後の存在を捉えた瞬間に固まった。表情も、何もかもが硬直した。


「いやだ・・やめてくれ・・・なんで・・・」


 男の目に映る、その存在。それは人間ではない。人間に近い半身はあれど、その足がもはや人間ではない。蜘蛛のような複数の足が、ごみを蹴り飛ばし、床を叩き、ごみを分で近づいてくる。にたりにたりと指を口にくわえる存在。


 魔物アラクネ。彼の魔物パーティーで最も知性を持ち、無邪気さに支配された魔物。


 知性の怪物の魔物たちの情報も都市に住む人々の裏表関係なしに広がっている。魔物アラクネやトゥグストラといったAランクの魔物は特に有名だ。破壊力のトゥグストラ、残虐性のアラクネ。


 その残虐性で有名なアラクネが指をくわえて、にたりにたりと意地悪な笑みを持っているのだ。


「くきゅ」


 子供らしい体格であれど、伝える言葉は鬼畜そのもの。


 それは称賛だ。男に対してではなく、彼に対してのもの。



 あの無気力、あの面倒くさがりなところ、かといって慎重なところ。無駄な要素を無駄に蓄えた、干からびた彼。その彼がもたらす矛盾と、生み出す人々の恐怖。それのハーモニーを聞くたびに、アラクネは心の底から震え上がる。


 美しい。


 男の鳴き声と、彼の無駄な行動。無駄であろうと動いた彼と、その結果に捕らわれて恐怖をみせる男。その姿は美しかった。


「くきゅ」


 彼は甘いのではなく、動かないだけ。動かないだけであっても、極力努力しない。アラクネは知性がある、知性があって歪な魔物だ。人間らしい魔物であり、弱肉強食の魔物世界でも魔物らしい存在。



 彼は美しい。傍にいるだけで、普段の動作が嘘みたいに思える結果を生み出す。その結果だけでなく、自身の味覚にあう食事、抱き心地。食事の腕は普通であれど、アラクネは何よりも彼が生み出したものが好きだった。何も才能がなくても、何もできないわけじゃない。何もできないなりに努力して作る料理と、子供を接するように抱き留める彼の暖かさ。


 彼に敬服しているわけではない。だがお気に入りではある。なついているというより、居心地がよいのだ。殺したいとは彼に対してだけは思わない。


「くきゅ」


 殺してしまったら、何を楽しみに生きればいいのか。


 雲は男にゆったりと迫る中で、思いにふける。



「くきゅ」


 雲が近づくたびに、男の震えも恐怖も最高潮へと達していく。いやだいやだと喚いて、叫んで。恐怖によって沈む成人の姿。


「くきゅきゅ」


 男の姿が怯えるたびに、雲の心は愉快さに飲み込まれる。子供らしく無邪気なくせに、獲物を捕らえた瞳が男から離れない。



 アラクネの雲は背後から正面に回るように、進む。手を伸ばしたところで届かないであろう距離にて円を刻むように雲は正面へとたどり着いた。




「くきゅっきゅっきゅ くも きゅっきゅっきゅ」


 初めまして、雲です。そして、さようなら。


 雲は挨拶と別れを述べた鳴き声をもって、口にくわえていた指を外に放つ。口から唾液のようにへばりつく白い糸が指に絡まり、指を遠くに伸ばせば、伸ばすほど糸が口から伸びていく。


 アラクネは蜘蛛の魔物だ。口、足。色々な器官から糸は作り出せる。今回雲は口から糸を作り出し、指へと絡めているが。


 片手の指につくると、今度は逆の手を口に入れ同じように糸を引き連れて外へと出す。



 男を拘束する糸は雲が生み出した糸。雲が男の安堵した一瞬のスキをもって飛ばした糸。その糸と同じように、男の前で再現して作りだして見せた。


 無邪気そうな笑みをもって、獲物を見つめている。巣にかかった食事を見るかのような残酷な子供の目。それが男の視線とぶつかった。


「・・・あっ」


 指に伸ばした糸は、前方に跳ねるように飛んでいく。途中カーブを描くように、空中から下へと糸が方向を変える。その矛先、ねらい目は男の両手だ。雲の両手で作り出されたそれぞれの糸が左右同時にカーブを描き、男の両手にぶつかった。


 男の両手を縛るための糸ではなく、それは別の目的のものだ。


「・・・な、なんだこれ」


 男の両手は、男の意志とは関係なく動く。唖然とした様子で自身の両手を見つめだす男。その両手は後ろに回していたはずだった。それが今では男が良く見える腹部の位置あたりで、両の手のひらを見せていた。軽く反転させるように、くるくる回っている。手のひらフリフリとわざとらしく、操られている感。男は両手を見て、アラクネをみた。アラクネが両手を軽くふりふりすると、男の両手も連動するようにフリフリしている。



 マリオネットの人形。人形を操るように、雲が男を操っている。子供らしく無邪気そうな笑みを浮かべて、やっていることは人形扱い。


 にたにたとアラクネは男を獲物みたいに観察していた。現在の状況がつかめないといった男は困惑と焦りが考える時間を与えない。



 アラクネは自分の両手を、自身の首元へ近づけた。両手の親指がそれぞれの首の側面に固定。ほかの指たちが首の中心に固定。そういう位置でわざとらしく固定した後。



「くきゅきゅ」


 楽し気に笑みを見せつけた。先ほどよりも濃くなった酷薄さ。無邪気といいつつ、いたずらをするかのような残酷性。子供は残酷である。何事もやることに理性がない。




 そして、男の指もアラクネと同じ動作をしていた。男が同じように自身の首を掴む。アラクネの指と必ず連動するというわけじゃない。アラクネが行動を起こしてから数秒後に男の両手が動き出したのだ。それも動作が同じというわけではなく、無駄に手をふりふりさせながらという嫌がらせつきで。



 自分の姿を一番見れないのは自分。だからこそアラクネは第三者らしく、見せつけたのだ。首筋に向けて手を作り。操っているよと見せつける。



 アラクネと男の両手が首を掴む、その中でアラクネは自分の首から手をはなした。だが男の両手は首から離れない。


 アラクネの雲の笑みが変わらない。


「・・痛っ痛っ ・・・・おい・・・やめろ・・・それはやめてくれ!!」


 男の指が、爪が、自身の首へと突き立てられていく。痛みを伴い、鮮血を作る。爪が食い込むたびに、血肉が量産され、剥がれた肉がごみの床を汚す。傷が浅いゆえに、あふれた微小の血が首から垂れて、上体を汚していく。



「おまえ、、おまえ!!こ、ここまでするのか!!!こんなことをするのか!!!普通に殺せばいいのに、こんなことをするのか!!!」



 叫び、泣く。痛みがあるから怖いのではない。死ににいく恐怖があるから怖いのだ。殺されるわけではなく、自分で首をえぐり取っていく恐怖。首の皮や肉を爪がはがし、指が気道を占めるように圧迫していく。



 知性の怪物という存在は。


 人間のやり方を知らないらしい。


 両目から垂れていく悲鳴の涙。汗と痛み。これから死へと自身で送り届けられる痛み。表情が絶望へと歪み、かといって口から漏れ出すのは怨嗟と助命。


「たすけて!!!」


 会話が出来る程度の締め付ける力、それでも自身の指が血肉をえぐるのは止まらない。いつしか爪がはがれた痛みもあった。だが爪がはがれても、えぐり取られた傷口を更にえぐるように指が食い込んでいく。


「こ、こんな死に方はしたくないよお!!!」


 子供のように喚く。自身の誇りも、プライドもない。殺されないための助命など幾らでもできる。土下座だって出来る。弱いものを狙う姑息さもある。


 だが、こんな自殺は嫌だった。自分の意志とは関係なしに、自分の手で自分を殺す。



 死へと近づくにつれ、意識が遠のいていく。痛みも徐々に消えていき、移るのはアラクネの姿。にたにたと男が苦痛に塗れても、その表情は変わらない。


 愉快気に楽しそうだった。



 そして男は意識を永遠に落とした。戻ることもなく、恐怖に満ちた表情を浮かべたまま命を落とした。アラクネは面白かったいわんばかりに、拍手を繰り出した。男の両手は自分の首筋についたまま、地面に背中から倒れこんでいた。


 拍手が終われば、後片付け。男の両足についた糸と、両手についた糸を片手で引っぺがす。男がいくらやっても外れなかった足の糸も、アラクネは簡単に引きはがした。




「くきゅきゅ」


 死体を見ても、無邪気さは変わらない。遊んだあとは片づけ、食事をしたら食器を片づける。彼の教育の賜物だ。悪い意味であれど、片付けは片づけ。彼が教えたことを、雲はしっかりと行った。男の遺体はそのままに、自分の痕跡だけは掃除していく。


 そして、きれいになったところで駆けるように動き出した。彼よりも先に戻る。牛さんたちが戻る前に彼と合流する。その目的をもって、動き出していた。

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