彼の活動 2
帰りの足取りは重い。実際は商人には認められたが、彼には商人に認められなかったという認識しかない。
どす黒い影を周囲にばらまきながら、ふらつく足をもって進んでいる。目的地は宿、自室へと向かっている。繁華街を越えて、まばらに人が少なくなった場所。
スラム町ではないにしろ、多少治安が悪いとされる区域。
先ほど商人に向かう途中にも通り過ぎた区域であり、帰りも通らざるを得ない。彼の宿と繁華街の中間にある区域だった。
いくら治安が悪かろうと、彼に手を出す愚か者はいない。ここはグラスフィール。持てる者、貧しいもの。色々あれど、他の町よりは遥かにマシな治安を誇る。また商人が多数ひしめき合う都市では、周辺の民たちですら情報通なのが多かった。
彼の悪名はとどろいている。
この町に潜む裏の住人たちから、酒場で酒を飲み食らう中年たちにまで。
各自の役職、立場に違いはあれど彼という情報は出回っていた。
何をしたか。何をするか。どんなことをもたらすか。色々あれどポジティブな話はなく、すべてはネガティブな悪評ばかりが漂っている。
この町は商人の影響力が強いのもあるだろう。情報通の民衆に加え、裏の組織たちの商売ですら、その筋の商人に頭を下げることが多い。
そんな街の商人には代表がいる。
その代表格が先ほど彼が合うことには会えたが、会話ができなかった相手なのだ。
その代表格はグラスフィールの都市に住む商人全てに、彼に敵対することはしないと宣言している。関わることに関して推奨はしないし、するならば勝手にしろというお触れを出してすらいた。
民衆も、裏も、表も。全てのものが彼を知り、彼の目を避けている。
とくに今の彼は、氷のような冷たい眼光と鈍よりとした重苦しい空気を纏っている。邪魔をするなと警告するよりも、邪魔をしたら殺すとまで言わんばかりの危険な雰囲気。
そんな彼の耳に悲鳴のようなものが届いた。
「助けてください!!」
悲痛な叫びが建物と建物の間の暗闇から響いた。その建物同士の感覚は狭苦しく、日の光が入る余地すらない。そんな人が好まない空間から聞こえる悲鳴にさしもの彼も視線を向けた。
暗くて見えやしない。
わずかな光すら入らない建物同士の密集具合。それが生み出す暗闇の奥から届く甲高い声。それらは一回ではない。何回も届く。最初よりも、強く。上がる悲鳴のたびに深い感情が込められた悲痛な重い。
「やめて!」
無視をしようとしたかった。
自分が駄目なときに、誰かの駄目な状況を出されてもとどうしようがないと。諦めたかった。だが彼の足は自然と暗闇に向かっていた。
誰かを助けるためではない。
悲鳴の正体を知りたいわけでもない。
好奇心がまさったわけでもない。
むかついたから、見に行くのだ。
「誰か!!」
彼の沸々とした怒りの感情が、理性を失わせている。失敗による自身への八つ当たり。そんなときに聞こえてくる誰かの失敗の声。
二乗に掛かる負担が彼の怒りを跳ね上げる。
短剣を抜き出し、暗闇の奥へ。見える視界はうす暗くても、完璧に見えないほどの暗さではない。進めば進んだだけの視界は確保できた。
彼には魔物はいない。
現状の武器は短剣のみ。
それでも彼は進んだ。
「やだやだやだ」
近づくたびに大きくなる声に。自然と彼は頬をひきつらせた。
建物と建物の間を抜けて、路地へと躍り出た。狭い道なのは変わらず、暗いのも変わらず。中途半端に刺した光が、治安が悪いと訴えかけるかのような演出を施す。
ごみが散乱し、虫や獣が生ごみを貪る醜悪な環境。
そこに誰かが倒れ、倒れた誰かに何かが覆いかぶさっていた。
倒れた誰かは服をはだけさせ、下着だけを何とか死守するように腕を交差させている。頬には何度も叩かれた後があり、暴力の跡がうかがえた。だがまだ未遂らしく、急かすように誰かの抵抗をほどこうと、何かが暴力をふるっていた。
胸糞の悪い場面だった。
倒れた誰かは、顔も知らぬ女性。表情や体格から見ても幼さを隠さない年齢だとうかがえ、必死に暴力をしている何かは豚のように太り、風呂にも入らず悪臭を漂わせる醜悪な男。またよく見てみれば女性の近くには、醜悪な男の体系は正反対でひょろっとした男が意地の悪い笑みを浮かべている。
イライラがとどまることを知らない。
進行する女性への暴行もそうだ。自分の失敗もそうだ。
彼はこれほど魔物がいてほしい状況と、いなくてよかった状況があった場面はない。魔物が居れば、ストレスを発散するように鎮圧しろと命じていたことだろう。女性への被害云々は考えずに、ただ潰せと命じていたことだ。
彼は底辺である。
誰かを助けるということは一切考えていない。
誰かを助ける力があれば、自分をまず助けている。
これは人助けではない。
薄暗い路地の世界に、闇が現れた。鈍よりとした湿っぽさと、刃物が生ぬるいといわんばかりの冷たい殺意。
最初に気付いたのは、女性に向けて意地の悪い笑みを浮かべていた男だった。そいつは彼を見つけ、最初は馬鹿が来たと笑みを浮かべていた。だが、彼の顔、姿。手に持つ短剣を目にして表情を一変させた。
ヤバいのが現れた、と。
英雄気取りの馬鹿が弱者を助けに来たという場面ではない。
この都市の民は誰もが彼を知っている。悪意も脅威も。ハリングルッズが云々の出来事すら、騎士団が知るよりも知っていて、騎士団すら把握できていない情報すら出回っている。
噂ではない。
事実である。
スラムもどきの住人ですら、知っている。
独特の空気、眼光、武器。何よりもの人を見る目ではない。犯罪者を見下すものでも、下劣な悪党を否定するようなものですらない。
獲物が居た。
そんな目立った。
ストレスと苛立ちから起こる、血走った眼。獲物を必死に追い付くろう獣がそこにはいた。ふらふらとした足取りでありながらも、殺気はばら撒く怪物。しっかりとしたものはなく、その場限りに食いつかんと迫るものに、自然と足は後退を余儀なくされた。
気付かないのは女性に覆いかぶさった男のみ。立っていた意地の悪そうな男だけが、気付いて逃げようと画策する。
戦うのは得策ではない。
そんなのは誰もが知っている。抵抗したら勝てるという目算はない。逆なのだ、抵抗をしたら消される。生きていたことすら後悔する手段で消される。そういうことを仕出かす相手、想像できてしまうほどの相手。
怪物は敵対をしなければ何もしない。そういう情報すら出回っている。
誰かを助ける目的で怪物は動かないし、そんな空気を纏っていない。誰かを心配するでも、助けるでもない。
その怪物の目は、幸い豚のような男と、悲鳴を上げ続ける女性にしか向いていない。
しくじった。
手を組む相手と、襲う相手を。
意地の悪そうな男は、ただ怪物に背中を向けないようにして徐々に後退を試みた。気付かれないはずはないのに、こちらを注視する気配を怪物はもっていない。
予想通り。
豚のような男か、もしくは女性が。
怪物の獲物だった。
豚のような男が獲物であり、必死に探していたとしたら。そいつと組んで女性を襲おうとした自身へのとばっちりがあるかもしれない。もしくは女性が獲物であったとしたら。怪物の獲物である女性を狙う自分たちも、とばっちりを受けるかもしれない。
だが、自分は逃げれる環境にあると確信したようだった。怪物の邪魔をしなければ、追われることも狙われることもない。敵意を見せなければ怪物は牙を見せない。意地の悪そうな男は、そのまま熊と出くわした人間が逃げるかのように、徐々に後退し姿を暗闇に消した。
場に残ったのは気付かないで、襲うことに夢中な輩と女性のみ。
その女性も彼に気付いたようだった。豚のような男の背後から音も影も隠して迫りよる彼に。そのくせ殺意と寒気だけを飛ばして迫る血走った怪物に。
「やだやだやだやだ」
豚のような男に汚されるのは嫌だ。だがこの悲鳴にあるのは、怪物の存在によるものでもあった。叫べば誰かが助けてくれるかもしれない。そういった逃避の心が叫んだ結果、とんでもないものを呼び出したようだった。
魔導士見習いであり、学業につかんと努力する幼い身。魔力も技量も平凡であり、都市にたまたま訪れ、たまたま襲われた不運な自身。
この都市の住人でもない彼女にはわからない。だが豚に迫る彼の気配は只ならぬものであると、救いにきたもののもの気配ではないと悟らせた。
汚されるとか、殺されるとかそういうレベルではない。彼の事を知らないが、彼がもたらすものは明らかにヤバいもの。悪魔とか怪物とかそういう類のもの。
豚の男は未だに気付かない。
怪物は鞘から短剣を引き抜いていた。男の背後で立ち止まり、しゃきんと言う刃物と鞘が当たる音が小さく鳴った。その音にようやく男は気付いたようだ。近くにいた輩もいつの間にか、掻き消えている。悲鳴を上げ泣き顔をさらす女性の視線は自分ではなく、背後へと向かっていることに。
冷たい感触が首筋に当たる。長年こういったことをすると感覚でわかる。当たっているものは金属であり、それが刃物であること。
背後に誰かが居て、そいつがやばい奴だと状況が悟らせる。逃げた意地悪そうな男は自分より弱いものにもひかず、多少強いものが相手でも威張る。そういうクズな奴だ。そいつは今はいない。圧倒的にヤバい奴が相手だと、気配を隠して逃げる癖があった。この都市で治安が悪いくせに長生きするコツを誰よりも覚えている奴が、今はいない。
この事実に男は納得せざるを得なかった。
ああ、なるほど。
振り返ることすらできずにいる。
殺される気配は今のところない。
首筋に息がかかった。悪臭がひどくても、変わらずにかかる生ぬるい息。豚のような男は自分の臭さを自覚しているし、汚さも理解している。これでも都市で長生きしている部類の屑なのだ。自己分析なんてとっくのまえに行っている。臭いまま、襲うと相手がものすごく嫌がる。その反応が好きだから、このままでいた。
息をしたくないほどだとは今までの相手の反応でわかる。
なのにこいつは近くで。首筋で息を吹きかけた。顔を近づけているのだ。顔を見ることはない。だが女性の視線が更に恐怖に迫っているのはわかった。暴力を受けていたときよりも、深い絶望の色。
何かがいる。
何かが悪意を持っている。
心臓の鼓動によって破裂しそうだった。自分の運の悪さを憎むということはしない。いずれこうなるだろうと自惚れてもいた。
「…うるさい」
聞こえたのは、そんな言葉だった。
醜態に対する嫌悪でもない。
「…お前たち、本気でうるさい」
地の底から迫る、感情のない声。
冷たい感触が首筋に圧力をかけている。刃物の腹の部分で首筋を圧迫されているのがわかる。背後に迫る輩が、悪臭をなんともせずに近づいていることすらわかる。
「…あ、あんたは誰だ」
危害を加えられてはいない。だが、振り向くことができない。場の空気を操るように、背後の存在の手のひらの上で存在している。
「…」
相手は語らない。息だけが首筋を襲う。
自然と女性に暴力を振るう手が止まっていた。女性も抵抗する手をを止めている。この空気、状況は何なのか。
ヒーロー気取り。あり得ない。これはそういう上っ面の良い存在が出せるものではない。暗殺者やら裏の住人が生み出す血の気配。あいにくこの都市の影響力を持つ裏組織にはそれなりに協力をしている。恨まれることは一切していない。
だからこそ、わからない。
裏切らなければ、裏切ってこないのが都市の裏組織だ。だからこそ治安の悪い場所に住み、悪癖の強いものは全て組織に忠誠を示す。そうして金銭と食料、または色々な悪事を見逃してもらっている。
これは報復ではない。
女性に向けての救援でもない。
顎に何者かの手がかかる。つかまれている。ほっそりとした手、鍛えてすらいず、苦労すら知らない手。そんな手が顎をつかみ、後ろへと引っ張った。抵抗すれば、力だけなら勝てそうと豚のような男は思った。だが、逆らう気力もなく、流された。
何者かの気配、その体に後頭部が当たる。その後冷たい感触は首筋から、顎の真下へと変わる。
相手の顔を窺おうと、視線を上げた瞬間。
「・・・・なっ」
悲鳴にもならない悲鳴が上がる。
血走った眼、冷たい眼光。闇の中から現れたかのような、存在。都市にいて誰もが語る、悪意の塊。
容姿、纏う空気、手に持つ冷たい感触の正体。短剣であり、横目で映る刻印。ハリングルッズのもの。人を見ることすらせずに、獲物としか認識しない。人間にして人間にあらず。
怪物だった。
噂の怪物が、ただひたすらに見下ろしていた。
怪物が、汚い自分の体を平気そうにつかんでいる。押さえつけている。女性を拘束する肉の鎖はなくなった。だが、女性は動こうとしない。必死に怪物を懇願するように見続けている。
「助けてください」
女性が懇願し。
「…死にたくない」
豚のような男が自身の犯した罪を棚に上げ、助命を求めている。
だが彼にあるのは。
「…うるさい」
激情にかられながらも、理性で押さえた冷たい視線だった。どん底に向かう愚者へと怪物の圧力が増す。
「わ、わたしは!!」
怪物の視線に耐えれずに、ただ自身の立場を語ろうと口を開いた女性。最初に出る言葉は自分は被害者という単語ではなく。
「…うるさい」
「っ!!」
睨み付けた怪物の圧力によって、小さな悲鳴を最後に口を開けれなくなった女性だった。
豚のような男の心に浮かぶ、楽しみを邪魔された怒り。それすらも掻き消すほどの、無慈悲の場面だった。加害者も被害者も関係なしに黙らせる。
「…騎士は何をしているんだか。商人は何をしているのか。冒険者は何をしているのか。衛兵もこの町の人々も。ここにいる愚劣な奴も、そこの学生も」
怪物の口から漏れ出す怒り。それは彼が外へと漏らす八つ当たり。
「…本当に何をしているんだ!どいつもこいつも!!」
初めて変わる怪物の表情。無表情であった人形が、眉間を寄せて感情を高ぶらせている。怒っている、感情を見せている。それなのに。
どこか演技くさいのはなぜなのか。この場にいる被害者たる女性も、加害者たる豚のような男も。ただ見せつけるかのような、演技のようなものに飲み込まれてしまっていた。
感情を高ぶらせても尚、彼の場合は演技に見える。
それが不気味だった。
感情を高ぶらせて、そして急に無表情に変わった。
変化が激しく、元に戻るのも早い。
「…どうしたら良くなると思います?」
加害者たる豚のような男の眼前には、怪物の顔が迫っていた。近くに、目の前に。
子供らしく尋ねるかのように。簡単に聞いてくる。
「…わ、わからな」
「…うるさい、さっさと答えろ」
意味が解らない。聞かれたから答えようとしたら、うるさいといわれる意味。怒るよりも呆れるよりも、不気味さが更に増した。
情緒不安定っぽく見せて、表情には変化がない。
何が演技なのか。
どこが怪物の感情なのか。
それすらもわからない。怖い奴には遜る。土下座でもなんでもする。そういう性格も強く、下劣な自身が、初めて戸惑う相手。死ぬとか、死なないとかじゃない。
訳が分からない。
怪物の顔が離れ、視線が女性へと向かう。
「…どうしたら良いと思います?」
同じ質問を投げかけた。
「・・・わかんないです」
加害者が問い詰められるならばわかるだろう。だが被害者も問い詰められている。意味が解らない状況、理解のおよばない場面。
下手気に応えることすら許さない圧力。
結局、豚のような男と同じ答え。それが屈辱だった。
「…はぁ」
怪物はため息をついた。無表情で。何回もついた。
そうして、怪物は手を放した。
男をつかんでいた手を放し、怪物は横へと避けるように移動した。後ろへの体を支えたものを失い、体制を崩し背中から男は倒れた。
痛みはない。けがもない。
だが立ち上がる気力はなかった。
地面から見上げる、怪物の姿。細身であり、小柄でもある。そんな相手が、体格だけなら弱そうな相手に翻弄された。年齢も若い。恐怖も悪意も全てを理不尽に操った存在、怪物を。見上げて、眺めて。
勝てると思わなかった。
戦いたくない、敵対したくない。年下とか、そういった相手に対する下劣な思考は浮かばなかった。
同じ人間だとも思わなかった。同じじゃないのだから、年齢なんて関係がない。
意味がない考えは、しない。やりたいようにやってきた豚のような男には、難しい考えだった。
暴力を振るわないで、人の心を掌握する方法を。このような人形だから。怪物だから淡々と行えるのだ。
噂は本物である。
怪物は、男の反応を待たずに背を見せた。後ろから襲われるとか考えていない怪物の姿。自身があるのだろう。心の折り方を。砕き方を。つぶし方を。心を握られた男には抵抗も反撃の意志も浮かばない。
災厄が立ち去るのを祈るだけだった。
怪物は背を向けて、また向き返った。
視線は女性に向かっている。下はそのままであれど、上は下着のみ。その彼の視線が欲望に塗れたものではなく、淡々としていることから興味すらわいてないことがわかる。
下には破かれた女性の上着。このままいても、襲われる可能性も、また人々に見られて心にダメージを追う可能性も。
少しばかり冷静になったというか、怒るのにも飽きた彼は、少しばかり状況を見渡す余裕ができたようだった。地面に転がる下劣な男には何もする気もなかった。男としては最低であり、屑だとわかる。
だが、それだけだった。身近にあるからこそ、近すぎて感情の湧きづらいものもある。これが遠い立場、新聞やテレビでみた情報ならば、犯人くたばれと言葉を吐き捨てるだろう。また冷静にもなり切れていないために、彼は自身の感情を抑えるだけで精一杯でもあった。
いつも通り余裕がないだけでもある。余裕があって見れる新聞やテレビと違い、余裕がなさすぎる現状は、自分の事だけで満腹なのだ。
だが少なくとも女性をこのままにしておくわけにもいかない。そういう程度の余裕はあったようだった。ジャージのような上着を脱ぎ、女性へと手渡した。彼は厚着を今回はしてなくても、二枚ぐらいは着ている。長袖ジャージから、半そでへとフォルムチェンジ。
体格は女性の方が細く、でかいだけで着る分には不足はない。
そして女性も深く考えずに受け取った。
「…上から着てください。それから人通りの多いところまで送ります」
多少の冷静さを取り戻し、女性を誘導するように手招きする。
助けに来た人間の態度ではない。ただ物を、動物を扱うかのような反応だ。こうなったから、こうすればいいというルールがあり、それに乗っ取っただけのやり口。
女性も何も言わずに、彼の言うことをそのまま実行し。下着姿は上着によって隠れた。恥ずかしさも、この状況による悲鳴も上げていない。
疲れたという感情と。
怖いという感情が。
羞恥心を砕く。
感情を亡くした人形のように、こくこくと頷き彼の誘導へと従う。彼の後ろへとついていく。その途中で彼の足が止まった。
地面に倒れた男へと顔を振り向いて。
「…貴方の事は覚えておきますから」
この状況、この場面においての死刑宣告を残して。男の顔から色が消えた。わずかに残った安堵も、恐怖も全てが一瞬なくなったかのような衝撃。
怪物のような存在が、自分を覚えて置く。
苦しんで怪物の手で殺されるという未来が、一言で想像できた。
地面に倒れた男が、震えている中、彼と女性はこの場を立ち去った。
それから少し経った。
意地の悪そうな男が戻ってみると、ごみのような場所に。ごみのような死体が転がっていた。
ここにあったのは豚のような男が首を掻きむしった男の死体。両手の爪には首筋の血肉が食い込み、一部は爪がはがれた指もあったほどのもの。自殺。
それもとても苦しい、首を掻き毟るほどの痛みを伴って。死体の浮かべた表情は痛みによる苦痛と恐怖によって張り付いた絶望の色。
殺されるまでもなく、自殺させられた。
「…え、えげつない」
自身が行ってきた行為すら生ぬるい。この分厚い奴の心を砕いて、自身の手を汚さずに殺害を行う怪物の手腕。
拷問のあとはない。首筋に迫る傷は豚の男自身がつけたもの。それ以外に外傷もなく、魔法を使ったかのような魔力の痕跡もない。
「…」
何も言えない。
怪物は、怪物であった。
「…」
沈黙だけが場を包んだ。
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